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 井川線・奥泉駅 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 SL列車は金谷から1時間20分余りで、大井川鐵道本線の終点、千頭(せんず)に到着します。
 これから上流へ向かうには、
寸又峡(すまたきょう)方面は大井川鐵道のバス、接岨峡(せっそきょう)・井川ダム方面は、井川線に乗り換えです。
 実は、千頭までは、1991年に一度家族旅行で子どもたちをつれて来ています。今回は、井川線に乗り換えて、接岨峡まででかけ、折り返して宿泊は寸又峡という旅行プランです。
 普通なら
千頭からは、井川線に乗って上流の接岨峡・井川ダム方面へ向かいますが、今年春に千頭駅のすぐ先で崖崩れが起きて、千頭-奥泉間が普通となっていたため、代行バスに乗りました。奥泉から井川線に乗車です。


 写真02-00  1991年の写真 (撮影日 91/08/25)

 写真02-01 崩落現場  (撮影日 11/05/04)

 左:20年前に千頭を訪れた時の写真。C11は依然として活躍しています。
 右:井川線の崖崩れ現場(バスの車内から撮影) 


 井川線は、大井川鐵道本線より遅れ、1954年9月に、千頭から井川村までの全線が開通しました。
 建設したのは
中部電力で、この路線は、井川ダムやその下流の奥泉ダムの建設資材を運搬するための専用軌道として、総工費25億5000万円を投じて、全線26kmを完成させました。
 重量35トンという日本で最初の大型ディーゼル機関車を3両製造し、さらに15トンの機関車2両を加え、在来の8トン機関車9両とともに、1日720トンもの資材の運搬を実現しました。
 全線が接岨峡などの峻険な渓谷に線路を敷設する難工事で、トンネルは55カ所を数え、その総延長は6.5kmにも達しています。また、関の沢川等の大支流を越えるための架橋をはじめ、橋梁も30カ所を数えます。
 ダム完成後、1959年に大井川鐵道に運営が委託されました。
 ※参考文献1 武市光章著『大井川物語』(竹田印刷 1967年)P318

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 写真02-02  井川線奥泉駅 井川線の主力ディーゼル機関車DD20形      (撮影日 11/05/03)

 井川駅と奥泉駅との間には、川根両国・沢間・土本・川根小山と4つの駅がありますが、川根両国駅近くで起きた土砂崩れによって、2011年8月まで半年間、両駅間はバス代替輸送が行われました。


 写真02-03 普通の狭軌です(撮影日 11/05/03)

 写真02-04 奥泉駅構内(撮影日 11/05/03)

 DD20形ディーゼル機関車は、1982(昭和57)年から1986(昭和61)年にかけて6輌が導入されました。現在の井川線の非アプト区間の主力機関車です。小さい車体ですが、ディーゼルエンジンは強力で、他の機関車との重連連結制御が可能な機関車です。多忙期には、10輌の客車を引っ張ります。
 ※参考文献2 大井川鐵道編『大井川鐵道 オフィシャルガイド』(大井川鐵道)P12
 ※参考文献3 飯島巌・白井良和・荒川好夫緒『私鉄の車両14 大井川鉄道』(保育社 1986年)P68

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 写真02-05 車内は狭いです(撮影日 11/05/03)

 写真02-06 次はアプトいちしろ(撮影日 11/05/03)

 井川線はもともとダムの資材運搬用の鐵道です。大井川の渓谷をトンネルと橋でぬうように建設されたため、トンネル幅などの関係上、車両の幅は狭くなっています。
 しかし、レールの幅は、普通の狭軌、つまり日本の標準のレール幅です。富山県の黒部川渓谷のトロッコ列車とは、その点が違っています。
 写真02-06は、自分の乗っている車両から列車の後部を撮影したものです。一番後に機関車
DD20形がついています。後ろから押す形です。 何故前から引っ張るのではなく、後ろから押す形なのでしょう?
 この説明は、写真02-11・12の下にあります。


