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戦艦大和について考える8
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 

「戦艦大和神話」確認その5「片道燃料」について1
06/01/29掲載 06/02/04大幅修正・追加
 はじめに                                          | このページの先頭へ |

 大和以下の沖縄海上特攻の艦船の出撃について、小さい頃から疑問に思っていたことが二つありました。 

  1. 大和以下の艦隊の名前は、「第2艦隊」。そして、戦艦大和以外は、軽巡洋艦矢矧1隻と、あとは、駆逐艦8隻。当時の日本海軍には、本当にこれだけの船しか残っていなかったのか?
  2. 連合艦隊からの命令では、「片道燃料」を積載してということだが、片道分しか積まなかったら沖縄についてどうするのか?本当に片道分しか積まなかったのか?

 先達の著書や資料をもとに、この二つのことについて今回あらためて調べていくと、実は一つの問題に帰結し、そしてそこに、太平洋戦争を語る本質の一つが存在していると感じました。

 今回は、それについての確認です。タイトルの片道燃料はなかなか出てきませんので、ご容赦を。


 石油をめぐる戦争                                            | このページの先頭へ |

 太平洋戦争の重要な原因の一つが、石油などの資源をめぐる争いであったことは、誰も疑いを入れないでしょう。
 高校の教科書にも次のように書かれています。

「ヨーロッパではドイツが圧倒的に優勢となり、イギリスだけが抵抗を続けている状態になると、日本では陸軍を中心に、ドイツとの結びつきを強め、対アメリカ・イギリスとの戦争を覚悟のうえで欧米の植民地である南方に進出し、「大東亜共栄圏」の建設をはかり、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を求めようという主張が急速に高まった。」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説 日本史』(山川出版 2005年)P336

 日本のこの動きが逆に対日経済封鎖(1941年8月アメリカ、対日石油輸出禁止措置発令)を生み、日米交渉も決裂して、パールハーバー奇襲となりました。

 というような話は、どこにでも記述されていますから、ここでは、「目から鱗」の話として、現在と当時の石油に関する、「普通の教科書にはないデータ」を交えながらお話しします。 


<石油に関する普通の教科書にはない知識 その1>
 戦前も現在も、日本国内からはほとんど石油がとれず、消費量の大部分を輸入に頼っていることは変わりありません。

 日本国内では、新潟・秋田・北海道で原油が採掘されていますが、その産油量は、現在では、年間70万キロリットルを上回る程度で、国内の総消費量の0.3%程度でしかありません。
 逆に言えば、
消費する原油の99.7%にあたる、2億5,460万キロリットルが輸入されています。
 
1938年の日本の内地産油量は年間36万キロリットルであり、当時のそのほかの原料から製造されたものと合わせても、国内の総消費量500万キロリットルの10%程度しか自給することができず、90%程度を輸入に頼っていました。

 ここで注目すべきは、現在と戦争直前との石油消費量の違いです。
 現在では原油に換算して1日約70万キロリットル分を消費するのに対して、戦前は、1日1万3500キロリットルほどしか消費しませんでした。現在の約52分の1です。今の石油付けの生活とはずいぶん違っていることが分かります。ただその分だけ、全体の中で軍需用の比率が高くなっていることはいうまでもありません。
 

表1 現在と戦前の原油の国内生産・消費・輸入割合

戦前(1940年)

比較項目

現在(2003年)

約36万キロリットル程度

年間国内原油生産量

約70万キロリットル

500万キロリットル程度

年間国内原油消費量

約2億5500万キロリットル

90%

海外依存率

99.7%


戦前の日本国内の石油生産は、現在も行われている、新潟県・秋田県の他に、北海道石狩地方でも行われていました。

このページの戦前の数値は、
「神戸大学戦前期新聞経済記事文庫」(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html )の 石油(工業及鉱業) 第12巻1938.5-1943.2 (http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/vlist/sek212.html )の記事から多く引用しました。非常に有益なデータベースです。


 戦前は現在と違って、南樺太、朝鮮半島、中国のリャオトン半島、台湾を領土とし、満州国を事実上の属国としていました。現在よりは、はるかに広い領土だったのですが、上記の海外領土からも、大量の石油は産出されていませんでした。

現在の中国東北地方には、かの有名な大慶油田があります。
2005年には、原油生産量が約4495万トン(
約5000万キロリットル)、天然ガスが約24億4295万立方メートルという大規模な油田です。これが満州国の時代に開発されていたら、日本の進路(外交)も、変わったに違いありません。

