岐阜県の東海道線あれこれ5
 写真を題材に、岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 木曽川鉄橋・長良川鉄橋・揖斐川鉄橋2
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 長良川鉄橋と濃尾大震災

 続いて長良川鉄橋です。
 この鉄橋の堤防道路は、現在も含めてこの14年間のうちの10年ほど、私の通勤路となっているところですから、写真もたくさんです。
 ひたすら写真とその説明です。


 上の写真は、1975(昭和50)年の航空写真です。河川敷や堤防外の様子は今とは違っていますが、鉄橋そのものは今と同じです。ただし、塗装の色が今とは違いますね。
 鉄橋の構造は、60フィートの大型トラス橋桁が中央に5連、東に30フィートの小型トラス橋桁が3連、西に同じものが一つ、さらに、西端に、デックプレートガーダーと呼ばれる19m余の小さな橋桁が一つという構造です。
この構造は、基本的には1886年の最初の架橋時と変わっていません。

上の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真から引用しました。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

 岐阜県庁の西にある県立の施設「ふれあい会館」の最上階から西北方面を臨んだ写真です。(撮影日 07/12/26) 
 このあたりの長良川では、通常水位の時の川道は、堤防内の西側を通っているため、反対の東側の河川敷は、野球場やサッカー場になっています。ただし、1年に1〜2回は水没する時もあります。
 背景の山は、池田山です。
 


 このページの売りは、3鉄橋の最初の架橋時の写真を使うことでした。
 長良川鉄橋のそれは、かの有名なこの写真です。

この写真は、「長崎大学付属図書館 幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て複写・掲載しました。

この写真の入手先や方法の詳しい説明は、こちらのページです。

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 前ページの年表で確認してください。

 東海道線が全通してから僅か2年後に
濃尾大震災が起こりました。(詳しい説明はこちらへ→
 
1891(明治24)年10月28日の早朝、マグニチュード8.0と推定される大地震が濃尾平野を襲い、鉄道施設は壊滅的な打撃を受けました。

 この写真は、橋脚が崩れて、橋桁が落ちてしまった長良川鉄橋です。もちろんまだ単線です。
 この時のこの鉄橋の構造は、写真で分かるように、コンクリートを詰め込んだ細い鉄柱に5本一組で一つの橋台を支え、そこにダブルワーレントラスを載せたものでした。地震は、その細い鉄柱の橋脚を川底近くでへし折り、トラスが川底に落下してしまいました。


 岐阜県と愛知県北部は壊滅的な打撃を受けたため、復旧工事もすぐには開始できませんでした。
 しかし、東西を結ぶ幹線の復旧を急ぐ政府は、東京から技術者と工夫を大量に送り込み(一説に500人)、長良川鉄橋・揖斐川鉄橋とその間の被災区間の復旧にあたりました。

 この結果、6ヶ月後の
1892(明治25)年5月には、復旧・再開通にこぎ着けました。

 伊吹山を背景に、岐阜から大垣方面へ向かう、2両編成の回送電車。(撮影日 07/03/21) 
 幹線鉄道なのに、昼間の乗客が少ないときは、僅か2両編成の普通電車が走ります。
 名古屋方面から走ってきた普通電車は岐阜駅止まりです。しかし、車庫の電車区が大垣にあるものですから、長良川鉄橋を渡って回送されていきます。


 震災後の復興の際は、それ以前のような鉄柱にコンクリートを積めた橋脚ではなく、煉瓦と石材による橋脚へと改められました。
 また、形も、断面が長円形のもので、上に行くほど細くなっていく形状が採用されました。

 鉄橋の場合、鉄製の橋桁は、耐久年数があって、掛け替えられますが、基礎の橋脚の部分は、よほどのことがない限りそのまま使われます。

 現在は上下2線が別々に長良川を渡っています。そのうち、上り線の橋脚は、基本的には震災後の復興時につくられたものと同じです。つまり、1892年製です。


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 震災から現在まで

 1891年の震災後の復旧の時点では、もちろん、まだ単線でした。
 明治時代後半期は、国による鉄道幹線の複線化が積極的に進められ、岐阜県の東海道線も、1903(明治36)年には、近江長岡−大垣までが工事が終了しました。
 このあと、日露戦争が起こったため、工事は中断されましたが、戦争終了後再開され、1909(明治42)年6月15日に長良信号場−穂積間の複線が利用される運びとなりました。(橋脚の建設は前年の1908年)

