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 寸又峡温泉 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 寸又峡温泉は、寸又川によって形成された寸又峡にある温泉です。寸又川は、南アルプスの光岳(標高2,591m)に源を発する大井川の最大支流です。
 千頭駅前から寸又峡温泉行きのバスが出ていますが、片道40分間、料金にして860円もかかる「秘境」です。奥泉から大井川渓谷と分かれて寸又峡へ向かう県道77号線は、県道とは名ばかりの山道です。そこを通常の大型バスが走るのですから、対向車とのすれ違いは、そのたびにスリル満点です。


 写真03-01 片道860円 (撮影日 11/05/04)

 写真03-02 この道をバスが・・ (撮影日 11/05/04)

 鉄道はもちろんですが、バスも乗る時は先頭座席が最高です。行き先の状況がすぐにわかりますし、なにしろ、前面のフロントガラスから見晴らしがききます。もうひとつ、車酔いに弱い私には、「カーブ情報」=「加速度変化情報」を事前に目で確認できることで、車酔いの防止になります。 


 写真03-03 アプトいちしろ駅(撮影日 11/05/04)

 写真03-04 寸又川の渓谷 (撮影日 11/05/04)

 左:大井川渓谷から分かれて峠を越えて寸又川渓谷に入る寸前にあるポイントからは、大井川ダムとアプトいちしろ駅が展望できます。このことは、→2ページで説明しました。「長島ダム・アプト線」 


 寸又峡温泉は、寸又川の本流から、カジカ沢川を400m程さかのぼったところにある、ひなびた温泉です。周辺は渓谷の自然を満喫できる遊歩道が整備されています。8月4日の朝食前、早起きして、ダム湖にかかる吊り橋に行ってみました。


 写真03-05 温泉街モニュメント(撮影日 11/05/03)

 写真03-06 朝日山荘  (撮影日 11/05/03)

 寸又峡温泉は山間の風情ある温泉街です。キャッチフレーズは、「日本一清楚な温泉保養地」です。美肌効果のある「美人の湯」と言われています。妻に言わせると、「肌がつるつるすべすべになる」という感じだそうですが、同じ湯に入っても、私の感覚は、「ぬるぬる」です。(^_^)
 左:バス停近くにある寸又峡温泉モニュメント。温泉街の開発は比較的新しく、1962年のボーリングにより始まりました。
 右;私たちが宿泊した朝日山荘。宿は全部で20軒ほどしかありません。豪華なホテルというわけにはいきません。

 私がこの温泉の名前を最初に記憶にとどめたのは、あの1968(昭和43)年の
金嬉老事件です。私が中学校1年生の時でした。これは、金嬉老という名の韓国人が、ライフル銃とダイナマイトで武装し、人質を取ってこの温泉のふじみや旅館に立てこもった事件です。その様子がTV中継され、いわゆる劇場型犯罪の最初の例と言われています。 


 写真03-07 猿並橋  (撮影日 11/05/04)

 写真03-08 天子トンネル (撮影日 11/05/04)

 温泉街からは、寸又峡上流へ向かう遊歩道が整備されています。
 左:吊り橋、猿並(さんなみばし)橋は、寸又川本流に架かる二つの吊り橋のうち、下流側の吊り橋です。長さ96m、高さ11mとなかなかの迫力です。このあたりに住む猿の群れが、対岸の朝日岳(1826m、写真左側)側から、寸又峡温泉への行き来に並んで渡ることが名前の由来となったと言われています。
 右:天子トンネルを抜けると、すぐにダムが見えてきます。 


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、寸又峡周辺の地図です。


 写真03-09 大間ダム湖 (撮影日 11/05/04)

 写真03-10 夢の吊り橋 (撮影日 11/05/04)

 寸又川上流にある、大間ダムのダム湖です。
 そのダム湖に、もう一つの吊り橋、「夢の吊り橋」がかかっています。ここまで、旅館街の端から徒歩で20分ぐらい(ちょっと早足)です。 


 写真03-11  夢の吊り橋 (撮影日 11/05/04)

 写真03-12  夢の吊り橋 (撮影日 11/05/04)

