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戦艦大和について考える3
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
 大人気、大和ミュージアム 06/01/08 記述追加
 大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)                           | このページの先頭へ | 

 呉市にある「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」も大人気です。
 私が訪れたのは、2006年正月3日だったということもあって、館内は、人でごった返していました。

【追加記述 13/09/08】『朝日新聞』2013年9月7日(土)の「be」の「映画の旅人 男たちの大和/YAMATO」から
 各年度ごとの美術館・博物館入場者ランキングと言うのがあるそうです。『朝日新聞』によれば、2005年4月から2006年3月までの2005年度のランキング第1位は、161万人を記録した大和ミュージアムに栄冠が輝きました。
 ちなみに、2012年の第1位は東京国立博物館の150万余です。

 展示と館内の様子を写真で紹介します。
  ※大和ミュージアムのHPはこちらです。

 写真A、広島県の尾道市、呉市、広島市の位置は、マークの通りです。
岐阜から尾道市までは、およそ400kmあります。
尾道から呉までは、山陽自動車道路の尾道−西条間を経由して、およそ100kmです。つまり岐阜−呉間は、およそ500kmです。 

写真A・Cは、いつも使っている「NASAのWorld Wind」からの借用写真から作成しました。
「NASAのWorld Wind」の説明はこちらです。

 
 写真Cは、呉市の航空写真です。
 
大和ミュージアムは、写真の赤いの部分に作られていた埋め立て地に建設されました。○で囲った部分には、大和を建造した当時と同じドックがあります。現在は、石川島播磨重工業のドックです。

Cの航空写真はいつも使っている「国土交通省ウエブマッピングシステム」によるものです。(説明はこちらです。
しかし、1988年の写真ですから、波止場の様子は現在と多少違っており、大和ミュージアムはまだありません。


 どんな歴史科学館なのか                                    | このページの先頭へ | 

大和ミュージアムという以上、展示の目玉というと、やはり、10分の1の大和の模型と言うことになるでしょう。

 しかし、この歴史科学館は戦艦大和のみを紹介しているわけではありません。
 簡単に言えば、1903(明治36)年(日露戦争の1年前)の呉海軍工廠の設置以来、造船や製鋼を中心として発展してきた
呉の町の歴史と、戦後各産業分野の中でいち早く、生産量世界一となった造船業界の発展の歴史、科学技術発展の歴史を紹介し学習する歴史科学館です。

 最上階の4階には、児童生徒のために、船や造船に関する基礎的な学習を体験する施設もあります。

 ここは、呉の歴史を日本の外交や海軍と併せて紹介するコーナーです。
 この日に限ってのことではないと思いますが、訪れている老若男女は、ほとんどが各展示の前に立ち止まって熱心に説明を読んでいました。
 わが家も、2時間半近く滞在しました。
 入館者の滞在時間のずいぶん長い歴史科学館というのは、それだけ魅力があることを示しています。

 ここは、大和そのものの歴史、つまり造船時から太平洋戦争での活躍、そして沖縄特攻に出撃して沈没するまでの大和の「生涯」を紹介しているコーナーです。
 生存者の方の証言ビデオも見ることができます。
 写真は、大和の測距儀(敵艦との距離を測る機械)に使われている日本光学(現在のニコン)のレンズが、その後の技術にいかにつながったかを説明している場面です。
 ここも、黒山の人だかりです。

