その2 義勇軍と幹部そして開拓地入植、これらはすべてシステマティックとはほど遠い世界でした
高等小学校を出たばかりの14歳の少年たちが、少年にありがちな「夢」や「熱意」に動かされて、将来をそれほど冷静に考えずに満州に渡ることを決意をすることは、まあ、ありがちな、想像できることです。
若さ以外何の取り柄もない、たよりない少年たちが、見たこともない満州の地で開拓をするのですから、常識からいって、それを支える人材やシステムなどは、精一杯立派なものであったと考えたいですが、実は、これがそうではありませんでした。
まずは、指導者の問題です。
義勇軍は、その名の通り擬制軍隊組織ですから、50名ほどの小隊を最小単位として、それが5個〜6個集まって、中隊を編成していました。
父親が所属した第4次(1941年渡満)義勇軍には岐阜県出身者が435名おり、郷土別中隊編成の原則に従って、2個中隊が編成されました。第13中隊と第14中隊です。
父の所属した第13中隊は、217名の少年が所属していました。この中隊単位で、茨城県内原訓練所をスタートに、現地満州での一面坡訓練所、鉄驪訓練所を経て、3年後の1944年に開拓団に移行し、敗戦後困難を経て帰国します。
その間中、この少年たちの面倒を見る体制はどうなっていたのでしょう。
この中隊の中隊長は栗田さんという方で、その名を取って栗田中隊と呼ばれました。
中隊には中隊長以外、4名の幹部がいました。そして、中隊長とこの幹部4名の合計僅か5名が、217名の少年を率いていたのです。
栗田中隊長は、父たちの隊長となる前は、関ヶ原の小学校の教師をされていた方でした。この方がどういう経緯や動機で第4次義勇軍の指導者となったのかはわかりません。
とにかく、県庁から義勇軍の幹部となる命をうけて、他の幹部と一緒に、少年たちより3か月早く内原に入り、幹部となる訓練を受けたのです。他の4名の幹部の方の前職は、会社員・軍隊経験者などでした。
何が言いたいかというと、217名の少年を率いた指導者の方そのものも、何らかの理由で満州行きを決意し、即席で義勇軍の指導者となった方だったのです。
もちろん、栗田さんのように前職が教師であれば、少年たちの指導という点においてその特性を生かすことができたでしょうし、また、会社員の方は隊の経理担当になり、軍隊経験者の方はもちろん生徒の軍事教練の担当となるという形で、前職が生かされました。後の二人は、農業と一般教科を担当しました。
しかし、その方々には、それ以上の知識や経験はなかったのです。
つまり、義勇軍というのは、「満州における開拓」については、とても専門家とは言えない方たちに指導された、何も知らない少年たちの集団だったということです。
もちろん、私は、中隊長や幹部の方の熱意や仕事ぶりをとやかく言っているのではありません。父は、いまでも中隊長を尊敬しております。
しかし、217名もの少年を未開の地に送り込むには、いささか頼りないシステムだったと思えてなりません。
しかも、4名の幹部のうち、1名は現地で病死され、2名は個人的な理由で帰国されてしまい、1943年には、一時は、隊長と幹部1名という寂しい状況になってしまいました。(のち、1名補充)
私
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「幹部の方2名は、どういう理由で、帰国されたの?」
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父
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「詳しくは知らんが、後で聞いた話によると、開拓の生活がいやになって帰ったという話や。」
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「幹部」の方とはいえ、生身の人間です。給料は普通の職よりは高かったという話ですが、満州の酷寒の地で、少年たちの面倒を見るtことに見切りを付けた方がいても、そう不思議なことではありません。
次は、最終的な入植地の問題です。
これについても、常識的というか、期待をもって考えれば、入植地は、国や満州拓務公社の斡旋によって最適なところがうまく割り当てられると想像したくなります。
しかし、実際には、入植地もまた、いささか場当たり的に決められました。
栗田中隊にも、1943年の夏以降、満州拓務公社からいくつか指示がきたようです。しかし、最終的に連絡があった満ソ国境に近い孫呉という町の北方の地は、中隊長が現地視察した結果、とても永住できると地ではないと判断されました。
この結果、一時、栗田中隊は開拓地が確定できず、このままでは本国帰還もやむなしというせっぱ詰まった状況となりました。
このとき、たまたま岐阜県の関ヶ原町出身の方が鉄驪からさほど遠くない綏稜県の副県長をしていたことから、その紹介で、北黒馬劉が入植地と決まりました。
システムというよりは、送り込んだらあとは、現地で何とかするという方式でした。217名もの少年の運命がかかっていたにしては、行き当たりばったりという要素が強かったのです。
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満州の開拓で話題になるのは、日本人のために用意された開拓地が、満州拓務公社によって満州人の土地を強引に略奪したものである場合が多かったということです。栗田中隊が入植した土地の法律上の所有関係がどのようなものだったかは記録にはありません。しかし、幸か不幸か、実際その開拓地は、少なくとも満州人の「耕地」ではなく、沼沢地を含んだ原野であり、本当に開拓のしがいのある土地でした。
栗田開拓団にとっては、新たな本当の苦労の始まりとなりました。
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