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戦艦大和について考える4

戦艦大和について考えます。その実像とは?

 
「戦艦大和神話」確認その1 大和誕生の背景 06/01/08 記述追加
 はじめに                                                  | このページの先頭へ | 

 職場で聞かれました。
「戦艦
大和って、何でそんなに人気があるの?武蔵ではダメなの?同じ大きさの戦艦なんでしょう。」
 この質問者は、私とほぼ同じ世代の同僚の教員ですから、一般的に言って教養のある方です。ですが、教員といっても、また同じ世代といっても、私のように、旧帝国海軍に詳しい人は、当たり前ですが、ごく少数です。
 
 そんな多数派の方のために、このコーナーでは戦艦大和について解説します。
 もっともただの解説ではなく、これまでの「通説」をちょっと別角度から見た、目から鱗の解説になれば幸いと思っています。なるべくですが・・・・・。

 また、ここに書くことは、目から鱗の別の項目「○昭和前半の時代は何だったのか」で書いている内容と密接に関連がありますそちらもご覧ください。(こちらです。

 このシリーズでも、「○昭和前半の時代は何だったのか」と同じ思いで、合理性とリアリティを忘れてしまったあの時代の日本の「狂気」を検証し、それとともにその時代に短く生きた群像に思いを馳せることができればと思います。


 大和建造の歴史的経緯                                        | このページの先頭へ | 

 1941年からはじまった太平洋戦争中に、日本海軍が保有していた戦艦は、以下の合計12隻です。
 ちょっと専門的ですが、今後のストーリーの展開上、細かく掲載します。
 
 そして、ここでクイズです。
 
この表からは、高校の日本史の教科書にも登場する事項が2点読み取れます。どれとどれでしょう?

第1表 旧帝国海軍の太平洋戦争時の戦艦一覧

形式 型名 艦 名 完成年 主砲の大きさ×数 建造場所
巡洋戦艦
(太平洋戦争時は戦艦に区分)
金剛型 金 剛 1913年 36cm×8 イギリス
比 叡 1914年 36cm×8 横須賀海軍工廠
霧 島 1915年 36cm×8 三菱重工長崎造船所
榛 名 1915年 36cm×8 神戸川崎造船所
戦艦 扶桑型 扶 桑 1915年 36cm×12 呉海軍工廠
山 城 1917年 36cm×12 横須賀海軍工廠
伊勢型 伊 勢 1917年 36cm×12 神戸川崎造船所
日 向 1918年 36cm×12 三菱重工長崎造船所
長門型 長 門 1920年 41cm×8 呉海軍工廠
陸 奥 1921年 41cm×8 横須賀海軍工廠
大和型 大 和 1941年 46cm×9 呉海軍工廠
武 蔵 1942年 46cm×9 三菱重工長崎造船所

※泉江三著『軍艦メカ図録 日本の戦艦上』(グランプリ社 2001年)などより作成

<用語解説>

戦艦・巡洋戦艦

戦艦は、その時代ごとに最も強力な大砲を積載した、海軍の最強力の軍艦のこと。巡洋戦艦は、戦艦に比べて、砲力・防御力は劣るが、航続距離・速度で勝る艦種。


 まず一つは、完成の年次です。
 長門型の長門・陸奥が完成したのが1920年21年(大正9年、10年)、大和の完成が、正確には太平洋戦争が始まった直後の1941年12月です。
 この20年の空白がいわゆる、海軍の軍縮を定めた
ワシントン海軍軍縮条約によるネイバル・ホリデイ(naival holiday 海軍の休日)です。

 ワシントン条約は、1921年のワシントン会議で締結され、戦艦を含む主力艦の保有と条約締結以降10年間の新艦の建造禁止を定めました。
 この結果、アメリカ・イギリス・日本の戦艦の保有比率は、5:5:3となりました。
 詳しい取り決め事項は次のとおりです。

艦種

合計排水量

1艦あたりの
基準排水量

備          砲

戦艦

(米英)52万5000トン
(日)31万5000トン
(仏伊)17万5000トン

3万5000トン

主砲16インチ以下

1インチ=2.54cm  16インチ=40.64cm

空母

(米英)13万5000トン
(日)8万1000トン
(仏伊)6万トン

2万7000トン
2艦に限り3万3000トン

8インチ以下
6インチ以上を装備する場合
5インチ以上の砲を合計10門以下
先の2艦に限り5インチ以上の砲を合計8門以下

巡洋艦

制限無し

1万トン以下

5インチ以上8インチ以下


この条約の結果、軍縮条約下においては、最も大きな口径の主砲、16インチ砲をもつ戦艦は、日本の長門、陸奥、イギリスのネルソン、ロドネー、アメリカのコロラド、メリーランド、ウエスト・バージニアの7隻でした。


