舞鶴といえば、「軍港」であると同時に、戦後長い間、「引揚(引き揚げ)」の港でした。
父
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「おれはな、高等小学校を卒業して、義勇軍で満州へいった。15歳になる前やぞ。それから、戦争に負けて捕虜になって、シベリアに連れて行かれ、昭和24年9月に、舞鶴に帰ってくるまで、4年もシベリアにおった。23歳の時までや。」
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私
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「満州ってどこ、シベリアってどこ?」
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父
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「まだ、おまえには、わからん。大きくなったら自分で勉強しやあ。」
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今から40数年前、この10月でちょうど80歳になる父と、まだ小さかった私との間に、何度となく交わされた会話です。
満州とシベリアと舞鶴。
小学校に行くかいかないかのころの私の耳に、何度となく入ってきた地名・・・・。
その一つの舞鶴に、自分が52歳になってようやく行きました。
私
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「舞鶴に、引揚記念館というのができてるんだけど、行くかね。」
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父
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「まあ、ええ。昔のものは何も残っとらん。もう、ええ。K(私の子ども、つまり父の孫)たちに、舞鶴やシベリアのことを説明してやってくれ。」
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今回の旅行は、父の戦中・戦後の青春時代とそれを「理解」してきた私の思いを再確認する、「時間旅行」を兼ねた重い旅でもありました。
1945(昭和20)年8月15日の敗戦の時点で、現在の日本の領土以外の場所に、およそ630万人以上の日本人が残されていたと推定されています。
敗戦によって、太平洋の島から、東南アジアから、中国本土から、満州から、軍人や民間人が、続々と帰国してきました。
これを「引揚」と呼びました。
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厳密な言葉遣いをすれば、戦地からの軍人の帰還は「復員」、民間人の帰国が「引揚」です。しかし、ソ連の収容所からの将兵の復員も、ここでは「引揚」と呼んでいます。
舞鶴に於いては、「引揚」とは、イメージ的には、民間人の引き揚げではなく、シベリア等ソ連の収容所からの引揚が主役となっています。
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当初、敗戦直後は、引き揚げは無秩序の行われました。
しかし、敗戦から3か月後の、1945年11月に、地方引揚援護局官制が制定され、引揚者の援護を、舞鶴の他、浦賀(神奈川県)・呉・佐世保・下関・博多・鹿児島など指定された10港に置かれた地方引揚援護局で行うことになりました。これらの港は「引揚港」と呼ばれました。
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引揚者は、着の身着のままで帰ってきます。
援護局では、検疫・病人の治療・看護を初め、国内の目的地へ向かうまでの一時滞在の宿舎、日常生活品の支給、故郷までの列車の手配等、一連の援護を行いました。
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下表のように、引揚者総数は、600万人を超えています。
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表の数値は戦後直後だけではなく、たとえば、日中国交回復後の中国残留日本人孤児の帰国者数など、新しい時代の者も含んでいます。
若原泰雄著『戦後引揚げの記録』(時事通信社 1991年)P252-253より作成。主な地域のみを記載。ハワイ、ニュージーランドなどいくつかは省略しました。ただし総数の中には含めています。
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