 現在と戦前とでは、大きく異なっていることが一つあります。日本の石油輸入相手国が異なるのです。
 次図は、お馴染みの、現在の日本の原油輸入相手国です。


 最近では、サウジアラビアに変わって、アラブ首長国連邦(UAE)が輸入相手国の第1位ですが、まあ、それでも「原油は中東諸国から来る」という常識は変わってはいません。
 ところが、戦前の輸入相手国はこれとはまったく違っていました。

 なんと、ライバルのアメリカが85〜86%を占めるという状態でした。

 戦前の日本は、石油精製設備は今日のように発達しておらず、アメリカからの輸入は、原油だけではなく、ガソリンなどの石油製品も含まれていました。そのため、うえのグラフは、「原油輸入」ではなく、「石油輸入」となっています。

1937年7月の日中戦争の開始以来、政府は「ガソリンの一滴は血の一滴」などのキャンペーンを行っており、民間消費分が抑制された結果、輸入総量は減少しています。しかし、対米依存率は、一貫して85%〜86%です。

 よりにもよって何でライバルのアメリカから石油を輸入しているのかと思われるかもしれません。しかし、これも、当時の世界の原油産出の状況を見れば納得できます。

 現在と違って、中東地方での大量の原油採掘は行われておらず、アメリカ1国が、世界の56.2%の生産量を誇っていたのです。20世紀前半の時点では、自動車にしろ、電気にしろ、アメリカ社会を中心とする一部国家のみが石油の恩恵にあずかっていた状態だったのです。

<用語解説>

原油の計量単位

1バレル=158.987294928リットル≒159リットル
原油の比重は、特軽質原油の0.8017未満から軽質原油の0.8107− 0.829、中質原油の0.830−0.903、重質原油の0.904−0.965、特重質原油の0.965以上と様々であり、重量と換算する場合は、平均的に、1キロリットル=0.9トンで換算すると、概ね一致します。


 石油資源地帯の奪取                                      | このページの先頭へ |

 大東亜共栄圏の政治的本質は別として、少なくとも、そのアメリカへの経済依存からの脱却を目指して対英米戦争を企図した以上、戦争の戦略的目的の最大のものは、東南アジアの油田の早期占領と、そこからの日本への安定した原油輸送の維持でなければなりません。
 香港や、マニラや、シンガポール、ジャカルタといった英・米・オランダ軍の本拠地の占領と同時に、当時イギリス領とオランダ領に別れていた
ボルネオ島(現カリマンタン島)、オランダ領だったスマトラ島などの油田地帯の占領が速やかに進められました。


<石油に関する普通の教科書にはない知識 その2>
 東南アジアの油田といっても、どこにどんな油田があるのでしょう。また、上記の、世界各国別生産量には、東南アジアの地域は登場していませんが、日本の消費量を満たすだけの生産量はあるのでしょうか。

 まずは、東南アジアの油田や製油所を示した地図です。
 戦前の東南アジアの主な油田をで示しました。
 ボルネオ島の4大油田ブルネイミリタラカン島バリクパパンスマトラ島のパレンバンなどです。

 では次に、これらの地域の原油生産量はどのくらいだったのでしょうか。

 1940年の東南アジア地域の総生産量は、1139万キロリットルです。
 図2のように、日本の1年の総輸入量は
448万キロリットルでしたから、十分におつりが来る生産量です。
 これらの地域の中では最大の生産拠点である、スマトラ島
パレンバン周辺の油田だけでも、年間生産量は、470万キロリットルほどありました。
 この地域をうまく占領できれば、
少なくとも石油に関しては、日本の経済的自給自足が可能となるのです。

 日本軍は、日米開戦(1941年12月)の翌月の1942年1月からこの地域に次々と陸軍を上陸させ、占領しました。

 油田地帯には採掘のための油井と、石油精製施設があり、日本軍が最も願ったことは、これらの施設をできるだけ敵に破壊されずに占領することでした。いくら敵を追っ払っても、施設を完全に爆破されたのでは、元も子もありません。

 そのために、大胆な作戦も採りました。
 たとえば、1942年2月14日(シンガポール陥落の日の前日)には、日本陸軍はスマトラ島の
パレンバンに陸軍最初の落下傘部隊を降下させ、奇襲攻撃を敢行しました。
 これによって、
パレンバンに2カ所ある製油所(スンゲイゲロンとプラデュー)のうち、1カ所(前者)は、連合軍の計画的な爆破によって大半が焼失しましたが、残る1カ所(後者)は、比較的少ない損傷で、占領することができました。また、パレンバンの西にある油田地帯は、ほとんど無傷で占領することができました。