 長島ダム・アプト線 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 井川線の魅力はいろいろありますが、その一つは、日本で唯一のアプト式鉄道が導入されていることです。このアプト式は、まだ完成して21年目です。
 もともと中部電力によって1954(昭和29)年に井川線が全線開通し、1959年に大井川鐵道に移管されてからしばらくの間は、この路線は幅の狭い列車が運行しているただの山岳鉄道でした。
 しかし、1977(昭和52)年から
長島ダム建設事業が開始されると、従来の路線の一部はダム建設により支障が生じることとなり、ダムの建設と平行して、代替新路線の建設がはじまりました。そのうち、大井川ダムと長島ダム堰堤の間の区間は、一部の勾配が1000分の90という急勾配であるため、その1.5km区間には、アプト式鉄道が採用されました。完成は、1990(平成2)年のことです。
 ダム本体は、遅れて2002(平成14)年に完成しています。
  ※国土交通省の長島ダムのHPはこちらです。http://www.cbr.mlit.go.jp/nagashima/index.html


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、大井川上流部(寸又峡温泉・千頭・接岨峡温泉・井川ダム)の地図です。


 奥泉駅の次のアプトいちしろ駅に到着すると、これまで後押ししてきたDD20形に加えて、さらに新しい電気機関車が最後尾に繋がれます。これがアプト式電気機関車、ED90形です。


 写真02-07 アプトいちしろ駅とアプト式機関車ED90形               (撮影日 11/05/04)

 この写真は、井川線に乗車した翌日、寸又峡から千頭へ戻る途中のバスの中から撮影したものです。寸又峡をつくっている寸又川は、奥泉と千頭の間で大井川に注ぐ支流です。バスは、県道77号線を走りますが、この県道は千頭から奥泉の北まで大井川に沿ってさかのぼり、そこから分かれて峠を越えて、西の谷の寸又峡へ向かいます。二つの谷の間にある尾根の峠を越える手前で、ほんの30秒ほど、眼下に大井川鐵道井川線大井川ダム湖を見ることができます。
 長島ダムができるまでの井川線では、この写真の赤い橋の右手に駅があり、
川根市代駅と呼ばれていました。その駅を出るとすぐにトンネルに入り、大井川の蛇行部分の大部分をショートカットして東へ向かい、そのあと大井川を鉄橋で渡河していました。ところが、ちょうどその鉄橋の場所に長島ダムの堰堤ができることになり、その路線が使用できなくなりました。旧トンネルの入り口が、写真の右手、白いコンクリート資材の右上に小さく見えます。現在はミステリー・トンネルと呼ばれ、遊歩道になっています。
 新路線は、旧駅の北側に新しい駅、
アプトいちしろ駅をつくり、大井川の湾曲部をほんの少しトンネルでショートカットしたあと、対岸へ渡り、その崖につくられた急勾配の新線を一気に駆け上がります。
 そこにアプト式鉄道が必要となるわけです。 
  ※アプト式鉄道と言えば、
旧信越本線の横川-軽井沢間の碓氷峠です。
   碓氷峠については、→こちらです「旅行記:長野・群馬・新潟・富山旅行2 横川から信越国境」 

地図02 大井川鐵道井川線 新旧の変化へ

 写真02-08  アプト式専用電気機関車 ED90形             (撮影日 11/05/03)

 井川線はこのアプト式の区間だけ電化されています。この写真の部分がアプト区間の始まりです。鉄道用語でアプト区間のエントランス(入り口)と言います。


 写真02-09・10 左:アプトの歯です  右:列車の最後尾につながります (撮影日 11/05/03)


 写真02-11・12 左:連結作業です   右:ED901連結完了   (撮影日 11/05/03)

 ED90形は、DD20形の後に連結されます。この理由は、もしED90形を前に連結して引っ張る形にすると、最後尾のDD20形機関車とED90形電気機関車とで、軽い客車をその間に挟む形になるため、急勾配のアプト区間では、客車の連結器のところで、編成が座屈してしまう可能性があるからです。
 それなら、はじめから
DD20形を先頭に付けて引っ張る編成にし、さらにその前に、ED90形を付ければ、同じようにできるはずです。
 このように前から引っ張るのではなく、後から押すのは何故でしょうか?