 長さ90m、高さ8mのそれほどではない吊り橋ですが、下の水の色がなんとも言えません。 


 写真03-13 夢の吊り橋                 (撮影日 11/05/04)

 この吊り橋の写真は、対岸から撮影したものがありません。
 実は、妻と二人で渡り始めたのですが、真ん中あたりで怖くなって引き返したからです。(-_-;)

 吊り橋というのは不思議なもので、ちょっとした条件で、渡る怖さが増加します。先に紹介した塩郷の吊り橋はもっと長いのにさほど恐怖感なく渡河できました。(時間的には、このあと、この日の昼前になります)
 しかし、この橋を渡ることに関しては、早朝のため私たち以外に誰もいないこと、下の川が青い不気味な水を満々とたたえるダム湖であること、この二つの理由によって醸し出された恐怖感のために、途中で引き返すはめになってしまったのです。
 妻「二人で落ちたら誰にも知られず、水没よ。」(注:二人とも水泳は苦手です)

 この吊り橋の手前(下流側)で、二つの川が合流しています。写真の右上が寸又川の本流です。ここから25kmさかのぼったところが源流で、ここから11km下流で大井川に合流します。この上流5キロほどには、さらに
千頭ダムがあります。(源流部の光岳の手前には、千頭山という名前の山もあります。)
 左の流れが支流の大間川です。このダムの名前はこちらの川の名前が付いています。ここからプロムナードをさらに20分ほど大間川上流へ歩くと、飛龍橋という立派な橋があります。
 また、ここより下流には、大井川と合流する手前に寸又ダムがあります。


 さて、ここでクイズです。まじめな日本史知識クイズです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

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 紀伊国屋文左衛門というと、昔ながらの講談や浪曲の世界では、その名前の紀州からみかんを運んだ商人として有名です。しかし、生没年不詳の彼の人生は半ば伝説の人物となっており、みかんについても、「みかん伝説」の域を出ません。しかし、寛永寺根本中堂の造営は事実とされており、静岡県にも、井川村の郷士、海野家に伝わる「海野文書」によって確認ができます。
   ※参考文献1 武市光章著『大井川物語』(竹田印刷 1967年)P140-141
   ※参考文献2 中部電力株式会社編『大井川 その歴史と開発』(経済往来社 1961年)P336
 寸又峡温泉の解説看板にも紀伊国屋文左衛門のことが記されています。
 大井川を下った木材は、一旦、焼津港に集められ、そこから江戸に送られました。

 明治になって、同じくこの地域の木材に目を付けたのは、明治の政商、
大倉喜八郎です。彼は、島田に東海パルプ株式会社を設立します。
 さて、江戸時代にしても、明治時代にしても、上流部の木材の輸送は、大井川そのものに流すことに依存していました。大井川水系では、一般的に木材の川流しを「
川狩り」(かわがり)と呼んでいました。川狩りの時期は、静岡県令河川取締規則によって、毎年10月1日から翌年の3月31日までと決められていました。
 木材の川流しには、水量が一定することが必要ですが、夏と冬とでは冬の方が大雨が少なく、水量が安定します。このため冬の期間が川流しの時期とされました。
 しかし、冬場の川流しには欠点もあります。
 水量全体が、夏に比べれば相対的に少なくなることです。
 そこで、当時は、「
鉄砲流し」と呼ばれる川流しの技術が使われました。これは、木を組んで小さなダムの様な構造物を作り、ここに水をためておき、一気にその木組みを崩して、水を流すことによって、木材を流すという方法です。崩す時に大きな音がするため、「鉄砲」という名前が付きました。
 また、大井川上流部の樹木は、寸又川との合流部より上流の自然原木と下流の人工林(檜・杉)に大別できました。前者は黒木、後者は白木と呼ばれました。黒木は雑木ですからバラバラで川に流され、白木は筏を組んで流されました。
 この頃の資料によれば、最上流部から河口部まで、約3ヶ月近くの長い期間を掛けて、木材は運ばれました。
 大井川による木材流しは、1936年に大井川最初のダム、大井川ダムが完成されてから部分的なものとなり、1960年前後にダムが相次いで完成されると、急速に衰えました。
最後の川狩りは、1968年と記録されています。
  ※参考文献2 中部電力株式会社編『大井川 その歴史と開発』(経済往来社 1961年)P339-363 
  ※参考文献3 静岡地理教育研究会編『よみがえれ 大井川 その変貌と住民』(古今書院 1989年)P9-30

