各務原・川崎航空機・戦闘機02
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 □各務原台地と飛行場 −台地の地理的特色と歴史− 04/07/04記述 12/08/09修正
     
 −まえがき−地理のお勉強                                          

 川崎航空機の飛燕の生産の説明に行く前に、なんと、各務原台地の地理の勉強をします。
 「えっ、なんで」と思われる向きもあるかもしれませんが、こにお「未来航路」は地歴公民科勉強サイトですから、まずは、航空機生産が生じた立地条件の勉強です。

 岐阜市や各務原市の方は、郷土の地理の勉強となります。
 もちろん、諸先輩の著書等の業績を土台にしていますが、未来航路らしく、写真や図版をふんだんに使っています。
 ※「各務原台地などどうでもいい」という方は、飛ばして、「飛燕の開発」に進んでください。

 各務という地名と各務郡、そして各務野                | このページの先頭へ | 

   各務原台地というのは、岐阜市の東にある、各務原市の中央部から西部に位置する台地です。古くは、各務野・鏡野とも呼ばれました。

 そもそも、「各務」(かかみ)という地名は、現各務原市の北東部、各務山の北側を中心とするの地域の地名でした。(正確には、各務山の南側裾野、現在の各務山の前町も旧各務村の一部となっています。)
 この「各務」の発祥となった狭い意味の各務という地域を、ここでは、「各務地域」と呼びます。
 
 この各務地域は、下の説明写真では、どこのことでしょうか。
 
写真では各務山が中央右より一番上にありますから、各務地域は、残念ながらこの写真には写っていません。
 
 地名の由来は、古代に鏡作部(かがみつくりべ、銅鏡などの鏡を作る特殊技能集団)がいたことからと言い伝えられています。
 『角川日本地名大辞典』には、「郡内の
村国真墨田神社(むらくにますみた)に鏡作部の祖天糠戸命(注:あまのぬかどのみこと)がまつられている」とあります。
  ※竹内理三編『角川日本地名大辞典』(角川書店 1980年)の「各務」の項
    以下地名に関しては、この辞典に依りました

 ただし、
村国真墨田神社は、各務郷ではなく、村国郷(現在の名鉄鵜沼駅近く)の神社です。
 各務郷の中心にある
村国神社には、天之火明命(あまのほあかりのみこと)が祀られています。詳しく説明すると、この神は、鏡造りの一族の祖神とされる石凝姥命(いしごりどめのみこと)の親神であり、天糠戸命と同神であるとされており、つまりは、各務郷の祖神も鏡造りの神様ということになります。
  ※白木林一編『各務村史』(各務村史編纂委員会 1963年)P5・101
  ※『日本神名辞典』(神社新報社 1994年)
  ※志村有弘・奥山芳広編『社寺縁起伝説辞典』(戎光祥出版 2009年)

 いずれにしても、鏡が「かかみ・かかむ」→「各務」となったと考えるのが自然です。
 7世紀末からの律令の時代には、「各牟」(この場合は発音は、かかむ)とも書かれました。

 この郡界は、明治になってのもの。緑色の部分が各務郡。1897年に郡制が布かれ、各務郡は、西隣の厚見郡・方県郡の一部と合併して、稲葉郡となり、各務郡の名は消滅した。

 古代の幹線道路のひとつ「東山道」(とうざんどう)が、この地域を通っていたため、乗り継ぎの人馬を備える駅の一つとして、「各務駅」も置かれていました。ただし、場所は、鵜沼地域・各務地域と2説あります。

 この各務地域の有力者も、その地名から
各務氏と呼ばれました。各務氏は、各務地域のみならず、他の地域を含めて支配する有力者となり、やがて、律令時代の郡を支配する郡司を世襲する家となります。この郡を各務郡といいます。

 つまり、古代の大宝律令が制定される時点で、各務地域の
各務は、鵜沼・各務・蘇原・那加などを含んだ広い地域全体示す「各務郡」という呼称にも使われたのです。

 その各務郡にあった野原が、
各務野であり、のち各務原台地とよばれることになります。
 
 この台地は、北はおおむね各務山とその延長線を境にし、南は、伊木山、三井山を結ぶ線、東は鵜沼の羽場、西は那加の新加納にいたる、南北約2キロ、東西約9.5キロの広さを持ちます。面積は1900ha、東の最も海抜の高い地点は約60m、西の最も低いところは、約20m、つまり、台地とはいえ、
東が高く西へ次第に傾斜する地形となっています。
 ※伊藤安男著『岐阜県地理あるき』(大衆書房 1986年)P113

 今までの説明から、この各務原台地の中には、その地名の由来となった本来の各務地域は含まれていないことがおわかりと思います。

 余談ですが、岐阜県では少子化に伴う高等学校の再編・統合が図られ、その一つとして、岐阜女子商業高校と各務原東高校とが統合されました。
 新高校の名前は、「
岐阜県立岐阜各務野高等学校」です。
 ここにまた、各務野の名称が公式名称として復活しました。
 
