徳島から、自動車道で2時間弱で高知に到着です。
この県は、橋本大二郎知事のもとで、いろいろな情報発信にチャレンジする今注目の県ですが、今回の旅の目的は、ひたすら坂本龍馬。
ずっと若いころ、司馬遼太郎氏の「坂本龍馬」を原作とするNHK大河ドラマを見て以来のファンです。まあ、そういう人は私だけでなく、日本中にごろごろいるでしょうが。
教員になって7年目に、名鉄電車の中で龍馬の写真を使った高知県の観光ポスターが目に留まりました。そのキャッチコピーが、「龍馬にもふとあえそうな土佐の旅」。
龍馬の名前をそういう風に使って観光客が呼べる土佐をうらやましく思いました。岐阜県なら・・・・、誰もいません。
※ポスターは日本史クイズ幕末明治維新編を参照。
【長曽我部元親】
高知=土佐というとまずは長曽我部元親。龍馬の話をするには、ここから話をはじめなければなりません。
天文7(1538)年、元親は土佐岡豊(おこう)(今の高知県南国市)を根拠としていた戦国武将長曽我部国親の子として生まれました。永禄3(1560)年家督を継ぎ、勢力を拡張します。この年は、信長が桶狭間で今川義元を破った年です。
1585年にはほぼ四国全体の統一に成功しますが、この時全国制覇を目指していた豊臣秀吉の四国攻めにあって降伏し、土佐一国のみの領地の所有を認められました。
秀吉の死の翌年、1599年に元親は没し、家督は子の盛親が相続します。
盛親は関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、徳川軍との戦闘は行わなかったものの、戦後領地を没収されてしまいます。盛親はこのあと大坂の役にも参加し、とらえられて殺されます。
※関ヶ原の闘いの様子は、日本史クイズ安土桃山時代編参照。
【山内一豊】
代わって、土佐の新しい領主となったのが、山内一豊です。
秀吉の家来であった彼は、石田三成の挙兵に対して、徳川家康が下野小山で開いた軍議の席で「手柄」をたてました。
旧秀吉家来派の大名の動向が気になる中で、一豊は、家康軍の進軍のために自分の領地である東海道の遠江掛川城(静岡県掛川)を差し出すと発言し、軍議の大勢が家康支持に傾くきっかけのひとつを作りました。
関ヶ原の合戦の戦闘中はたいした手柄もありませんでしたが、この発言が聞いて家康の信頼を勝ち得、土佐高知20万石を手に入れました。
一豊の土佐入国によって。江戸時代終わりまで続く土佐藩が形成されます。
しかし、この藩は、江戸時代はじめの領主の交替によって、独特の身分構造を持つことになりました。
山内氏は遠江掛川から連れてきた家臣を身分の高い武士=上士とし、長曽我部以来の武士を下級家臣=下士としました。つまり、同じ武士階級でありながら、上士と下士とでは厳しい身分の違いによって分けられる仕組みが作られたのです。
1853年のペリー来航以来の政治混乱の中で、当時藩政に大きな力を持った藩主山内容堂は、穏健な公武合体の考えで政治を進めますが、土佐藩内の下級武士の中には過激な尊王攘夷を唱える一団が形成されます。これが、土佐勤王党です。藩内で衝突がありましたが、1863年以降は、藩論は公武合体派が握ることになります。
【坂本龍馬】
ようやく龍馬の出番です。
龍馬は、1835年、土佐藩の豪商才谷屋の分家で、町人郷士という下級身分の家に生まれました。1853年(嘉永6)江戸にでて千葉道場で剣をまなびますが、このときペリー来航に接し、はじめ攘夷思想の影響をうけます。
翌1854年に帰郷。藩の尊王攘夷派の武市瑞山(たけちずいざん)と交友を深め、61年(文久元)瑞山が土佐勤王党を結成すると加盟して尊王攘夷運動にかかわり、翌62年、他の同志につづくように脱藩して活動の場所を中央に求めます。
しかし、開国論者勝海舟の暗殺に出向いて、反対に勝の感化を受け、そのもとで幕府の近代海軍創設計画に参加し、1863年には神戸の海軍操練所設立に勝の片腕となって活躍しました。先の脱藩の罪は海舟の尽力でゆるされましたが、藩が土佐勤王党への弾圧を強めたため、63年末に帰藩命令を拒否してふたたび脱藩しました。この後、薩摩藩との関係を深めます。
1865年(慶応元)薩摩藩の支援のもとで海軍操練所の修業生らと長崎に亀山(かめやま)社中を結成。貿易・海運による商業活動とともに、討幕のため薩摩藩と長州藩をむすびつける政治活動を行います。薩摩藩名義で買った外国船・銃砲を長州藩にまわすなどして、66年には、薩長同盟をむすぶことに成功します。
さらに、薩長に土佐藩をくわえた3藩連合を画策し、翌67年4月、藩との関係を修復して亀山社中を海援隊へと改組。藩の支援をうけ、海援隊の商社的な事業を拡大させるとともに、6月、独自の国家構想「船中八策」をまとめました。
この構想が下敷きとなり、10月、土佐藩は大政奉還建白をおこないます。こうした活動は幕末期の政局に大きな影響をあたえましたが、徳川慶喜が大政奉還をおこなった翌月の11月、京都の近江(おうみ)屋に滞在中をおそわれ、暗殺されることになります。襲撃者については諸説ありますが、中には、同郷の後藤象二郎暗殺説もあります。
龍馬がこのように自由な発想で新しい社会の建設に進み出すことができた要因のひとつは、彼が武士とは言え郷士階級という差別を受ける身分であったことに求められるでしょう。
※坂本龍馬のミニチュア像やポスターの入手は、現物教材のページ参照。
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