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 大井川と中部電力 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 ここで、観光から離れて、大井川の電力についてのまじめな学習をはさみます。

 この2011年の夏は、3月11日の東日本大震災による原子力発電所の事故によって、各地域の電力会社の原子力発電所が稼働停止等に追い込まれて電力事情が逼迫しており、「電気予報」も示されるなど、電力需給への関心が高まっています。
 大井川は、水力発電に大変適した河川です。
 その理由は二つあります。
 まず第1は、上流部で降水量がたくさんあることです。
 右は、井川の雨温図です。井川では、冬季は降水量は少なくなりますが、それ以外は各月とも非常に多く、特に6・7・8・9月には月300mmを越え、
年間降水量は、3110.1mmにもなります。
 東海地方の方にとって降水量が多い地域と言えば、三重県尾鷲市が有名ですが、ここは、さすがに、年間降水量3848.8mmと井川を上回っていますが、年間降水量が3000mmを越す地域はそれほど多くはありません。

右の雨温図は、北海道札幌市「個別指導の学習塾ノックス」公式サイト を使って作成しました。
ノックスのサイトはこちらです。http://nocs.myvnc.com/study/uonzujp.htm

 
 もう一つの理由は、
大井川が急流であることです。
 国土交通省の「河川整備基本方針・河川整備基本計画」のサイト
  ※こちらです。→http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/
からのデータによると、河床勾配は次のようになっています。
  ※直接の引用は、「大井川」の「○大井川水系流域および河川の状況」のP57「図8-1」より引用・作成。
    → http://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/ooi-5.pdf


 この川に電力開発の発想が起こったのは、明治時代の末期です。
 1906年には、イギリス資本を含めた電源開発会社の設立が計画されましたが、結果的にイギリス資本は撤退し、日本人の投資家によって、1910年に日英水力電気株式会社が設立されました。(社名には英の字が残りました。)
 この会社によって、当時の上川根町奥泉の小山という場所に、大井川水系最初の発電所、小山発電所が建設されました。この発電所は、大井川の湾曲部を約50mのトンネルで水を通し、それによって生じる25mの落差を利用して発電を行うものです。出力は僅か1,400kWでした。この発電所は中部電力の発電所として、現在も稼働しています。これ以降、東京電力・大井川電力・富士電力や、地元のパルプ企業などが主体となった小規模な発電所がつづけて建設されます。その最大のものは、最大出力62,200kWの大井川発電所でした。

 戦後は、大規模なダム式発電所が開発されます。
 1951年に成立した
中部電力は、その翌年から井川ダム井川水力発電所の建設を開始します。この井川ダムの建設においては、日本で初めての試みがいくつか成功しました。
 まず、ダムの形式は日本で初めて採用されたホロー・グラビティ・ダム(中空重力式ダム)であり、ダムの内部に空洞を儲けて、使用するコンクリートの量を節約することに成功しました。
 また高いダム堰堤による大規模な井川ダム湖の出現によって、井川村の中心部はほとんど水没することとなりましたが、これを集落を再開発することによって補償するという全国でも初めてのケースが実現されました。これによって結果的に10,661坪の宅地と、95,390坪の農地が新たに造成されました。
 こうして、井川ダムは、これまでになかった問題を克服しつつ、1957年に完成にを見ました。また、このダム開発のために、現在の大井川鐵道井川線がつくられました。ついでに言うと、この時ちょうど反対側の日本海側では、関西電力による黒部川第4ダムと発電所の建設が進んでいました。世は、ダム建設の時代だったわけです。(→旅行記:「高岡・富山・宇奈月旅行2 黒部峡谷」

