岐阜の原風景・現風景2
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
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 濃尾大震災その1 長良川鉄橋崩落

 下の写真をご覧ください。

 
鉄橋が落下しています。これは、いつ、どこの写真でしょうか?

 以下の写真は、「原風景」、「名所紹介」というのはちょっと変ですが、とても貴重な写真が正式にコピーできることが分かりましたので、「現風景」と一緒に掲載します。


【写真1】 解説地図へ
崩壊した長良川鉄橋

この写真は、「長崎大学付属図書館 幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て複写・掲載しました。

この写真の入手先や方法の詳しい説明は、こちらのページです。

 
 鉄橋の説明は、下にあります。

 実は、1891(明治24)年に起きた濃尾大震災直後の写真で、この鉄橋は岐阜市とその西に隣接する瑞穂市(当時は本巣郡穂積村)の間を流れる長良川にかかる、東海道線の長良川鉄橋です。

 先に地震全体の説明をします。
 
濃尾地震は、1891年10月28日、朝日が昇ったばかりの午前6時37分に当時の岐阜県西根尾村水鳥(みどり、現在の本巣市根尾水鳥)付近を震源に発生しました。
 マグニチュードは8.0と推定され、内陸直下型の地震としては国内はもとより世界的にも最大級の規模の地震でした。
 この地震により、2年後の1993年の調査では、県内で死者4984人、負傷者1万3762人の犠牲者が出ました。全壊家屋5万1戸、半壊家屋3万3459戸、焼失家屋4455戸という大災害でした。

1891年というのは、日本史の教科書的にはどのような事件が起こっている年でしょうか?
前年の1890年には日本で初めて議会、帝国議会が開かれています。1891年5月には、来日中のロシア皇太子が大津で護衛の警察官に襲われるという大津事件が起こっています。
地震のあと同年12月には、かの有名な田中正造議員が、議会で足尾銅山の鉱毒事件について質問しています。

 【地図1】 上の地図は、濃尾大震災関係図です。
 震源の根尾水鳥は、岐阜市(JR岐阜駅)の北北西約34kmにある、根尾川(揖斐川の支流)の谷あいの地域です。
 地図の
の地点の写真を掲載します。をクリックすると写真へジャンプします。

上の地図は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。

 【写真2】現在の長良川鉄橋です。〔撮影日 07/05/20 長良川左岸堤防から〕 解説地図へ戻る

 濃尾地震当時の鉄橋は、地震の4年前の1887年に架橋されたもので、比較的新しい鉄橋でした。。
 この地域の東海道線(厳密に言うと、正式に「東海道線」という呼称が定まるのは、全通後の1895年です。)は、
東京側からではなく、西の滋賀県側(大阪・京都方面)から延伸され、1884年5月には大垣までが開通していました。

 続いて、
1887年1月には揖斐川・長良川の鉄橋が開通して岐阜駅(当時は加納駅)まで延伸され、同じ年4月には、続いて、木曽川の橋梁が完成して愛知県木曽川町まで延伸されています。
 その後、神奈川県内・静岡県内の未開通部分も続々とつながり、
1889年7月には、最後に残っていた琵琶湖湖東の部分が開通して、新橋−神戸間の東海道線が全通しました。

 当時の長良川鉄橋は、イギリス人C.A.W.ポナールによって設計されたもので、我が国が誇る最大級の鉄道橋のひとつでした。しかし、地震では、中央部の長い橋脚が2カ所とも完全に倒れ、そのまま川底に落ちてしまいました。
 日清戦争(1894年開戦)の直前に当たるこの時代においては、軍事輸送の主役を担う幹線鉄道の長期間の不通は許されず、国は震災直後から速やかな復旧を進め、半年後に開通にこぎ着けました。

 本題とは関係のないまったくの余談ですが、写真の鉄橋には2両編成の電車が映っています。この僅か2両編成の電車はちゃんとしたJR東海道線の電車です。
 首都圏と違って、昼間は乗客が極端に少なくなる中京圏では、昼間の列車は、その乗車人数におおむね比例して1編成の車両数を減らして運転されます。
 かくて、多いときは8両以上、少ないときは2両編成の電車が同じJR東海道線を走ります。

 このようないろいろな編成の列車を走らすためには、その都度始発駅で車両を分離したり結合したりして車両数を変え編成を調整しなければなりません。分割民営化してJRとなる前の国鉄時代では、労働組合の力が強かったためそのような面倒なことはなされず、結果的に、長編成の電車が空気ばかり運んでいました。JR東海になって今のような方針になったのです。 (以上、たまたま映っていた電車の話です。失礼。)

 岐阜県内の東海道線建設については、瑞穂市在住の戸田さん(昭和16年の鉄道省入省以来、昭和57年まで日本国有鉄道で建設等に従事された方です)の著書、『東海道線の発祥から郷土の鉄道を検証する』(自費出版 2006年)に詳述されています。
 戸田さんの著書を私なりに勉強させていただき、近々、
「岐阜・美濃・飛騨の話 岐阜県における東海道線建設」シリーズをアップロードします。ご期待ください。(2007年11月−12月掲載予定) 



 【写真3】 現在の長良川にかかるJR東海道線鉄橋。     解説地図へ戻る
       ※グーグル・アース(Google Earth home http://earth.google.com/)の衛生写真



【写真4】 解説地図へ戻る
 
笠松村の被害

この写真は、「長崎大学付属図書館 幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て複写・掲載しました。

この写真の入手先や方法の詳しい説明は、こちらのページです。

 

 当時の羽島郡笠松村(現羽島郡笠松町)の被害状況。
 笠松村を含む羽栗郡全体は、総戸数8,355戸のうち、全壊5,982戸、半壊1,240戸(全半壊率86.4%)と地震そのものでも大きな被害を受けましたが。加えて、地震直後から各所で火災が発生し、夜の11まで延々と14時間以上も燃え続け、ダメージは決定的なものとなってしまいました。(現在の地震災害では、かなりの場所で火災が発生しそうですが、当時は、ガスや電気はほとんど普及していない状況だったので、火災発生はそれほど多くはありませんでした。大規模な火災が発生は、岐阜、大垣、笠松、竹ヶ鼻(現羽島市)、関の五カ所でした。)

笠松町史編纂委員会編『笠松町史』(1967年)P291
岐阜県編『岐阜県史 通史編近代下』({1972年)P1131


 羽栗郡の全焼戸数は1,132戸に及びました、これは岐阜の2,225戸に次いで2番目に大きな被害でした。
 写真は村内東南方の木曽川の堤防上から、西北西方面を撮影したものと推定されます。背景に映っているのは、養老山地の北端部分と関ヶ原盆地手前の南宮山と推定されます。


 「長崎大学付属図書館 幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」には、まだまだほかにも
濃尾大震災の写真が集められています。

 次ページでは、北方町の惨状と、根尾谷水鳥の断層の写真を紹介します。


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