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 舞鶴引揚記念館の続きです。
 最初は、引揚記念館の紹介ですが、途中から、わが父親の戦争体験(満州・シベリア体験)も盛り込みました。
 次は、舞鶴引揚記念館の項目目次です。@・A・Bは、「その1」にあります。Dは、「その3」です。(次ページ)

@

舞鶴という町

A

引揚について

B

満州とシベリア

C

舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア1

D

舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア2

C 舞鶴引揚記念館と我が父の満州・シベリア1| このページの先頭へ |

 舞鶴引揚記念館は、引揚者が上陸した桟橋の近くに設置されています。
 しかし、その場所は、東舞鶴市内から舞鶴東港に沿って北に車で5分ほど走ったところにあります。
 引揚の記念館ですから、現在の港のそばにあると想像しますが、実は違います。
 舞鶴東港は今も昔も代わりませんが、引揚者が上陸したところが、そもそも当時の港のある場所ではなかったのです。
 戦前、舞鶴湾の北東の奥に、海軍兵士を訓練する
平海兵団という施設があり、その兵舎などを使って、舞鶴地方引揚援護局の施設が作られました。

 引揚用の外洋船は、舞鶴湾に入ると湾何に停泊し、引揚者は、小舟に移乗して引揚援護局の岸壁にある平桟橋に向かい、そこで上陸しました。 

 舞鶴引揚記念館。1970年にまず、周囲の引揚記念公園が整備され、1988年には、引上揚記念館が開館しました。


 引揚記念館から出て、記念公園の中の散策道を通って記念館の北川にある小丘に登ると、湾の東北の奥にあたる、当時の引揚援護局の施設があった場所が見えます。現在は、木材工場となっています。
 写真手前の桟橋が、引揚者が上陸した「平引揚桟橋」(1994年復元)です。外洋を航行してきた引き揚げ船から、湾内用の小舟に移乗した引揚者は、この桟橋から上陸しました。 


 丘の上から復元平引揚桟橋とは反対側を見ると、舞鶴湾の中心部が見えます。現在は湾を横切って「クレイン・ブリッジ」が架けられています。当時はもちろん橋はなく、橋あたりの海面に引き揚げ船(数千トンから1万トン程度)が停泊し、引揚者は小舟に移乗して平桟橋に向かいました。


 記念館内部にある引揚援護局(右手奥)と桟橋(中央上手)の周辺パノラマ模型。 
 写真中央右手の小さな白い四角の説明ボード
の部分が、現在記念館がある場所です。上の写真の現在の「クレイン・ブリッジ」は、下の写真の大型船の模型の手前の小山から対岸にかけられています。  


我が父の満州・シベリア−義勇軍・開拓団編−    | このページの先頭へ |

 引揚経験者の我が父(1926年10月生まれ、2006年の誕生日でちょうど80歳)は、この旅行には参加しませんでした。
 帰ってから、写真を見ながら、あらためて「父の引揚」について勉強会です。(父、私、次男Y、三男D)

「じいちゃんは、そもそもなぜ、ソ連の捕虜になったの?」

「満州にいて、ソ連軍が攻めてきて、一生懸命逃げたけど、捕まった。その時は、18歳だった。」

「どうやって兵隊になったの?どうやって満州にいったの。」

「そもそも高等小学校をでて、義勇軍にいった。満蒙開拓青少年義勇軍じゃ。訓練の後、開拓地に入って、これからという時、現地召集で、兵隊になった。
 最初は砲兵隊、つぎに、特別に選抜された
挺身隊にいて、ソ連の戦車をやっつける訓練をしていた。そんで、ソ連が攻めてくると、闘わずに逃げた。それでもな、捕まった。」

義勇軍って何?挺身隊って何?」

「なぜ逃げたの?」

 学校の歴史の授業以外、とくに詳しく昭和史を勉強していない息子たちにとっては、我が父の経験を具体的に理解するには、膨大な予備知識が必要です。
 ひとつひとつ、私が説明しました。(
満州開拓と満蒙開拓青少年義勇軍の基本知識については、前ページ「舞鶴引揚記念館その1」を参照ください。