 

【各務原市中心部の航空写真と各務原台地】
方位は写真の上が北です。A・B・Cの地点の景観写真が以下にあります。

 ※上図の写真は、国土情報ウェブマッピングシステムの1987(昭和62)年のカラー空中写真から合成。5枚の写真をつなぎ合わせてあるため、多少誤差があります。

【各務原市全体の地形】
 上の写真は、下の地図の各務山より南側半分の地域を示しています。造成あれた団地(住宅地)、ゴルフ場などは示してありません。等高線には誤差があります。

 ※上村恵宏著『各務野から各務原へ−各務原地域成立史論−』(大衆書房 1992年)P117を参考に作成

【昭和22年の各務原市の写真】
 終戦から2年、アメリカ軍の占領時代の各務原市の写真です。
 画面中央が飛行場、その周囲の色の黒い部分が、各務原台地です。さらにその周囲の色の薄い部分は、水田です。台地とその周囲の低地の水田地帯の様子がよく分かります。
 この写真は、かかみがはら航空宇宙博物館の「昭和22年の各務原と飛行場」より作成しました。同博物館では、単に航空機産業だけでなく、各務原の歴史そのものが学習できます。
 ※同博物館の紹介は、このテーマのNo1にあります。

A地点、台地西側の景観。3枚の合成写真。右端は国道21号線。 

A地点、国道21号線。

A地点やや北、名鉄各務原線。

B地点、台地の南側から境界面を見る。緑の木々のある部分から北が台地。
台地の下には、左(西)から、ホッケースタジアム、航空宇宙博物館、ラブホテル(ピンク)が並ぶ。その背後が台地。上がると航空自衛隊岐阜基地の中心部となる。

C地点、名鉄各務原線の羽場駅・鵜沼宿駅間に東の台地境界面がある。

C地点の台地境界面を登る名鉄各務原線の電車。台地の高さが実感として分かっていただけるでしょうか。
この坂は、名鉄電車の表示では、「33.3」パーミル、つまり、1000mで33.3mの落差がある坂となっています。
写真の電車が通っている部分では、坂の角度が3.5度ぐらいです。ということは、三角比のtan3.5°=0.0616ですから、61.6パーミル、つまり1000m進むと61.6mの落差があるという急傾斜です。


D地点、北側の台地の状況。主要地方道江南関線から南の台地方面をとらえた写真。デジカメ3枚の合成。正面の道路は川崎重工業の岐阜工場の東側へ通じる道。遠くに見える煙突は同工場のもの。右は、水道の配水場がある川崎山。写真では見えないが、川崎山と手前の道路との間には、東島池がある。 

同じくD地点の台地境界面。
主要地方道江南関線が、上の写真の交差点から東に向かい、緩くカーブしながら南進して、台地面を登り、国道21号線との交差点へ向かう部分。
写真の自動車が映っている部分の上は、JR高山線が
またいでいる。
この周囲は、すでに上の写真の部分より標高が数メートル高くなっており、周囲に水田はない。  


 各務野・各務原台地                                  | このページの先頭へ | 

 各務原台地やその周辺の地域は、一面、下の写真のような黒っぽい土壌が広がっています。この地域ではこれを黒朴(黒ボク)と呼んでいます。(上の電車の写真に写っている台地下の畑も同じ土壌です。)

 皆さんの常識では、この黒っぽい土壌は、肥沃なものしょうか。それとも作物栽培にはあまり向かないものでしょうか。  

黒ボクの土壌

黒ボク土壌の畑

 黒い土というと、地理の知識のある方なら、「肥沃な土」と思われるのではないでしょうか。

 一般に地理の教科書には、穀倉地帯ウクライナの土壌を説明する言葉として、「
肥沃な黒色のチェルノーゼム」などと表現してあります。
 ※山本正三他著『詳説新地理B』(二宮書店 2003年)P48

 ところが、各務原台地のこの黒い土、黒ボク(黒朴)は、決して肥沃な土壌ではありません。

 そもそも各務原台地は、地質学年代で言う新生代第4紀に、それまで海底であったこの地域が隆起を続け、同時に木曽川が多くの堆積物を運び、さらに、東からの御嶽山の火山泥流がかぶさってできあがってきました。

 加えて、縄文時代期に、九州方面の火山の火山灰が厚く降り積もり、すでに台地となって河川の流出物の堆積が生じなかった台地面では、この火山灰土が表土となりました。
 これが黒い土、黒ボクです。
 
黒ボクは、強い酸性土壌(pH6)で、農産物の栽培にはまったく不向きでした。
 
 また、台地面ですから、水を得るのにも適していませんでした。
 地表面から2〜3mほど掘り下げるとどこでも湧水を手に入れることができる反面、大量の農業用水を求めてさらに深く掘り下げると、湧水は止まってしまいます。これを、
宙水(ちゅうすい、中水とも書く)といいます。

