2003年9月26日、この日は朝早くその日の仕事の「予習」をしようと、午前5時過ぎに起きました。TVをつけたら、北海道で地震が起こったというニュースが飛び込んできました。
最初の地震は午前4時50分に発生し、余震の一つと思われる次の大きなものが、6時8分にもありました。
最初の地震は、釧路で震度6弱を記録
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北海道・北方領土沖を震源とする地震
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しました。震源は襟裳岬東南東沖80キロの太平洋、震源の深さは42キロ、マグニチュードは8.0と推定されました。
新聞によると、北海道と北方領土の沖合を震源とする大きな地震は、この100年間にたびたび起こっています。
この110年間に起こったマグニチュード7以上の地震を図に示すと、右図のようになります。
このうち、この交流記でしばしば話題となっているのが、1994年の北海道東方沖の地震です。
この地震が、色丹島にひどい被害を与えたのです。
島のある場所では、地震後に地盤が50センチほど沈下し、国境警備隊の基地がある斜古丹湾では、10基ある燃料タンクの大半が壊れ、重油などが湾内に大量に流出しました。
穴澗や斜古丹の小中学校など、多くの建物が崩壊しました。
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1994年の地震で倒壊した斜古丹の小中学校。2002年の時点で廃墟のまま放置されていた。
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地震の報道を聞いたとき、私の脳裏に心配がよぎりました。「この地震で色丹島はまた大きな被害を受けたのではないだろうか。」
翌日、インターネットを通していろいろ探しましたが、情報は僅か2件しかありませんでした。
読売新聞ニュースは、川口外相の26日の閣議後の記者会見の模様を伝え、北方領土の被害状況については、「最終的な確認はとれていないが、国後、色丹では大きな人的、物的な被害はないと言うことだ。」と伝えました。
また、共同通信は、小泉首相が「北方4島でも被害が出ている可能性がある」として調査を指示し、坂口厚生労働大臣は、「必要な場合には、医療チームの派遣も考えないといけない」
と発言したと伝えました。
1994年の地震と違って、今度は、色丹島は震源とはずいぶん離れていますから、北海道の東岸で発生した被害ほどは大きくないという予想はつきます。
しかし、北海道の被害の報道がテレビで映し出されるにつれ、「色丹島は本当に大丈夫か」という心配が強くなってきました。
こんなこと言っては何ですが、物的な被害なら、ある程度のものでも、日本なら予算をつぎ込んで復興させることができますが、色丹島では致命的になる場合もあります。
1994年の地震でも、あまりの被害の大きさに多くの島民が離島し、地震前に6400人あった人口が、2000年には2200人になってしまったのですから、もし今度大きな被害が出れば、ひじょうに厳しい状況となる危険性があります。
色丹島と何もつながりがない方なら、「その方が、北方領土返還のややこしい処置が省ける」と考えてしまうでしょうが、ナターシャご夫妻のことを考えると、被害がなかったことを祈るばかりです。
1週間、どうしようかと考え続けました。手紙が届くのは1ヶ月後だし、インターネットは相変わらずないからeメールもだせないし・・・。
ならば、最も簡単な手段で確かめなけれななりません。
10月4日(土)のこちらの時間で7時半過ぎ、色丹島へ国際電話(日本政府の見解では国内電話ですが・・・)をかけました。
色丹島とは言え、ちゃんと電話は通じます。ダイヤルすれば何とかなります。
しかし、決定的な問題がありました。私の語学力では、流ちょうな英語を話すナターシャの英語が、電話では特にうまく聞き取れないのです。
「ハロー、こちらは・・。」
電話にでたのは、夫のアンドレイでした。ナターシャは出かけて留守でした。
実は、これがラッキーでした。
夫のアンドレイも英語の先生なのですが、アンドレイの発音は非常にわかりやすくて、私にもよく理解できるのです。
「今どこから電話しているのですか?」アンドレイは突然の電話に驚いています。
「もちろん、岐阜からかけています。地震があってからずっと心配していました。被害はどうですか。」
「大丈夫です。もちろん少々揺れましたが。被害はありません。島の主な施設も私の家も、大丈夫です。」
安心しました。もちろん、建設を開始したばかりの学校も大丈夫とのことです。
「そろそろ涼しくなってきましたか。」
「ええ、まだ寒いと言うほどではありませんが、雨の日が続いて気温が下がっています。」
気候も、東海地方の「常識」とは、ずいぶん違っています。
「ナタリアによろしくお伝えください。」
「わざわざ電話してくれてありがとう。ナターシャも喜ぶでしょう。」
「また、カーチャに手紙を送ります。しっかり日本語を勉強するようお伝えください。」
まずは、一安心です。
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