 その時は、それまでの橋と線路を上り線として利用し、あらたに、その南(下流)側に12.20m隔てて新しい線路(下り線)を増設する形で複線化がなされました。

 それ以来
現在に至るまで、長良川を渡る上下線の位置は、そのまま維持されてきています。 

 長良川鉄橋を渡るとすぐに穂積駅です。
 これは、穂積駅のホームーの東端から撮影した上り特急しらさぎ号です。穂積駅を通過して、次の停車駅岐阜へ向かうところです。(撮影日 07/12/30) 


 鉄橋の東端の部分。左が元からあった上り線、右、電車が通過している方は、日露戦争後新設された下り線。

 それぞれ橋脚部分(この写真では橋桁の付け根の基礎の部分)は、左1892(明治25)年、右1908(明治41)年製です。立派な年代物です。
(撮影日 07/10/28)

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 鉄橋の掛け替え

 上で説明したように、橋脚は明治時代のものでも、上部の橋桁は、明治時代のものは一つもありません。
 下に、現在の橋桁の架橋年代を図示しました。 

上の図の元写真は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真から引用しました。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

 明治時代のものは無いにしても、最も古いのは1914年、つまり、大正3年ですから、かなりの骨董品です。
 掛け替え時には、つぎのような方法がとられました。 
 1960(昭和35)年に下り線が掛け替えられたときの例です。
  
下り線の南(下流)側に新しい橋桁を作るための組み立て台を仮設する。
組み立て台の上で新しい橋桁を組み立てる。
下り線の北(上流)側(上下線の間)にはずした橋桁を解体するための台を仮設する。
新しい橋桁が完成したら、移設準備する。
それまで使っていた古い橋桁を解体のための仮設台へ移動する。
新しい橋桁を空いた橋脚の上へ移動する。
古い橋桁を解体する。
仮設台を撤去する。

 こうすれば、元からある橋脚を利用して、橋桁を新しくできるわけです。


 先にできた上り線。但し、橋桁のほとんどは、1914(大正)年製。手前の短いのは、ポニー型ワーレントラス桁、4番目からの大型のものは、曲弦下路プラットトラス桁です。線路に侵入したわけではありません。橋の東にある踏切から撮影しました。(撮影日 07/10/28)
 写真左の下り線側は塗装中で、上部に人が立っています。(写真左手の数字2の上方)

 こちらはあとからできた下り線。橋桁のうち、手前の小さいのは、上り線と同じ1914年架設のポニー型ワーレントラス桁。 4番目からの大型の桁は、1960年に架設された下路ワーレントラス(平行弦トラス)桁です。
(撮影日 07/11/04)
 下り線は上部が真っ直ぐのトラス、上り線は上部が曲線となっているトラスです。
 渡っている列車は、特急しらさぎ号です。
 

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 オマケですがその1 踏切です

 上の写真は、線路に侵入して撮影したものではなく、長良川の左岸にある踏切から撮影しました。

 これがその踏切です。
 私が通勤に使っている堤防道路はこの部分では、堤防の内側(河川敷側)で線路をくぐっています。ところが、前々からの利権等があるのでしょう、写真の中央の路が、線路を横切っていて、踏切があります。ただし、普通自動車は通れません。
 踏切の名前は、「
江崎道踏切」です。表示によれば東京から401km260mです。

 この踏切は実は岐阜市民にとって貴重な踏切となっています。
 現在、岐阜駅を中心にJR東海道線、高山線は高架となっており、この踏切は、
岐阜市内にある東海道線の唯一の踏切となっているからです。
 したがって、よい子が列車見物をする場として、この踏切は貴重なのです。 


 この日も、秋の穏やかな列車見学日和に恵まれ、踏切のあっちとこっちでお父さんと男の子が列車に手を振っていました。(撮影日 07/11/03)

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 オマケですがその2 前にも掲載した美しい写真です

 最後に、以前に他のページで掲載した、美しい写真を掲載します。

 河原一面の曼珠沙華です。(撮影日03/10/05)
 珍しい夕焼けの中、下り特急しらさぎ号が鉄橋を渡ります。(撮影日 03/10/25)

 これで、長良川鉄橋は終わりです。つぎページは、3鉄橋のシリーズの最後、揖斐川鉄橋です。

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