 それは、前から引っ張った場合、アプト区間でもし客車の連結器が壊れて、一部車両が分離してしまった場合、その車両は、坂を下って暴走してしまうからです。それを防ぐには、後ろから押す形しかありません。
  ※参考文献4 橋本英樹著「大井川鐵道井川線 クハ600形制御客車 車輪タイや焼き嵌め作業の記録」

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 写真02-13  アプトいちしろ駅のホームの長島ダム側先端 急勾配を登るアプト式線路 (撮影日 11/05/03)


 写真02-14 いよいよ出発です(撮影日 11/05/03)

 写真02-15 高い渓谷です(撮影日 11/05/03)

 後からDD20形ED90形が押している以上、先頭には機関車はいません。しかし、運転手は当然前にいます。
 このため、井川線開業の際には、一番先頭の車両は、特別な車両が日本で始めて採用されました。この車両が、左の写真02-14
クハ600形制御客車です。この車両自体は動力はついていませんから客車ですが、後の機関車をコントロール(制御)する車両というわけです。
 この
クハ600形の先頭部分には運転席があり、その運転台には、DD20形ED90形を総括制御するために、二つのマスターコントローラーが備えられており、機関車と同じブレーキ弁、機関車の車輪の空転を知らせる警報機などの特別な装置がついています。ただの客車に見えて、なかなかの優れものです。写真02-05の一番前がその運転台です。
 ※参考文献4 橋本英樹著「大井川鐵道井川線 クハ600形制御客車 車輪タイや焼き嵌め作業の記録」  

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 写真02-16 押すED90形(撮影日 11/05/03)

 写真02-17 長島ダム堰堤(撮影日 11/05/03)
地図02 大井川鐵道井川線 新旧の変化へ

 写真02-18・19 長島ダム駅 海抜485mです      (撮影日 11/05/03)


 写真02-20 長島ダム駅と大井川。川底ははるか下方です。    (撮影日 11/05/03)

 アプトいちしろ駅から水平距離約1.5kmの間に約100mを登りました。 
地図02 大井川鐵道井川線 新旧の変化へ

 写真02-21  アプト式電気機関車の切り離し             (撮影日 11/05/03)

 赤い客車は、1962年から1983年にかけて導入された、井川線の主力客車、Cスロフ300形です。 
地図02 大井川鐵道井川線 新旧の変化へ
 奥大井湖上駅 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 長島ダム駅を過ぎると、列車はまたDD20形ディーゼル機関車のみに後押しされて進みます。
 列車の右側は、長島ダムのダム湖が広がります。ひらんだ駅を過ぎてトンネルを通ると、やがて、有名な
奥大井湖上駅に着きます。


 写真02-22・23 第3橋梁と奥大井湖上駅  (撮影日 11/05/03)

 長島ダムのダム湖が湾曲している部分に、第3橋梁(長さ283m)と第4橋梁(長さ191m)が架けられ、奥大井レインボーブリッジと称されています。
 その真ん中に、
奥大井湖上駅があります。
 本当は、左の写真の左上の丘のあたりから、この湖上駅を撮影すると最高の写真が撮影できます。しかし、自分の乗った列車から降りて、その撮影場所まで歩いて、次の列車を撮影して、また、戻ってさらに次の列車に乗るというのは、とても時間がかかります。なにしろ、列車は、1時間はか2時間に1本しかありませんから。(-_-;)
 半日ぐらいでは、十分な撮影はできません。残念。 


 写真02-24 Happy bell(撮影日 11/05/03)

 写真02-25 第4橋梁 (撮影日 11/05/03)

 左:奥大井湖上駅には、「Happy Bell(風の忘れもの)」という記念に鳴らしたくなる素敵な鐘があります。
 右:第4橋梁は、歩道が併設されています。こちらから接岨峡温泉駅へ散歩道がつながっています。 

地図02 大井川鐵道井川線 新旧の変化へ
 接岨峡温泉駅・関の沢橋梁と大井川 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 奥大井湖上駅の次が、接岨峡温泉駅です。
 終点の井川駅は、まだこの3駅先ですが、今日は終点まで行かずにここで降りて、井川線のもう一つの名所の撮影に向かいます。


 写真02-26・27 接岨峡温泉駅   (撮影日 11/05/03)


 写真02-28・29 接岨峡温泉駅近くの橋  (撮影日 11/05/03)

 左:駅手前の橋。まだ長島ダム湖の一部で、緑色の水がきれいです。
 右:
接岨峡温泉駅のやや上流にある県道388号線の橋。これは上流からの撮影であり、右手右岸側に駅があります。
   
接岨峡温泉駅で降りた私たちは、駅のすぐ近くにあるこの赤い橋を渡り、撮影名所、関の沢展望台に向かいました。
   その途中での撮影です。写真の距離感からして、かなり遠くまで歩いたことがご理解いただけるでしょうか。 


 写真02-30・31 谷沿いに山中を行く井川線列車。対岸から撮影。  (撮影日 11/05/03)


