色丹島との草の根交流記11

 これは、私が2002(平成14)年9月18日(水)〜9月22日(日)に参加した北方領土色丹島訪問以来、友人となった色丹島のロシア人英語教師一家との間に続いている草の根の交流について記録したものです。


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011 最後の夜  

 「TVの前でスピーチをした時は、どんなことを話したの?サンクト・ペテルブルクのこと?」
「いいえ。今年の日本語研修で、いろいろ経験したことを話したのよ。授業の方法、毎日毎日宿題で苦しんだこと。日本の文化の学習が楽しかったこと。それから、いろいろな人に支えてもらったこと。」

 彼女たちは、毎週金曜日にはお茶や生け花や折り紙など、いろいろな日本の文化を学習しました。彼女は、先週やった着物の着付けが特に気に入ったようでした。

 また、土日には、札幌から離れて小旅行を楽しんだのですが、彼女にとっては、富良野のラベンダー畑よりも、千歳の水族館よりも、先週の土日に行った倶知安のホームステイが印象に残ったようでした。
「ほんの短いステイだったけど、いろいろしてもらって、最後は涙涙の別れになってしまって・・・。」

「もちろん、あたなにも、特別にお礼を言わなければなりません。辞書も本もカーチャへのお土産も大事にします。
 ところで、あなたにとって、私たちロシア人を応援することは特別な思いがあるの?」
「そうだね、ナターシャ。きみのことを聞いてばかりだったので、自分のことも話さなくちゃフェアーじゃないね。僕がロシアをどう思っているかを。
 僕の家族は、僕ときみとの関係以外のほかにもロシアとつながりがある、いや、あったというのが正確だけど、何のことか想像できる?」
「いや、わからないわ」

「ずいぶん昔の話だよ。」
「もしかして、戦争の時の・・・。」

 私の父も妻の父も、1945年8月15日を兵隊として満州で迎え、その後捕虜として4年、酷寒のシベリアの地で厳しい収容所生活を送りました。
 父にとって、ロシア人というのは、ロシアの兵隊を意味しました。彼は彼らを「ロスケ」と呼びました。それには憎しみと恐怖とそしてその感情の裏腹として軽侮の念がこもっていました。私が小さかった頃、よく昔話を聞かされたものでした。

「たとえ1週間にしろ、国と国とが戦争をしてしまったことの影響は大きいものだね。
 それから、色丹島でも話をしたけど、1970年代に日本の大学で歴史学を学んだ者としては、共産主義や唯物史観への複雑な思いもあった。それらのイデオロギーは、とらわれの身となるか、拒否するか、克服するか、いずれにしても意識せずには通れない関門のようなものだった。」

「あなたにとっては、ロシアは、ずいぶん難しい国だったのね。」
「そうだよ、それだから、北方領土へ行く時も、いささか複雑な思いだった。ところが、・・・。」
「来てみれば、私のように、普通の人がいて、普通に生活していた。」
「当たり前の話だけれど、そういう時の感動って、つまり、何か心の周りを覆っていた殻が取れた時の感動って、大きなものがあるよね。」

 ナターシャは、日本語学習のおかげで、簡単な日本語の単語は分かります。話をしながら、
「分かる?」「今のは分からない」と言う確認ができるだけでも、前よりも話がずいぶん進みます。

「それだけではない。まあ、どこの社会にも国にも、いろいろな機会があっても何もしないタイプの大勢の人と、チャンスがあるとそれを利用して苦労も顧みず何かしようとするごく少数の人がいるようだ。
 あの日色丹島のカフェで、僕ときみと、そういう少数派の人間がうまく出会ったと言うことが僕たちの交流のはじまりになったわけだ。」
「神様に感謝しなければ行けないわ。あなたは、ほとけ様に?」
「いや、こういう時は、日本の神様かな。」
 
 話ははずんで、札幌の夜は、あっと言う間にふけていきます。 


 お馴染みの夜の札幌時計台。もとはかの有名なクラーク博士の札幌農学校の講堂です。

  若いアベックが、「ねぇ、おじさん、おばさん。ここ最高の撮影ポイント。背景に時計台が入っていい写真になるよ。私たちも今ここで撮ったの。」と言ってくれたので、わざわざベンチの上に上がってシャッターを押してもらいました。
 しかしご覧のように、人間の目には見えた時計台は、デジカメにはぼんやりとしか見えませんでした。
48歳のおばさんとおじさんです。


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