  ※このページの大和ミュージアムの写真は、すべて、2006年1月3日に撮影しました。


 1階の中央にあるメイン展示物、大和10分の1模型。船首からの撮影。
 後ろの窓が南向きであるため、昼間は逆光となって、撮影には工夫が必要です。

 後ろの窓の向こうは呉の海で、この写真の角度からでは見えませんが、窓の近くから左手を外を遠望すれば、戦艦大和が建造されたドックを見ることができます。
 

 右前方から、前部甲板の主砲・副砲・艦橋を撮影。

右舷下から。 後ろから。
 前部1番副砲塔。
 左舷から艦橋部を撮影。
 3階のフロアーから。
 同じく3階のフロアーから。

 この10分の1模型は、大和ミュージアムと呉市の南にある音戸の山本造船という造船会社、そして、博物館設計業者の3者によって、苦労の末作成されました。

 本物の造船会社がかかわっている理由はおわかりですね。
 実際の長さが263mもある大和ですから、10分の1と言うことは、模型とはいえ、26m以上もあります。名前は「模型」でも、実態は、もう立派な船舶です。厚さ6mmの鋼鉄の船です。
 実際に、10分の1大和は、2003(平成15)年8月に起工され、2004(平成16)年2月に無事、「
進水式」を行っています。

 再現には、次の2点が問題となりました。

  1. 10分の1の模型であるため、実物で1cmのものでさえ、模型では1mmで表現できる。逆に言えば、大和の本当の姿を1cm単位で確定しなければならない。

  2. 大和の「実像」がわかったとしても、それを、模型でどれぐらい忠実に表現するか。

 1は、プラモデルのような、700分の1、500分の1、せいぜい200分の1なんて言うスケールとは比べものにならないほど、大和の詳細な部分の復元が必要と言うことです。
 このため、手にはいるだけの図面等が集められたほか、各種の写真、さらには、沈没した大和を海底探索によって「発見」した際に撮影された現実の大和の映像も利用されました。

 2は、たとえば、甲板の板ですが、「合板をはって、板目を書く」という作り方でも、傍目には一応本物らしく見えます。しかし、実際に1枚1枚の木を貼っていかなければ、正確な再現にはなりません。
 実際に、予算と手間の関係から、当初造船所側は、甲板の板は、合板の使用を主張しました。しかし、博物館側は、あくまで板張りを主張し、実現されました。
 ただし、本当の戦艦大和には台湾製の檜が使われましたが、模型には使われていません。
 これをそのまま使うと、木目だけが実際の大きさになってしまうからです。
 このため、色合いが似て、木目もちょうどいいぐらいの、タモの木が使われたのです。

 その他、10分の1模型の作製に関する「物語」は、初代大和ミュージアム艦長戸高一成氏がその著書に書かれています。とても面白い本です。新書版で価格も手ごろですから、呉へ向かう列車の中で予習に読んでください。 

戸高一成著『戦艦大和 復元プロジェクト』(角川書店 2005年)


 太平洋戦争に関する、大和以外の大物資料も豊富に展示されています。
 また、船の技術に関して、いろいろな展示物があります。
 

解説は、『呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム 常設展示図録』を参考にしました。

 ミュージアムの玄関外の外壁に沿っておかれている、戦艦陸奥の40cm(このミュージアムでは41cmと表現)主砲とスクリュー及び舵。
 陸奥は、ワシントン条約締結の際に未完成であり危うく廃艦となりかけましたが、何とか完成されました。しかし、1943(昭和18)年6月、瀬戸内海の柱島泊地に停泊中に謎の爆沈を遂げました。
 1970年からの調査で主砲などが引き上げられました。


 日本海軍が誇った93式酸素魚雷。


 特殊潜行艇「海龍」。
 写真ではよく見えませんが、艇の底部の両脇に抱えた2本の魚雷を発射後、艇首に装着した600kgの炸薬で敵艦艇に突入する、特攻兵器。


 零式艦上戦闘機62型。
 1945年8月6日夕刻、エンジン不調で琵琶湖に不時着水した機体で、1978年に引き上げられたもの。


 豊臣秀吉の水軍を悩ました韓国の亀甲船の模型。


 1975年、当時世界最大のタンカーとして建造された日精丸(484,337重量トン)の模型の艦首部。
 大和と同じ、バルバスバウ。

 


 大和ミュージアムの南に隣接する埠頭から湾を越えた向こう側には、大和が建造されたドックが残されています。
 旧呉海軍工廠の造船船渠第3ドックで、現在はIHIマリンユナイテッド呉造船所の建物となっています。
 ドックそのものは2003年に埋め立てられ、上屋のみが残っています。


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