各務原・川崎航空機・戦闘機02 |
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□各務原台地と飛行場 −台地の地理的特色と歴史− 04/07/04記述 12/08/09修正 |
各務という地名と各務郡、そして各務野 | このページの先頭へ | | ||
各務原台地というのは、岐阜市の東にある、各務原市の中央部から西部に位置する台地です。古くは、各務野・鏡野とも呼ばれました。
この各務地域の有力者も、その地名から各務氏と呼ばれました。各務氏は、各務地域のみならず、他の地域を含めて支配する有力者となり、やがて、律令時代の郡を支配する郡司を世襲する家となります。この郡を各務郡といいます。 つまり、古代の大宝律令が制定される時点で、各務地域の各務は、鵜沼・各務・蘇原・那加などを含んだ広い地域全体示す「各務郡」という呼称にも使われたのです。 その各務郡にあった野原が、各務野であり、のち各務原台地とよばれることになります。 この台地は、北はおおむね各務山とその延長線を境にし、南は、伊木山、三井山を結ぶ線、東は鵜沼の羽場、西は那加の新加納にいたる、南北約2キロ、東西約9.5キロの広さを持ちます。面積は1900ha、東の最も海抜の高い地点は約60m、西の最も低いところは、約20m、つまり、台地とはいえ、東が高く西へ次第に傾斜する地形となっています。 ※伊藤安男著『岐阜県地理あるき』(大衆書房 1986年)P113 今までの説明から、この各務原台地の中には、その地名の由来となった本来の各務地域は含まれていないことがおわかりと思います。 余談ですが、岐阜県では少子化に伴う高等学校の再編・統合が図られ、その一つとして、岐阜女子商業高校と各務原東高校とが統合されました。 新高校の名前は、「岐阜県立岐阜各務野高等学校」です。 ここにまた、各務野の名称が公式名称として復活しました。 |
A地点、台地西側の景観。3枚の合成写真。右端は国道21号線。 |
A地点、国道21号線。 |
A地点やや北、名鉄各務原線。 |
B地点、台地の南側から境界面を見る。緑の木々のある部分から北が台地。 |
C地点、名鉄各務原線の羽場駅・鵜沼宿駅間に東の台地境界面がある。 |
C地点の台地境界面を登る名鉄各務原線の電車。台地の高さが実感として分かっていただけるでしょうか。 |
D地点、北側の台地の状況。主要地方道江南関線から南の台地方面をとらえた写真。デジカメ3枚の合成。正面の道路は川崎重工業の岐阜工場の東側へ通じる道。遠くに見える煙突は同工場のもの。右は、水道の配水場がある川崎山。写真では見えないが、川崎山と手前の道路との間には、東島池がある。 |
同じくD地点の台地境界面。 |
各務野・各務原台地 | このページの先頭へ | |
各務原台地やその周辺の地域は、一面、下の写真のような黒っぽい土壌が広がっています。この地域ではこれを黒朴(黒ボク)と呼んでいます。(上の電車の写真に写っている台地下の畑も同じ土壌です。) |
黒ボクの土壌 |
黒ボク土壌の畑 |
黒い土というと、地理の知識のある方なら、「肥沃な土」と思われるのではないでしょうか。
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各務原へ軍隊の進出 | このページの先頭へ | |
明治になっても総面積1900haのほとんどが手つかずの原野であった各務原台地は、農耕地以外の利用価値が見いだされることになります。 |
各務原飛行場 | このページの先頭へ | |
ライト兄弟が飛行実験に成功したのは、1903年のことです。 |
第一次世界大戦中の活躍を描いた「写真はがき」に描かれた日本軍飛行機の青島爆撃。 |
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