私のメールアドレスを書いた手紙を送ってから数日して、アンドレイからメールが届きした。
「あなたのことは、ナターシャから聞いています。あなたが私たちの島や私たちの生活に興味を持ってくれることを嬉しく思います。私が札幌にいる期間はあまり長くありませんが、いろいろなことについてメールを交換して、あなたの知識を増やすことができると思います。」
次の問答は、アンドレイとのメールのやり取りを、「Q and A」風に書き直したものです。
私
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「ナターシャから、あなた方の学校の校舎の再建について聞きました。校舎の建て直しはうまくできることになりましたか。」
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ア
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「建て直しは決まりました。今の校舎の場所に新しい校舎を建てることになりました。できあがる校舎は、ロシアでももっとも新しい立派なものの一つとなるはずです。」
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私
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「もちろん、その費用は、ロシア政府が出すのですね。」
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ア
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「はい、日本の援助とか、そういうものではありません。全額我が国の地方政府の予算でまかなわれます。」
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そうでしょう、そうあるべきです。いくら財政的に苦しくても、ミサイルや潜水艦は放っておいて、国の将来を担う子どもたちに、資金を投入すべきです。
私
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「この日本語研修への参加については、結構希望者がいると聞きました。あなたが研修に参加できた理由は何ですか。また、費用はどのくらい払ったのですか?」
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ア
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「札幌に行きたい希望者はたくさんいます。私は、色丹島のビザなし交流委員会の責任者ということから、今回の研修に参加することができました。但し、費用もたくさん払っています。
ロシアのお金で、11000ルーブル、およそ400ドルです。これは、私より給料が高いナターシャの月給の2ヶ月分です。」
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私
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「ところで、あなたはどこの出身ですか。どういう理由で、色丹島に行ったのですか。」
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ア
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「私は、サンクト・ペテルブルクの出身で、モスクワの東300キロぐらいにあるニージニーノブゴロドの外国語大学を卒業しました。色丹島に英語の教師の職があることを薦められて、この島に来ました。1986年のことです。
私は極東に行った経験はありませんでしたし、新しい島で新しい人々と暮らすことに非常に興味がありました。」
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私
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「私たちが色丹島に行ったときは、当局の担当者から、北方領土の将来などの政治的に過敏な問題についてはあまり具体的に質問しないように言われていました。でも、今なら、それほどの誤解は生じないと信じて、敢えて質問します。
あなたは、色丹島の将来についてどう思いますか。」
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ア
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「私は、色丹島の将来について決して楽観主義者ではありません。ここはまた、本土から遠く離れすぎています。私たちの運命は、私たちに関係なく、遠いところで決定されます。」
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ア
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「私たちは、現在の立場で精一杯努力するしかありません。
娘のカーチャが大学を卒業する頃には、生活がかなり改善されているだろうと思います。しかし、彼女が大学を出たあと、この島に就職先があるかどうかは、わかりません。また、彼女が日本語について興味を持っているかどうかは、神のみが知るところです。」
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ア
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「ただ確実に言えることが、ひとつあります。
この島は、私たち夫婦が結婚し、カーチャが生まれた島です。私はこの島を離れるつもりはありません。病気になろうが、煩わしい問題に疲れようが、私はこの島でこの仕事を続けていきます。」
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アンドレイの考えは、至極当然のものです。
戦前、北方4島に住んでいた人にとって、そこが忘れがたい故郷であるように、今現在、色丹島はそこに居住する人にとって、離れがたい故郷であるわけです。
偏狭なナショナリズムに固執することなく、普通に、考えていくことが重要です。
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