「ということは、義勇軍というのは、ようするに、農民と同時に、もしもの時の兵隊の役目をもった少年だったんだね。」

「おん。そうじゃ。政治家は『昭和の屯田兵』と宣伝しとった。」


我が父の満州・シベリアでの年譜1「義勇軍・開拓団編」(地名の呼称は父親の記憶によります。)

西暦 元号 月日

 で  き  ご  と

1926 大正15 10/09

 誕生(岐阜県羽島郡正木村南及村、現在の羽島市正木町南及の小作農家の3男、4人の兄弟妹あり)

1941 昭和16 3/08

 茨城県内原にある満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所入所、訓練開始(〜5/29)

  • 歴史などの一般科目、農業などの専門科目、農業実習、土木作業、銃剣術、行軍などの軍事教練などを速習

 この時、岐阜県からは435名が義勇軍に入隊
 県別に「中隊」を編成する方針から、岐阜・西濃出身者を第1中隊、中濃・東濃・飛騨出身者を第2中隊に編成。隊員ほとんどは、1926(大正15)年度生まれ(1926年4月〜1927年3月生まれ)であったが、一部、年長者が混じる。
 それぞれ中隊長の名字を冠にして、
栗田中隊・(はなぶさ)中隊と称す。父は、栗田中隊(中隊長以下幹部5名、隊員213名)に所属。

6/05

 敦賀より満州渡航

6/11

 浜江省珠河県一面坡(イーメンパ)の現地訓練所入所

7/12

 関東軍の対ソ連戦を想定した大演習(関東軍特別大演習)に隊員の過半が参加

9/09

 浜江省鉄驪(てつれい)県鉄驪訓練所へ移動、この地で開拓地入植までの2年半あまりの訓練に入る

  • 国語・歴史・満州語・農業技術などの座学の学習と、農業・土木その他開拓地で必要な技術全般を実習

  • じゃがいも、とうもろこし、大豆などを栽培し基本的に自給自足体制を目指す

  • 米やミソは自給できないため満州拓務公社より配給をうける

  • 義勇軍のもう一つの任務である「北辺の防備」の一翼を担うため、軍事教練(実弾射撃も含む)を行う

  • 隊には、陸軍の三八式歩兵銃が貸与され、実弾も保管

  • 農産加工、自動車、給水、トラクター、木工、窯業などの特殊技術については、特科班が編制され通常の隊員とは別の学習を訓練を受ける

 父は、上記の、窯業特科班に所属。

1944

19

4月

 開拓団として、新しい入植地、北安省綏稜県北黒馬劉(キタヘイマリュウ)に入る。義勇軍の栗田中隊長はそのまま開拓団長に就任。岐阜開拓団と称す。
 住居もないまったくの原野に土地だけを割り当てられ、まずは住居造りからはじまる。(先遣隊の入植は、03/18から)
 宿舎・道路の建設、農地開墾と開拓の仕事が本格化。

1945

20

2/16

 徴兵検査

5/19

 招集により陸軍入隊、北安から北へ200kmの満ソ国境近くの黒河にある第269部隊砲兵隊に配属。15センチ榴弾砲の砲員となる。




 移民というのは、その昔のハワイ移民、ブラジル移民もそうだったとおもいますが、「向こうへ行けばすごくいいことがある」という宣伝に乗せられて、行ってみればずいぶん話が違うというのが歴史の「常識」です。移民先では、大苦労もしくはのたれ死にという例は少なくありません。

 満州の場合は、1936年の広田内閣の時に、国策として、20カ年100万戸移住計画が打ち出され、「
満州に渡れば1戸あたり20町歩(約20ha、1辺100mの正方形の土地20個分)の土地がもらえる」という宣伝のもと、満州拓務公社によって、開拓民の入植が行われました。
 その満州でも、開拓民が制度的・構造的に苦労しなければならない点は同じでした。

 このことについては、もちろんこれまでに研究者レベルでいろいろな事実が明らかにされています。ここでは、父の話から題材を得て、庶民的な視点から、「満蒙開拓」の実態と問題点をいくつか指摘したいと思います。

参考文献です。

栗田会編『満蒙開拓第4次義勇隊 栗田中隊岐阜開拓団 青春の追憶』(1991年)

山口節雄著『高らかに吹けよ鳴らせよ ああ義勇軍ラッパ鼓隊(回想記 満蒙開拓青少年義勇軍)』(プロ・アート 1993年)