 この結果、この台地は、農業生産にはまったく不向きな土地であり、その結果として、人もあまり住まない所だったのです。
「明治中頃でさえ広漠たる原野で、中山道が一筋延び、三ツ池・六軒の立場(休憩所)に一塊の集落が存在するのみであった。」
 ※伊藤安男前掲書『岐阜地理あるき』(大衆書房 1986年)P115
 
「したがって、各務野は、黒朴土からなってはいるが比較的耕作条件に恵まれていた、境川周辺の低湿地からなる、耕地の生産性維持のために、農耕馬の飼料用あるいは堆肥用草刈り場である、秣場(注 まぐさば)としての価値観で利用されていたのである。」
 
 各務原台地は、台地周辺の村々の入会地(共同所有地)であり、農耕馬の秣を供給する所でした。

上村恵宏著『各務野から各務原へ−各務原地域成立史論−』(大衆書房 1992年)P9

補足 境川は、各務地域など各務山以北の地域を東から西に貫流しています。


 
「黒朴土壌→肥沃→江戸時代までに田地となる→飛行場」では話はつながりません。
 
「黒朴土壌+水不足→明治になっても原野→飛行場」というのが正解です。

 それぞれの地域には、それぞれの地理的条件があって、 その歴史が形成されます。

 


 各務原へ軍隊の進出                               | このページの先頭へ | 

 明治になっても総面積1900haのほとんどが手つかずの原野であった各務原台地は、農耕地以外の利用価値が見いだされることになります。

 1876年陸軍省とその指示を受けた岐阜県は、各務原台地に大砲射撃用などの演習地を新設する計画を発表しました。
 以後、地域住民との交渉が進み、1879年には正式に、演習地が設営されました。
 上の写真で言うと、現在の航空自衛隊岐阜基地のおおむね東半分に地域です。 

 周辺住民はこの施設を「大砲場」と呼んでいましたが、名古屋に設置されていた第3師団の演習場となったのです。
「演習場で大砲の演習がなされると、小鳥や虫、さらに狐・狸の楽園であった各務野の原野は、砲声の轟く地となり、道行く人も首をすくめて歩く騒音の地となってしまったのである。」
 ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P10

 日清戦争の直前の1889年、陸軍は演習地を拡大し、約230haを新しく買収しました。
 この結果、中山道以南の地はほとんど演習場となりました。

 ただし、大砲の性能が高まるにつて、演習場の外へ砲弾が着弾する事件が続出し、演習場では大砲の射撃は中止されます。
 日露戦争後は、現岐阜市の長森に陸軍歩兵第68連隊が新設され、演習地はその練兵場として利用されることになりました。


 各務原飛行場                                      | このページの先頭へ | 

 ライト兄弟が飛行実験に成功したのは、1903年のことです。
 それ以後、急速に進歩を遂げ、兵器としてもその能力が高まっていきます。

 日本人による日本初飛行は、東京代々木練兵場(現代々木公園)で、陸軍の徳川好敏大尉(飛行距離3000m、アンリ・ファルマン複葉機、50馬力・フランス製)と日野熊蔵大尉(飛行距離700m、ハンス・グラーデ単葉機、24馬力・ドイツ製)によりおこなわれました。
 
 1914年9月、第一次世界大戦がはじまると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告しました。といっても、ドイツに攻め込むわけではありません。
 ドイツは当時の中国の青島を租借地として基地をもっており、海軍の艦隊と陸軍部隊が青島を攻略しました。

 その時に、日本の陸海軍の航空機が初めて戦いに参加します。
最初の戦闘は海軍機によってなされました。

 第一次世界大戦中の活躍を描いた「写真はがき」に描かれた日本軍飛行機の青島爆撃。
 ※神田の古本屋で発掘しました。

 写真には陸軍機・海軍機の説明はありませんが、これは、機影から、フロートを付けた海軍の水上機、モーリス・ファルマン(ルノーエンジン・70馬力搭載)と思われます。
 海軍は膠州湾封鎖艦隊所属運送船・母艦若宮丸にモーリス・ファルマン水上機4機を搭載し、青島沖から発信させて、ドイツの軍事施設を爆撃しました。

 
 陸軍機も、やや遅れて占領した陸上基地から青島攻撃に参加しました。

 この攻撃や欧州大戦の様相を知った陸軍は、航空部隊の本格的な運用の必要性を感じ、埼玉県所沢に最初の航空部隊である航空大隊を創設しました。1915年のことです。
 同じ年の秋には、各務原演習場を飛行場とすることが決められ、地ならし工事が始まりました。

 そして、1917年6月11日には、モーリス・ファルマン4型飛行機3機が飛行場に到着し、その5日後の6月16日に、各務原飛行場の開設式が行われています。

 航空基地の町各務原の歴史が、こうしてスタートしました。
  ※各務原市戦時記録編集委員会編前掲『各務原市民の戦時記録』P237、295  


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