 接岨峡温泉駅から歩いて45分余り、大井川の支流、関の沢川にかかる関の沢橋梁をはるかに見通せるポイントに到着しました。ここがその撮影ポイントです。


 写真02-32 関の沢橋梁を渡る井川線列車               (撮影日 11/05/03)

 関の沢橋梁は、長さは114mとそれほどではありませんが、高さ70.8mもあり、これは鉄道橋としては日本一の高さです。
 勾配も平均25‰ほどの急勾配です。

地図02 大井川鐵道井川線 新旧の変化へ
 大井川と東西日本 | 先頭へ ||旅行行程地図へ||旅行日程と費用へ

 ここでこのページの最後として、とてもスケールの大きな学習をします。
 まずは、この関の沢に関するクイズです。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 1ページでは、「地元の方か社会科の教員でもない限り興味はないことかもしれませんが、上の地図の接岨峡以南は、この川がほぼ駿河(するが)と遠江(とうとおみ)の境をなしています。」と書きました。
 正確には、この関の沢川との合流地点以南は、といわなければなりません。
 この沢が、駿河(するが)と遠江(とうとおみ)の境界となっています。地図上に表すと、右の地図03のようになります。
 つまり、大井川は、長野・山梨・静岡県境の、静岡県最北端の山、間ノ岳に源を発し、そこから南流して駿河湾へ向かいます。その最上流部分は、谷の両側とも、旧国名では、駿河の国となります。
 ところが、この接岨峡の
関の沢川との合流点以南は、今度は大井川そのものが駿河と遠江の境界となります。
 この最上流部分が駿河に属するのは、現代的な感覚からすると不思議な気がします。これまでもたどってきたように、井川は大井川鐵道や道路によって大井川下流の地域と結びついているからです。

 しかし、今世紀になって大井川鐵道や国道ができる前、江戸時代などにおいては、井川など最上流域の人々が海岸地域と交流するルートは、今とは違っていました。接岨峡の渓谷をぬって、大井川を下ることは事実上不可能で、むしろ村の東の安倍山地を大日峠で越えて、あとは安倍川筋に府中(静岡市)へ出るのが一般的でした。したがって行政的にも駿河に属するのが自然だったわけです。
 そして驚くなかれ、その歴史的な帰結として、大井川鐵道井川線の終点井川地区は、現在は静岡市葵区井川なのです。平成の大合併で政令指定都市静岡市ができたなんて新しい時代の産物ではなく、すでに1969年1月1日に静岡市に編入されています。(それまでは安倍郡井川村でした。)
 また、旧井川村は、大井川源流部まですべて村域としていましたから、現在ではそれらはすべて静岡市に入っていると言うことです。つまり、間ノ岳・塩見岳・赤石岳などの南アルプスの静岡県側は、すべて静岡市に属するということになります。静岡市は、駿河湾から南アルプスまで、広大な市域を持っていることになります。


 さて、話を本題に戻します。
 この大井川の境界線、つまり、遠江と駿河の境界線は、単に両国の境界線にとどまらず、もっと大きな境界となっています。
 次の地図は、日本語の東西言語境界線の説明図です。 



 これによれば、見ロ(東日本の表現)と見ヨ・見イ(西日本の表現)の境界線が、駿河と遠江、つまり、関の沢川や大井川にあるということになります。


 【大井川 鉄道の旅2 参考文献一覧】
  このページ2の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。
 

武市光章著『大井川物語』(竹田印刷 1967年)

大井川鐵道編『大井川鐵道 オフィシャルガイド』(大井川鐵道)

飯島巌・白井良和・荒川好夫緒『私鉄の車両14 大井川鉄道』(保育社 1986年)

橋本英樹著「大井川鐵道井川線 クハ600形制御客車 車輪タイや焼き嵌め作業の記録」中部産業遺産研究会編『産業教育研究 第16号』(2009年5月)P43

大野晋著『日本語の起源(旧版)』 (岩波新書 1979年)

赤坂憲雄著『東西/南北考-いく つもの日本へ』(岩波新書 2000年)


 これで1日目の旅は終わりです。
 この日は、寸又峡温泉に宿泊した私たちは、翌朝、周辺の散策に出かけました。この旅で渡る、二つの吊り橋のうちの一つを、渡りました。
 寸又峡の谷の話や、大井川の電源開発の話などが、次の3ページ目の話題です。


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