新人物往来社戦史室編『満州国と関東軍』(新人物往来社 1994年)

岐阜県開拓自興会編『岐阜県満州開拓史』(1977年)

大江志乃夫著『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(小学館 1982年)


 茨城県内原(JR常磐線で水戸から東京方面へ電車で12分)には、満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所がありました。
 面積は40haと広大なものでした。
 右の写真は、「日輪兵舎」と呼ばれた宿泊施設。
 円形で円錐型のとんがり屋根が特徴です。
 屋根はスギ皮、外壁はスギ板で作られて簡便な住居で、建設費が安いことが取

り柄でした。
 内部は、2階建て構造で足を中心に向けて放射状に眠ったそうです。この1棟で60人が寝泊まりしました。この兵舎は、内原に325棟もありました。
 この内原での訓練期間は、およそ3か月弱でした。


その1 父の境遇は、教科書通りです
 父の生家は、岐阜県南部の木曽川沿いの
小作農家です。
 2・3軒地主から合計5反(約50a、100m×50mの長方形の面積)程を借りていましたが、とても農業だけで並以上の生活ができるわけがなく、父の父(つまり私の祖父ですが父のシベリア抑留中に死亡したため、もちろん私は会ってはいません)は、土木作業などの日雇いによって、糊口をしのいでいました。

 貧農の3男であった父は、自ら自立の道を求めて、「夢の満州開拓」に出て行く可能性が十分にあったのです。
 教科書的にいうと、寄生地主制度のもとで貧しい生活を強いられていた農村からは、政治的・外交的には何ら無知な若者でも、「帝国主義の尖兵」となって、植民地体制を底辺で支える役割を担っていくことになるという構造ができあがっていたことになります。

 下の基礎データ表を見れば、上述のことは明らかです。
 また、志望動機には、学校の先生の「勧め」が大きな要因となっていたことが分かります。父の場合は、親戚の中にすでに第一次義勇軍(1938年渡満)で満州に渡った従兄弟がおり、その人から「どうせ百姓やるのなら、満州の広大な土地でやろう」と誘われたからでした。



その2 義勇軍と幹部そして開拓地入植、これらはすべてシステマティックとはほど遠い世界でした
 高等小学校を出たばかりの14歳の少年たちが、少年にありがちな「夢」や「熱意」に動かされて、将来をそれほど冷静に考えずに満州に渡ることを決意をすることは、まあ、ありがちな、想像できることです。

 若さ以外何の取り柄もない、たよりない少年たちが、見たこともない満州の地で開拓をするのですから、
常識からいって、それを支える人材やシステムなどは、精一杯立派なものであったと考えたいですが、実は、これがそうではありませんでした。

 まずは、
指導者の問題です。
 義勇軍は、その名の通り擬制軍隊組織ですから、50名ほどの小隊を最小単位として、それが5個〜6個集まって、中隊を編成していました。
 父親が所属した第4次(1941年渡満)義勇軍には岐阜県出身者が435名おり、郷土別中隊編成の原則に従って、2個中隊が編成されました。
第13中隊と第14中隊です。 
 父の所属した
第13中隊は、217名の少年が所属していました。この中隊単位で、茨城県内原訓練所をスタートに、現地満州での一面坡訓練所、鉄驪訓練所を経て、3年後の1944年に開拓団に移行し、敗戦後困難を経て帰国します。
 その間中、この少年たちの面倒を見る体制はどうなっていたのでしょう。
 この中隊の中隊長は栗田さんという方で、その名を取って
栗田中隊と呼ばれました。
 中隊には中隊長以外、4名の幹部がいました。そして、中隊長とこの幹部4名の合計僅か5名が、217名の少年を率いていたのです。

 栗田中隊長は、父たちの隊長となる前は、関ヶ原の小学校の教師をされていた方でした。この方がどういう経緯や動機で第4次義勇軍の指導者となったのかはわかりません。
 とにかく、県庁から義勇軍の幹部となる命をうけて、他の幹部と一緒に、少年たちより3か月早く内原に入り、幹部となる訓練を受けたのです。他の4名の幹部の方の前職は、会社員・軍隊経験者などでした。
 何が言いたいかというと、217名の少年を率いた
指導者の方そのものも、何らかの理由で満州行きを決意し、即席で義勇軍の指導者となった方だったのです。
 もちろん、栗田さんのように前職が教師であれば、少年たちの指導という点においてその特性を生かすことができたでしょうし、また、会社員の方は隊の経理担当になり、軍隊経験者の方はもちろん生徒の軍事教練の担当となるという形で、前職が生かされました。後の二人は、農業と一般教科を担当しました。
 しかし、その方々には、それ以上の知識や経験はなかったのです。

