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 D 野麦峠の思い出                    <目次>へ戻る

 野麦峠の思い出と言っても、以前にここに出かけたわけではありません。

 岐阜から野麦峠までは、経路によって多少違いますが、190qから200qあります。

 人にはそれぞれ、あとになって思うと、小さい頃のあのことが、若い頃のあのことが、自分のそののちの人生を決めたのかなという出来事があると思います。

 人との出会い、結婚なんてものはその象徴的なものでしょうが、人がどの職業を選んだかというのに関しても、そういう思い出のできごとがある方もいるかと思います。
 
 それが、私の場合、野麦峠なのです。

 昭和43年、私は岐阜市立梅林中学校の2年生でした。
 その時の担任のS教諭は、本来は体育の専門家なのですが、持ち時間の都合か、何かの理由か、私たちの2年4組の社会科の授業も受け持っていました。

 普通の中学生の目から見ても、「やあ、これは、この先生があまり得意としていない教科、ひょっとしたらはじめて教える教科」と思えるような授業ぶりで、受けている方としてはなかなかはらはらして大変でした。

 私はこの担任にはいわゆる「目をかけてもらった」ので、彼を非難するつもりはありません。むしろ、その時30代後半で、自分の不得意な教科(はじめてやる教科)を受け持たなければならなかった担任に、同情を禁じ得ません。大変なご苦労だったと思っています。

 授業の最中にうる覚えの事実関係がこんがらかって、立ち往生されることもしばしばでした。もっとも、S先生はそれで悩んでしまわれるタイプではなく、「おー、まちがっとったか」と豪快に突き進んでいく健康なタイプでした。(^.^)

 そのうち、彼は、とてもいい方法を実施しました。
 生徒をグループに分けて、授業の単元を分担させ、「しっかり調べてきて発表しなさい」という、今日的には生徒の主体性を非常に重んじる授業形態を取ったのです。
 
 これは察するに、生徒を育てるという積極的な意味よりも、必要以上の混乱を避け、自らは傍観者・コメンテーターとなって省力化を図るという、S先生の起死回生の作戦だったと思います。

 さて、話を野麦峠へつなげます。

 この時、私のグループがはじめて分担したのが、「産業革命と社会」でした。
 本来はグループで調べる学習でしたが、たかが4人のグループでしたので、今回は私がやると言うことで、一人で調べてやりました。

 教科書の文章を解析してそれをマジックインキで模造紙にまとめるという一般的なやり方では、面白くありません。そこで私は、参考書や、その時代の中学生ならよく読んだ、旺文社の「中学生時代」・学習研究社の「中学生コース」をしっかり読んで、発表に臨みました。この二つの本は、同世代の方なら、なつかしく思い出していただけるのではないでしょうか。
 
 授業は、イギリスの産業革命の話、日本の労働者の生活に見る産業革命期の社会の実情という内容にしました。そこで、飛騨の娘達が野麦峠を越えて信濃の諏訪湖畔に工女として働きに行く話を取り上げたです。私と野麦峠のはじめての出会いでした。
 教師になってからの授業では、クイズ「自由民権運動-日露戦争」にあるように、いろいろ高度なねらいを持てるようになりましたが、この時は、まだまだ初歩の初歩でした。
 
 しかし、「工女たちの労働時間はどのくらいだったか?」・「工女たちの食事はご飯と他におかずはなんだったか?」と二つのクイズを出題したのを記憶しています。
 すでに、この時に、あとあと教師になる時の原型があったと言えます。

 自画自賛ですが、クイズも入れた私の発表(授業)は、友人にも好評でした。
 これ以後合計3度発表しましたが、その記憶は、私にも、級友にも印象深く残ったようです。

 10年ほど前の同窓会での級友の発言がそれを物語っていました。
 みんなが言ったのです。
「Mさんって、先生やってるの。」
「やっぱり、さすがだね。あのころS先生に代わって、よく授業しとったものね」「そうそう、いつもやっていた。」
「数学とかもやっとったでしょう」

 級友のみなさん、やったのは、たった3回です。数学はやっていません
 私にしてみれば、嬉しい「伝説」です。

 うまく説明すれば、みんなが分かって喜んでくれて、自分も気持ちがいい。
 教師になるゾーと思った原点は、野麦峠の「授業」にあったと、偉くなって誰かに伝記を書いてもらう時は、そう頼んでおこう。(^.^)

峠から見た5月の乗鞍岳

峠からやや下った野麦集落手前から見た御嶽


 E 野麦峠の館                        <目次>へ戻る

 5月6日月曜日の朝、未明のホタルイカ定置網漁観光を終えて、すぐに旅館をチェックアウトしました。睡眠時間は4時間ちょっとですから、普通の観光客なら港から旅館へ帰ってまた一眠りしてから朝食というところです。
 しかし、私と三男Dは、旅館に帰ってすぐ出発という強行軍を選択しました。

緑は岐阜県白は長野県

 理由は二つありました。
 朝早くは交通量が少なく、目的地までの時間が稼げること。これはいつでも同じです。
 この日は、もう一つ重要な理由がありました。

 これから向かう岐阜県飛騨地方に、この日やっかいな集団がいて、彼らが私たちの行程と同じルートを通る危険性があったのです。
 何のことかおわかりですか?

 連休にTVを占領した、あの白装束の謎の集団、パナ・ウエーブ研究所なるカルト教団が、飛騨地方にいたのです。彼らは、前日のTVによると、私たちを同じルートを通って、長野県へ抜けるという情報でした。

 幸い、白装束集団とは出会いませんでした。彼らは、この日の夜になって、朝日村・高根村を通って、長野県開田村へと抜けていったのでした。(青い矢印)

 飛騨(岐阜県)と信濃(長野県)は、2000メートルから3000メートルの山々によって隔てられています。
 野麦峠は、乗鞍岳3026メートルと御嶽3067メートルの間の鞍部で、標高1672メートルの峠です。この峠は、古くから信濃と飛騨を結ぶ重要な交通路となっていました。
 
 明治時代、飛騨の少女達は、この峠を越えて、信州諏訪湖畔の製糸工場へ働きに行ったのです。
 5月の峠は、岐阜名古屋では汗ばむ陽気と言うのに、まだ、あちこちに雪が残っていました。


 現在の道路はもちろん舗装道路ですが、その上方に旧道が残っていて、遊歩道になっています。
 こちらは、北斜面のため、5月でもまだ残雪が・・・。

 これは、東宝映画「ああ野麦峠」で有名になった、政井みねさん石像。兄に背負われ、「ああ、飛騨が見える」といって亡くなったあのみねさんです。

 これは、野麦峠の館にあった西は高山から東は諏訪湖までの地域のジオラマ。工女たちの道のりは、赤線で示した。 


 峠の上には、休憩所と高根村村営の資料館、「野麦峠の館」があります。
 館内には、製糸女工関係の展示の他、山村の暮らしを紹介したものがたくさんあります。
 右はその一つ、当時の工女たちの峠を越える時の服装の展示です。
 このほかにも、飛騨の食文化の歴史、杣仕事、蚕飼い、灯火の歴史などが勉強できます。

 峠の一体は、峠の名前の由来となった「野麦」、すなわち、クマザサが群生しています。

 大凶作の時、ササの根元から細い稲穂のようなものが現れて貧弱な実を結び、これを飛騨では野麦と呼んだのです。
 里人は、この実をとって粉にしてダンゴを作り、飢えをしのぎました。

 これで、今回の旅行記は終わりです。


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