「これが私が描いた絵です。冬の色丹島穴澗湾です。」
額に入った見事な油彩画がプレゼントでした。
「去年色丹島へ渡った時、何年か前の冬に燃料が切れて大変だったと言う話を聞いたけど、昨年の冬は大丈夫だった?」
「ええ、ここ数年は大丈夫。日本から人道援助をしてもらってから、燃料には不安はないわ。それもこれもスズキさんのおかげです。」
「え、鈴木宗男議員ことは、みんな知っているの?」
「ええ、1994年の地震で、北方4島はインフラが壊滅的な被害を被ったのだけれど、それ以後の復興には、ロシア政府と言うよりは、スズキさんのおかげという面があることはみんな知っているわ。日本の国会で批判されて、残念だわ。」
「説明するとややこしくなるけど、しょうがないな。鈴木議員は、古い自民党体質の象徴のような政治家だったから。」
「今は、燃料よりも、学校のことが心配なの。」
「学校って、きみの勤めている穴澗の学校のことかい?何が起こったの?」
「去年来た時、私たちの前の学校が1994年の地震で壊れて、日本政府の人道援助で立てられた仮の学校に音楽学校と同居しているってことは聞いたでしょう。その学校の校舎が傷んできて、大規模な修理か、立て替えが必要になってきたの。
サハリンの政府に頼んでも、2・3年先には何とかなるだろうって言うのよ。
2・3年先まで待てないの、今すぐ修理が必要なのよ。」
こんな話を聞くと、ロシアと日本の狭間で不幸になっていく色丹島の子どもたちの顔が浮かんで、悲しくなります。
サハリン政府は、色丹島に大規模な投資をする考えはないのでしょうか?
「ナターシャ、いつまでも話していたけど、もう時間も遅くなった。ホテルへ帰ることにするよ。お別れをいわなければならない。」
「明日は、いつ出発するの。朝は会えるの。」
「いや、朝は6時前に起きて、7時過ぎの電車で千歳空港へ向か
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早朝の札幌駅JRタワー。上の方は雲がかかっていました。
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う。きみがホテルを出る頃は、もう空の上だと思う。」
「そう・・・。じゃ、外まで送るわ。」
11時少し前、ホテルの前で彼女と別れました。言いたいことはいろいろありましたが、英語の達人ではない私は、あまり苦労してしゃべりすぎて、本日分の英会話のパワーを使い切ってしまっていました。
もう、ただ顔を見つめて、握手するのみです。
「サヨナラ、またね。」
翌朝、早く起きた私は、ホテルを出てコンビニに行きました。ナターシャへの手紙を書くためのレターセットを買ったのです。
「ナターシャ、とても楽しい2時間半だった。言葉のことがあって、あなたが話したことをどれだけ理解できたかどうかは、心配だ。もし、あなたを『わかってないなー』と思わせてしまったとしたら、許して欲しい。
あなたがどこに住んでいようと、日本語を勉強したいという夢を持っているあなたがいる限り、僕はあなたを応援する。また会える日を楽しみにしている。」
ホテルのフロントにメッセージを託して、7時過ぎの電車に飛び乗りました。
14日(月)の午後9時、まだ職場にいた私の携帯に、ナターシャから電話が入りました。
「今、根室のホテル。明日はね、9時に出港よ。」
「いろいろあったね。」
「そう、いろあったわ。」
「矢のように時間が過ぎてしまったね。」
「とても楽し5週間だったわ。」
「きみが島に帰っても、たとえ往復2カ月かかろうと、たくさん手紙を書くよ。きみも、写真とか送ってくれる?」
「もちろん・・・・・。こんどはいつ会えるかしら。」
「来年、また札幌で会えるといいな。」
「そうね。そう思い続ければ、この別れも、悲しいものではないわ。」
「色丹島までの航海の無事を祈っている。」
「ありがとう、さようなら。」
もしわたしたち二人が、運がいいとすれば、また会えるかもしれません。
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