 つまり、
義勇軍というのは、「満州における開拓」については、とても専門家とは言えない方たちに指導された、何も知らない少年たちの集団だったということです。
 もちろん、私は、中隊長や幹部の方の熱意や仕事ぶりをとやかく言っているのではありません。父は、いまでも中隊長を尊敬しております。
 しかし、217名もの少年を未開の地に送り込むには、
いささか頼りないシステムだったと思えてなりません。
 しかも、4名の幹部のうち、1名は現地で病死され、2名は個人的な理由で帰国されてしまい、1943年には、一時は、隊長と幹部1名という寂しい状況になってしまいました。(のち、1名補充)

「幹部の方2名は、どういう理由で、帰国されたの?」

「詳しくは知らんが、後で聞いた話によると、開拓の生活がいやになって帰ったという話や。」

 「幹部」の方とはいえ、生身の人間です。給料は普通の職よりは高かったという話ですが、満州の酷寒の地で、少年たちの面倒を見るtことに見切りを付けた方がいても、そう不思議なことではありません。
 次は、
最終的な入植地の問題です。
 これについても、常識的というか、期待をもって考えれば、入植地は、国や満州拓務公社の斡旋によって最適なところがうまく割り当てられると想像したくなります。 
 しかし、実際には、入植地もまた、いささか場当たり的に決められました。

 栗田中隊にも、1943年の夏以降、満州拓務公社からいくつか指示がきたようです。しかし、最終的に連絡があった満ソ国境に近い孫呉という町の北方の地は、中隊長が現地視察した結果、とても永住できると地ではないと判断されました。
 この結果、
一時、栗田中隊は開拓地が確定できず、このままでは本国帰還もやむなしというせっぱ詰まった状況となりました。
 このとき、たまたま岐阜県の関ヶ原町出身の方が鉄驪からさほど遠くない綏稜県の副県長をしていたことから、その紹介で、北黒馬劉が入植地と決まりました。
 
システムというよりは、送り込んだらあとは、現地で何とかするという方式でした。217名もの少年の運命がかかっていたにしては、行き当たりばったりという要素が強かったのです。

満州の開拓で話題になるのは、日本人のために用意された開拓地が、満州拓務公社によって満州人の土地を強引に略奪したものである場合が多かったということです。栗田中隊が入植した土地の法律上の所有関係がどのようなものだったかは記録にはありません。しかし、幸か不幸か、実際その開拓地は、少なくとも満州人の「耕地」ではなく、沼沢地を含んだ原野であり、本当に開拓のしがいのある土地でした。
栗田開拓団にとっては、新たな本当の苦労の始まりとなりました。


 左・右 鉄驪(てつれい)訓練所にあった、トラクター。

「村には、自動車もあまりなかったのに、満州にはトラクターがあった。びくりした。しかし、訓練所にあるだけで、入植地では、開墾はひたすら人力だった。」

「これってもちろん日本製じゃないよね」

「確かドイツ製だった。」

 太平洋戦線で、新しい航空基地の滑走路を造成する際にも、日本軍にはブルドーザーなどの土木機械はありませんでした。この満州のトラクターは画期的です。 

 鉄驪訓練所というのは、満州にいくつかあった義勇軍の大訓練所のひとつで、広大な敷地に20個ほどの中隊が拠点ごとに訓練をしていました。
 いくつかの中隊で大隊が編成されており、父の栗田中隊は、第5大隊に所属しました。
 大隊には、大隊本部があり、通常の中隊での座学や農業の勉強の他、特別な技術を学ぶ「特科班」が編成されていました。
 写真のトラクターもそのひとつでした。
 他に、自動車班、農産加工班、給水班、木工班、装蹄班、窯業班、樋工班、写真班、営繕班などがありました。
 父は、窯業班に属し、ペーチカ(暖炉)やパン窯に使う煉瓦、食器などの陶器などを製作しました。