 そして、1930年のロンドン海軍軍縮条約によって主力艦の建造禁止は5年間延長され、1935年まで継続されました。
 つまり、この時列国は、第一次世界大戦期から戦後にかけて進めていた軍艦の建艦競争をやめ、国際協調による軍縮を選択したのです。
 ちなみに、以下の表は、軍縮条約が日本が進める予定だった、
八・八艦隊計画(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を建造する)による建艦計画です。16隻のうち、戦艦長門と陸奥は完成しましたが、残りの16隻は、建造中のものも含めて廃棄または中止されました。(戦艦加賀と巡洋戦艦赤城は、、航空母艦へ改造されて完成。)

 第2表 旧帝国海軍の第一次世界大戦後の八・八艦隊計画建艦予定一覧
形式 型名 艦 名 起工年 主砲の大きさ×数 建造場所
巡洋戦艦
天城型 天 城 1920年 41cm×10 横須賀海軍工廠
赤 城 1920年 41cm×10 呉海軍工廠
愛 宕 1921年 41cm×10 神戸川崎造船所
高 雄 1921年 41cm×10 三菱重工長崎造船所
戦艦 加賀型 加 賀 1920年 41cm×10 神戸川崎造船所
土 佐 1920年 41cm×10 三菱重工長崎造船所
紀伊型 紀 伊 中止 41cm×10 呉海軍工廠
尾 張 中止 41cm×10  横須賀海軍工廠
駿 河 中止 41cm×10  三菱重工長崎造船所
近 江 中止 41cm×10  神戸川崎造船所
巡洋戦艦   13号艦 中止   横須賀海軍工廠
  14号艦 中止   呉海軍工廠
  15号艦 中止   三菱重工長崎造船所
  16号艦 中止   神戸川崎造船所
※八・八艦隊16隻のうちの14隻分。戦艦長門・陸奥は八・八艦隊のうちの2艦  
※泉江三著『軍艦メカ図録 日本の戦艦上』(グランプリ社 2001年)などより作成


 そして、逆に言えば、大和と武蔵は、軍縮時代が終わり、「無条約時代」となってから建造された戦艦というわけです。

 1931年の満州事変の開始以降、日本は欧米との協調路線を捨てて、武力膨脹外交を進めます。そして、日本は、ロンドン海軍軍縮条約によって1935年まで延長されていた主力艦の建造禁止の協定を破棄して自由に建造することを表明します。
 こういうと、日本が積極的に軍艦建造に乗り出し、それが日本に有利に働くという雰囲気の表現に聞こえますが、実は、そうではありません。

 「無条約時代」となれば、アメリカとの建艦競争が再開されることは必至ですが、そもそも国力が異なるアメリカと日本です。自由に競争すれば結果は明らかなのです。無論、建造数では、アメリカの圧勝となるはずです。

 具体的にしてきします。
 国力の違いというのは、いろいろな点から論証できるでしょうが、先に指摘したクイズ「
第1表から読み取れる点その2」をもう一度考えてみてください。
 同じことは、第2表の中にも示されています。

 正解は、
日本では、戦艦を建造できる造船所は、僅か4カ所しかないと言うことです。
 
呉海軍工廠横須賀海軍工廠三菱重工業長崎造船所神戸川崎造船所の4カ所です。

 複数の造船所で、一斉に建造できるアメリカとはわけが違うのです。
 その結果が、以下の表です。


 第3表 太平洋戦争中の日米建艦数一覧
日   本 アメリカ
艦  種 戦艦 正規空母 小型・改造空母 戦艦 正規空母 小型・改造空母
開戦時保有数 10 17
開戦後完成数 11 17 123
合   計 12 11 14 26 24 124

 日本とアメリカの建艦能力の差は歴然です。5対3どころではありません。

 こうなることが分かっていたため、日本海軍は、「無条約時代」の戦艦として、
個艦対個艦の戦いではアメリカ戦艦に決して負けない、大きな大砲を積んだ戦艦の建造を目指しました。
 つまり、数では負けても一騎打ちでは決して負けない、
一点豪華主義の強力な戦艦の建造です。