 中部電力は、井川ダムの建設に成功によって、他のダム開発に積極的に乗り出し、井川ダムが完成した1957年には、さらに上流の畑薙第一・畑薙第二ダムの建設を開始し、1961年・62年には発電に成功しました。この畑薙第一発電所は、中部電力としては初めての大規模揚水式発電所であり、電力の需給調整に大きな役割を果たしました。中部電力は、1950年代に大井川の電源開発を積極的に進め、1960年代半ばには、大小10以上の発電所によって、現在とほぼ同じ、65万kW以上の発電能力を持つ発電所群を整備しました。
 ただし、関西電力にとって黒部川の発電所群がそうであったように、中部電力においても、1955年以降(昭和30年代)は、発電全体の構成は、
水主火従から火主水従に写っていく時期であり、大井川開発の一方で、伊勢湾岸に次々と大規模な火力発電所が建設されていきました。
  ※参考文献2 中部電力株式会社編『大井川 その歴史と開発』(経済往来社 1961年)P272-525
  ※参考文献4 中部電力社史編纂会議編『中部電力50年史』(中部電力 2001年)P45・81-83

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 上の表は、現在の中部電力の発電設備の構成です。
 火力発電が、全体の73%を占めており、水力は僅か15.9%です。ただし、唯一の原子力発電所、浜岡原発が運転停止となっているため、供給電力は苦しい状況にあります。この夏は、節電に取り組まなければなりません。

 ところで、現在の中部電力の水力発電所のうち最大出力のものは、我が岐阜県にある
奥美濃水力発電所(1995年に完成)で、最大出力は150万kWです。水力発電所としてはずいぶん大きな発電所です。
 それもそのはず、この発電所は、水力発電所のイメージの主流を占める、ダムにたまった水を流して発電をするというタイプではなく、夜間電力を利用して水を汲み上げてそれを流して発電するという、純揚水式の発電所です。それでも、水をためるダムは必要です。そこで、この発電所では、揖斐川水系の支流の上大須ダムと長良川水系支流の川浦ダムの二つの貯水池の間の落差を利用して発電を行っています。完成当時は日本最大の水力発電所でした。 
 このタイプとしては最大の発電所は、現在建設中の東京電力の群馬県の神流川発電所です。長野県の南相木ダム(信濃川水系)と群馬県の上野ダム(利根川水系)の落差を利用して行うもので、現在は一部が稼働しています。2020年以降の完成時には、合計282万kWの発電量となります。二つの県の二つの全く異なる水系を利用した大規模な揚水式発電所です。


 大井川は電源開発によって、高度経済成長期の電源供給に貢献し、また、多くのダムによって水量調整がなされ、洪水の危険性が減少しました。
 しかし、いいことばかりではなく、別の問題も生じてしまいました。
 下の写真はその問題点がよくわかる写真です。
 この写真の場所は、1ページで話題にした、
塩郷の吊り橋(詳しくはこちらです→旅行記:「大井川 鉄道の旅1 ダム・吊り橋・そして茶畑1金谷・塩郷・千頭」)と、その下流の大湾曲部です。
 さて、その問題点とは何でしょうか?

 写真03-14  大井川の中流部、塩郷附近のいわゆる七曲がり              (撮影日 1976年)
 上の写真は、国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」の「カラー空中写真閲覧」の航空写真です。1976(昭和51)年のものです。サイトはこちらです。 → http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.htm

 上が上流、下が下流です。右上の水がたまっている部分が、1960(昭和35)年完成の塩郷ダムです。その下流に細く見えるのが、塩郷の吊り橋です。


 多くのダムの完成によって生じた問題点とは、大井川の本流を流れる水量が少なくなり、いくつかの場所で「河原砂漠」が出現してしまったことです。
 をもう一度見ていただくと、まるで胃のレントゲン写真のような七曲がりの湾曲部の広大な河原に、ほとんと水流がないことが確認できます。大井川は、水が流れない川になってしまったというわけです。
 ちょっと長くなりますが、先に参照した、静岡地理教育研究会編『よみがえれ 大井川 その変貌と住民』から、「河原砂漠」の状況を引用します。