その3 開拓団が崩壊したのは、ソ連軍の侵入のせいではありませんでした
 満州農業移民団が崩壊したのは、最終的には、ソ連の満州侵攻と日本の降伏であることは間違いありません。
 しかし、義勇軍と開拓団の動きを追っていくと、実際には、ソ連の侵攻とは別の要素で、それは内部崩壊していました。

 岐阜を出発した当初、217名の隊員だった栗田中隊は、次第にその数を減らしていきます。
 
その要因の1は、義勇隊生活がいやになった隊員の離隊・帰国です。
 例を示します。
 父と同じ高等小学校からは、父以外に2名が同じ栗田中隊の隊員として渡満しました。しかし、その2名の方は、いづれも、鉄驪訓練所期間中に帰国しています。
 もちろん、隊員が勝手に帰ることなどできないことでしたが、うまい方法があったのです。家から、「チチキトク、スグカエレ」などの電報をもらうのです。これには多くの場合無条件で帰国が許されました。
 満州の訓練所と故郷をつなぐ通信手段は、電話がどこでも通じる今と違って、当時は手紙と電報しかありません。その電報をうまく利用したのです。
 不本意ながら息子を渡満させた家庭では、口コミで息子を取り戻せるこういううまい方法があると知った場合、敢えて偽電報を打ちました。また、なんとか、郷里の父母にこっそり手紙を送って、偽電報を打ったもらった隊員もいたとのことでした。

 
要因その2は、これが最大の要因ですが、関東軍による根こそぎ動員です。
 本来、義勇軍に課せられた役割は、満蒙の開拓(農業)と、もしもの場合は
兵隊として国境警備の任に当たることの二つでした。つまり兵農一致です。
 そのため、茨城県の内原訓練所に入った時から、軍事教練が重要な日課であり、鉄驪訓練所にきてからは、陸軍の38式歩兵銃による実弾射撃訓練も繰り返し行いました。


 右の写真は鉄驪訓練所での軍事教練の一コマ。
 隊員たちは、陸軍の
38式歩兵銃を肩に担いで行進しています。中隊には、およそ100挺の38式歩兵銃と軽機関銃1挺が貸与されており、実弾も保管されていました。
 もちろん、父親たちも、実弾射撃訓練をやっています。夏場は農作業等で忙しかったため、とくに冬季に訓練がおこなわれました。
 
義勇軍は、当初から、ソ連軍の侵攻に対して、北の守りの一翼を担う役割を与えられていました
 そして、
ソ連軍以外にもう一つ闘う相手がいました。
 満州人の中には、満州への日本の侵略にあくまで対抗する武装勢力が少なからずいました。

 彼らは、当時の日本人から、「匪賊」(ひぞく)、「満匪」(まんぴ)などと呼ばれていましたが、日本人の開拓村が、彼らに襲われることもしばしば起こりました。
 鉄驪訓練所時代の栗田中隊にも、「匪賊の襲撃か」と緊張する場面が何度かありましが、実際には大規模な襲撃はありませんでした。
 しかし、開拓団への移行直前の1944年3月に、歩哨(警戒の兵隊)に立っていた隊員が狙撃されて死亡しました。
 右の写真は、満州国警察隊との抗戦によって死亡し、綏稜の町にさらされた、匪賊の首です。
 
侵略者は、抵抗する現地住民に容赦のない弾圧を加えました。


 当初から予期していた軍隊としての役割でしたが、それが極端な形でやって来ました。それが関東軍による根こそぎ動員です。
 病気や事故による死亡や、本国への帰還などによって、
北安省綏稜県北黒馬劉の開拓地に入植し岐阜開拓団となった1944年春ころには、当初217名いた義勇軍栗田中隊の隊員は、150名弱に減っていたと思われます。
 そして、宿舎や設備の建設、開墾(面積150ha)、種まき、収穫(大豆、燕麦、小麦、トウモロコシ)と苦労の中で開拓地建設1年目がどうにか終わって、2年目を迎えようという時、団の活動を決定的に左右する事件が起きます。
 それまでも、1944年のうちに年長者に関東軍入隊者が28名でていましたが、1945年2月、この年19歳になる1926(大正15)年生まれの団員が一斉に徴兵検査をうけ、一部の不合格者を除いて、
5月には75名もが関東軍に入隊してしまいました。
 記録には、この時点で、団長以下団員は、44名になったとあります。