 第3表をもう一度ご覧ください。
 開戦後完成した大和と武蔵は、現実には、同じく開戦後に完成したアメリカの新型戦艦8隻と「勝負」しなければならない勘定となりました。
 
 建造される新戦艦、すなわち大和型のコンセプトは、こうして決定されました。


 具体的にどうやって勝つか                                  | このページの先頭へ | 

 では、具体的にどうやって勝つか。
 戦艦一つ一つのレベルではなく、艦隊対艦隊の戦いのイメージで、日本がどうやって勝とうとしているかを説明します。
 
 日露戦争中の1905年、日本海軍は日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊に圧勝しました。この時は、敵艦対と日本海軍の連合艦隊とにおける戦力比較において、戦艦の数やそれに積載されている主砲の数では、ロシア艦隊の砲が勝っていましたが、、巡洋艦以下の補助艦艇と大砲の数では、連合艦隊の砲が勝っており、とりわけ、訓練成果や使用する火薬の改善によって弾丸の命中精度は日本の砲が格段に優位でした。
  ※日本海海戦については、クイズ日本史「日清・日露戦争」のページで説明しています。こちらです。

 つまり、この時は、俗に言うT字戦法による奇跡的な勝利とかではなく、物量的に数字的に勝つべくして勝った海戦だったのです。
 しかし、アメリカ艦隊との戦いはそうはいきません。弾丸命中率は猛烈な訓練によって日本が勝っていたとしても、少なくとも、軍艦の数においては、圧倒的にアメリカが勝っています。

 では、太平洋を東から西へ向かってくるアメリカ艦隊をどのように倒すのか?
 日本海軍の「アメリカ艦隊迎撃」プランは次のようなものでした。

  • 第1段階…潜水艦部隊の魚雷攻撃

  • 第2段階・・・マーシャル諸島、マリアナ諸島などの島にある陸上基地から飛び立つ飛行機による爆弾・航空魚雷攻撃

  • 第3段階・・・軽巡洋艦と駆逐艦による水雷戦隊による魚雷攻撃

  • 第4段階・・・戦艦部隊によるアウトレンジ戦法による攻撃

 このアウトレンジ戦法というのは何でしょうか。アウトは「外側」、「レンジ」は範囲です。英語的には正確には、out of range 戦法というのが正しいでしょうか。

 これは、敵の戦艦より
大きな大砲(それは破壊力が大きいと同時に、砲弾を遠くまでとばすことができることを意味する)を持つ戦艦が、敵の戦艦の大砲が届く距離の外側から、相手に向かって砲撃戦を行い、敵を撃滅するという戦法です。
 これが現実にできれば、味方の被害はほとんどなくして、相手を撃滅することができるのは、疑いありません。

 しかし、こんな都合のいい戦いが本当に可能なのでしょうか?
 実は、こういう形の戦いが実際にあったのです。第一次世界大戦中のことです。ただし、アメリカと日本が戦ったのではありません。

 1914年12月、第一次世界大戦が始まって3か月後、ドイツ海軍とイギリス海軍が、大西洋のアルゼンチン沖で戦いました。名前を
フォークランド沖海戦といいます。
 この時
イギリス艦隊は、12インチ砲16門(有効射程距離 15,000ヤード)をもつ巡洋戦艦を主力とし、ドイツ艦隊は8.2インチ砲16門(有効射程距離 12,000ヤード)をもつ巡洋戦艦を主力としていました。
 この海戦では、射程距離が長い大砲を持ち、しかも最高速度がすぐれているイギリス艦隊が一方的にアウトレンジ戦法で攻撃し、ドイツ艦隊に完勝しました。
 アウトレンジ戦法は、有効な戦法なのです。

 ただし、このフォークランド沖海戦のイギリス艦隊の勝利においては、勝利できる条件があることを確認しておかなければなりません。

  1. 距離が15,000ヤード(14,500m)程度と後の戦艦の射程距離に比べるとそれほど長くない距離での砲撃戦であったこと。

  2. より重要なこととして、イギリス艦隊の方が速力で勝っていたこと。

 日本海軍は、このアウトレンジ戦法ができる戦艦の建造を目指すことになります。


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