「ダムを臨む地名地区から川を見渡して見よう。川幅は広いところで900メートルにもなる。しかし水のないただ荒涼とした河原が広がっているだけである。塩郷ダムから下流の川口発電所まで22キロもの間、一滴の水もない「河原砂漠」と化したのである。
 中川根町の松下麟一さんは、その惨状を次のように話した。「まず生態系が激変した。県下でも有数のアユの漁場だったが、アユのほか、ウナギ、ドジョウ、オバサン、ウグイ、ハヤ、ヤマメなどの生息数が激減し、これら魚族にまつわるプランクトン、バクテリア、昆虫なども減り、河川周辺の動植物の生態系におおきな変化が生じた。その結果、害虫には棲みよく、天敵には棲み難い環境となり、特産の茶についても、戦前は存在しなかったチャノホソガ、チャハマキ、チヤノキイロアザミウマなどが多発し、森柿でもマツタイムシやスギノアカネトラカミキりがはびこり、農林業者を苦しめている」。
 また、流域住民は水も奪われ、夏には熱風に悩まされることになった。
「広い河原の砂利および玉石は、直射太陽により焼き石状態になり、このため外気温は著しく上昇し、30度を越す日が続き、人間はもちろん農作物にも悪い結果を及ぼすことがあった」(川根・70歳代・男性)
「冬には、昼夜の温度差が激しくなり、植物とくに茶の成育上多大の影響が見られた」(川根・70歳代・女性)という。気候にも大きな変化が起こったのであった。やがてそれは住民の生活基盤を脅かすことになる。「川霧がなくなったため、お茶が大変まずくなり、本来の川根茶の味がなくなり、売れゆきが落ちた」(川根・70歳代・女性) とのことである。
 なぜお茶の品質は低下したのだろうか。松下麟一さんは「河川に豊かな水があれば、水面から立ちのぼる霧や靄が適度に直射日光を遮り、茶の香味を形成するアミノ酸類や脂肪酸の急速な分解、消失を防ぐ。古来、河川流域に銘茶産地が育ってきたのはそのおかげである。霧や靄の減少により、この天然玉露生産の条件は失われた。河川に豊かな水があれば水が凍結することはない。つまり氷点以下に水温もその周辺の気温も下らず、たとえ陸地が氷点以下になっても、自然に大気
の対流が起こる。結霜の一条件である『冷気の停滞』は少なく凍霜害は起こり難い。しかし、水のない河川敷が凍てついているために、50年代以降、激しい凍霜害や寒干害が連続して起こり、茶農家を悩ましている。河川に水がないため、茶の新芽成長期から夏の終期にかけて昼夜の気温較差が縮まり、昼間光合成された炭水化物も、夜の激しい呼吸作用のため消費されて作物の品質が低下する」 と説く。

参考文献3 静岡地理教育研究会編『よみがえれ 大井川 その変貌と住民』(古今書院 1989年)P139-140

 大井川上流域から下流域にかけての水利権は、中部電力のもとにありました。しかし、1980年代末に各ダムの30年間水利権の期限が切れ見直しが行われた結果、中部電力は、塩郷ダムにおいては通年毎秒3トンの水の放流、4月から9月の増水期にはさらに2トンの上乗せをするという提案を行いました。
 しかし、地元住民は、「毎秒5トンは必要」と反対を続け、結果的に、中部電力は、上乗せする期間を3月から12月までと拡大し、水利権更新期間も10年とすることで妥協が成立しました。 

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 写真03-14 現在の塩郷の吊り橋付近の本流。吊り橋上から撮影。        (撮影日 11/05/04)

 放流によって、川幅の3分の1は、水が流れています。しかし、滔々たる大河というわけにはいきません。


 【大井川 鉄道の旅3 参考文献一覧】
  このページ3の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

武市光章著『大井川物語』(竹田印刷 1967年)

中部電力株式会社編『大井川 その歴史と開発』(経済往来社 1961年)

  静岡地理教育研究会編『よみがえれ 大井川 その変貌と住民』(古今書院 1989年) 

中部電力社史編纂会議編『中部電力50年史』(中部電力 2001年)


 さて、「大井川 鉄道の旅」の最終ページは、もう一度、金谷に戻って、大井川の渡しと牧ノ原台地と茶畑と茶摘み体験についてのレポートです。


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