徴兵年齢というのは、日本史の教科書的には、満20歳です。
ところが、太平洋戦争の劣勢が明らかとなり、1944年から徴兵年齢が20歳から19歳に引き下げられました。

 そして、終戦間際の1945年8月12日には、1927年生まれの37名にも徴兵検査を受けることなく召集があり、開拓団を後にしました。
 この時点で、
開拓団に残ったのは、幹部は団長のみ、隊員は僅か5名でした。隊長以外の幹部2名は、これ以前に召集をうけており、すでに開拓団を離れていました。(開拓団には、他に、団長の家族等がいて、合計10名残留)
 隣の開拓団であった四国村(隣といっても南10kmの遠方、四国4県出身者からなる一般開拓団)においても、終戦時には、成人男子は徴兵に取られてほとんど存在せず、残留者は老人と女・子どもばかりでした。
 これが、根こそぎ動員の実態です。
 
 父の属した
義勇軍栗田中隊・岐阜開拓団の「開拓の任務」は、事実上、1945年5月の団員75名の関東軍入隊時に、終わりを迎えていたというべきでしょう。
 ソ連との戦い以前に、
根こそぎ動員が、「満州開拓」を終焉へと導いたのでした。

 岐阜開拓団員のその後について補足します。
 8月12日に徴兵命令を受けた37名は、集結地のハルピンに着いたものの、終戦により徴兵解除の通知をうけ、8月21日北黒馬劉の開拓団に戻ってきました。
 開拓団より南にあったハルピンで終戦を迎え、また北に位置する北黒馬劉へ戻ったわけです。(地図参照)そのまま南に向かえば、満州からの脱出はもっと早くなったかもしれませんが、「団への帰属心」が、彼らに帰団を促しました。
 このことは、この37名に不幸な運命をもたらしました。3名は終戦後の混乱の中で、シベリアに連れ去られていますし、一部は行方不明となり帰国できなかった団員もいました。
 このあと、四国村開拓団と合流した岐阜開拓団は、9月30日の匪賊の襲撃にも大きな犠牲は出さず、ハルピンまで南下しました。
 ハルビンの町でそれぞれ糊口をしのいで冬を越し、1946年8月ハルピンを発って帰国、10月に栗田団長以下多くが岐阜に帰着しています。

 関東軍の根こそぎ動員について補足します。
 関東軍は、太平洋戦争開戦前の、1941年6月、関東軍特別演習(関特演)を実施します。これは、ドイツ軍とソ連軍との開戦(独ソ戦)にともなって、ソ連領侵攻のチャンスをうかがう演習でした。
 しかし、その後の日本の「南進」政策(東南アジア侵攻、太平洋戦争開戦)によって、関東軍への任務は、「静謐確保」となります。
 つまり、できるだけ巨大な戦力をもってソ連との大戦に備えつつも、当面の主戦場が太平洋方面にある以上、ソ連を刺激して不用意に戦闘を始めたりしないで、現状を維持施与という命令です。
 これによって、目立った行動を制限された関東軍でしたが、太平洋戦線の劣勢が明らかになるにつれて、関東軍へも影響が出てきます。
 それが、精鋭部隊の多方面への抽出です。
 1943年からはじまっていたい抽出は、1944年になって本格化します。


 関東軍精鋭部隊の抽出状況

1944年

1月
2月

6月
7月

10月

12月

第27師団→北支、
第29師団→グアム島、第14師団→パラオ島、
第2戦車師団戦車第11連隊→千島列島占守島
第9師団→沖縄、第28師団→宮古島、第68旅団→レイテ島、
第1師団→レイテ島、第8師団・第10師団→ルソン島、
第24師団→沖縄、戦車第2師団主力→ルソン島
第23師団→ルソン島、
第12師団→台湾、

1945年

1月
3月

第71師団→台湾
第11師団→四国、第25師団・第57師団→九州、戦車第1師団→本土、第111師団・第120師団→南朝鮮

 関東軍では、この精鋭部隊抽出の穴を埋めるため、中国戦線などから一部を補充する一方、在満からの根こそぎ動員を行い、開拓団男子・義勇軍などから25万人を動員しました。


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