NHK取材班『ドキュメント太平洋戦争1 大日本帝国のアキレス腱 太平洋・シーレーン作戦』(NHK出版 1993年)P57など 


 石油需給見通し                                       | このページの先頭へ |

 開戦前に、政府は、石油の需給見通しについて、どのように考えていたのでしょうか。
 計画では、次のようになっていました。

 表1 石油消費見込みと物動計画(単位キロリットル)
海軍 陸軍 民間 予定総消費量 予定供給総量 南方還送量 国産量 備蓄分から
280万 100万 140万 520万 1942 520万 30万 60万 430万
270万 90万 140万 500万 1943 500万 200万 60万 240万
250万 95万 140万 485万 1944 510万 450万 60万 −25万

三輪宗弘前掲『太平洋戦争と石油』P146などより作製

表中の「南方還送量」というのが、東南アジアの油田地帯からの輸送量

 この量はあくまで計画ですから、あとであげる実際の量とはずいぶん違うことになります。 
 しかし、とりあえず、うまい計画となっていました。
 年間消費量分を供給するために、
1年目は戦争前から備蓄してあった分を430万キロリットルも食いつぶしてしまいます。1941年8月のアメリカ対日石油輸出禁止措置の時点で、備蓄量は840万キロリットルと平時の約2年分あったといわれています。

  
ところが、南方からの還送量が、第1年目30万、2年目200万、3年目450万と増加していけば、3年目からは、逆に、供給量の方が多くなって、また、「−25万」分、つまり、25万キロリットルを備蓄に回すことができるという計画でした。つまり、東南アジアの油田地帯を手に入れれば、あとは大丈夫という計算だったわけです。 

開戦前の備蓄量としては、複数の資料による数字があがっています。ここでは、次の書物によりました。

藤原彰著『昭和の歴史5 日中戦争』(小学館 1982年)P324


 石油資源地帯から日本への輸送                                   | このページの先頭へ |

 この計画を実現すべく、東南アジア油田地帯の占領にあわせて、民間の石油会社の技術員からなる「石油部隊」が編成され、占領後に油田地帯に送り込まれて、施設の復興と生産再開の努力をしました。
  実際、パレンバンのように比較的うまくいったところもありましたが、全体的には、破壊されてしまった施設が多く、すぐに生産再開というわけにはいきませんでした。ボルネオの旧オランダ領のバリクパパン周辺の油田などは、油井のひとつひとつが入念に破壊されていました。
 しかし、「石油部隊」の奮闘の結果、予定よりも早く、生産は再開されました。
 
パレンバンからは、占領から僅か4ヶ月後の1942(昭和17)年6月に、日本へ向けての最初のタンカーが出発しました。さらに、精油所も1942年9月に生産を開始しました。

 この結果、すでに1942年から、予想以上の生産量を達成することができたのです。以下の表には、現地での生産量が示されています。
 1942年の段階で387万7000キロリットルを生産し、さらに、翌1943年には、なんと743万9000キロリットルを生産しました。生産量的には、予想以上の十分な数字です。

「石油部隊」は、新潟などの国内の石油掘削の技術員、地質調査関係の技術者、大学の研究者などから構成されていました。特に採油関係は、日本石油・昭和石油・日本鉱業・三菱石油・丸善石油などの会社の技術者等で、終戦までの間に、総数6719名が東南アジアに派遣されました。これは、この時代の日本の石油企業の技術関係の人員の70%を動員したことになります。戦争末の連合軍の反撃や、輸送船の沈没等によって、このうちの1600人以上(23%強)が戻らぬ人となりました。

島津光夫前掲書『新潟の石油・天然ガス』P97

この表でいう人造石油とは、石炭の乾留や、油母頁岩の乾留によって得られるものです。アルコールやアセトンは、これとは別に代用燃料としてガソリンの代用に使われました。
これ以外に戦争末期には、生徒等を動員して、松根油の生産が行われました。松の根を掘り起こしてそれを乾留し、それを製油所で分解すると航空機用の代用燃料が採取できるということでした。1945年には松根油を1万1000キロリットル生産し、代用燃料480キロリットルを生産したといわれています。

島津前掲書P101

 問題は、これらが、どのくらい日本へ運ばれたかです。
 現地で生産することと運ぶことはまた別の問題です。
 上の表2のどこかをクリックしてください。?の部分が数字に変わります。

 
1942年は生産量の38.4%の148万9000キロリトル1943年同35.5%の264万4000キロリットル、そして、1944年は僅か同21.2%の106万キロリットル、さらに、1945年は、統計的には限りなく0%に近い数字となってしまいました。
 問題は、生産能力ではなく、輸送量にあったのです。
 これが、大和の「
片道燃料」を生むことになりました。(1ページに1回ぐらいタイトルを入れておかないと、何の項目は分からなくなってしまいます。(^.^))

 では、なぜ、そのような先細りの輸送実績となってしまったのでしょうか。これについては、ページを改めてレポートします。(大和の出撃までは、まだまだです。(-.-))


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