二つの世界大戦その6
|  前の時代の問題へ  |  二つの世界大戦の問題TOPへ  |   次の時代の問題へ  |
 
<解説編>
 

1007 第一次世界大戦以降に対中国アヘン貿易を推進した国はどこ?|世界史問題編へ||日本史問題編へ

 この問題については、以前から構想中でしたが、この時期に掲載となったのは、下に示すある新聞報道がきっかけです。
 そのことから初めて、ケシの花の意外な実態、クイズの正解=教科書の勉強と話を進めます。
   1 きっかけとなった事件  
   2 ケシの花の意外な事実   
   3 まずは、19世紀から第一次世界大戦までの復習   
   4 第一次世界大戦以降に対中国アヘン貿易を推進した国は? 正解と教科書の学習   


【参考文献】 以下、このページの記述には、次の文献・資料を参考にしました。

  倉橋正直著『日本の阿片戦略−隠された国家犯罪−』(共栄書房 1996年)  
  倉橋正直著『阿片帝国日本』(共栄書房 2008年)  
  江口圭一著『日中アヘン戦争』(岩波新書 1988年) 
  後藤春美著『アヘンとイギリス帝国』(山川出版社 2005年) 
  江口圭一編著『資料日中戦争期阿片政策』(岩波書店 1985年) 
先頭へ戻る

 1 きっかけとなった事件

 きっかけとなったことは、2011年6月に報道された小さな事件です。
 岐阜県内のホームセンターにおいて、麻薬取締法で栽培が禁止されている
ケシ(ハカマオニゲシ)が、「オリエンタルポピー」という商品名で販売されていたという事実が発覚しました。
 この事件は、岐阜県の薬務水道課によれば、麻薬の原料となる可能性のあるケシが、県内にあるカーマホームセンター(本部は愛知県刈谷市)の3店舗で、ポット入りで17ポット売られたもので、そのケシはもともとは福島県の南相馬市の園芸業者により栽培されたものでした。この業者はもちろんこれが栽培禁止のケシの花であることは認識しておらず、岐阜県以外にも合計13都県で売られていました。
   ※『岐阜新聞』2011(平成23)年6月7日の記事から

 麻薬の原料となるケシの花がそれとは知られずにホームセンターで売られという予想外の事件、言い換えれば、麻薬の原料が自分が利用していうホームセンターという意外な身近なところにあったことが、ここで麻薬を取り上げるきっかけとなりました。

先頭へ戻る
 2 ケシの花の意外な事実 

 しかし、身近という点からいうと、もっと驚くべきことがあります。
 実は、このケシの花は、ごく普通に人知れず咲いている場合がある花なのです。このことは、ほとんど人はご存じありませんが、ケシの花に詳しい生物専門の方によれば、「岐阜市内の○○地区や○○地区には、田んぼの畦や道端、空き地なんかにけっこう集団で生えている」ものなのだそうです。
 これは大変意外でした。


 これらの写真は、友人の専門家の指導で「発見」したケシの花です。岐阜市近郊でここ数年間に撮影しました。詳しい種類まではわかりませんが、保健所によると、「ご禁制の植物」だそうです。もちろん、発見後は「駆除」しています。
 なお、
ケシの花はケシ科に属する二年草で茎の高さは100cm〜150cmぐらいになり、5月〜6月頃、白・紫・赤などの花を咲かせます。
 花は一日でしぼみますが、そのあとにできる果実の表面を傷つけると乳状の液が分泌し、それを採取して天日で乾かしたものを
生アヘンといいます。これに水を加え加熱・溶解・濾過などの処理をした上で冷却して練膏状にしたものがアヘン煙膏(えんこう)で、これをパイプに詰めてランプにかざして燃焼させ、その煙を吸うのが古典的な「アヘンの吸引」です。
 アヘンの麻薬作用は、生アヘンに5〜15%含まれているアルカロイド、
モルヒネC17H19NO)によって生じます。この物質の抽出に初めて成功したのは、ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュナーで、1804年のことです。ただし、すぐには普及せず、1850年代に皮下注射が開発されてから、鎮痛剤・麻酔剤として広がりました。日本ではモルヒネの国内製造は、第一次世界大戦中に星製薬によって初めて行われました。
 
ヘロインというのは、モルヒネをアセチル化したもの(ジアセチルモルヒネ)で、1870年代に初めて開発され、当初は1890年代にドイツの製薬会社バイエル社から発売された鎮咳薬の製品名でしたが、後にその名前が一般化しました。ヘロインもはじめは医薬品として用いられましたが、モルヒネ以上に多幸感・依存性が強く、容易に慢性中毒になる物質です。
 ※参考文献3 江口圭一著『日中アヘン戦争』P16−21

参考文献一覧へ

 なぜ、ご禁制のケシの花が、現在でも普通に都市郊外で散見できるのか?
 そこには
日本国内におけるケシの花の栽培の歴史が背景にあります。それについてちょっと詳しく説明しなければなりません。


 現在もケシの花が所々に自生しているのが散見できる理由は、第二次世界大戦中の厚生省の政策に原因があります。
 後述するように、日本は20世紀に入ってざまざまな阿片政策を展開しますが、アジア太平洋戦争の後半期には、国内のモルヒネの不足から、各地でケシの花の栽培奨励が行われました。女学生・中学生などの素人を動員しての栽培でしたのでたいした成果は上がりませんでしたが、その時に、各地にケシの花の種が広がり、それが現在にまで続いているとのことです。
「また、ケシは、一方で難しい作物と述べたが、他方からすると結構強い作物でもある。なかなか強靱であって、雑草に近いほどの生命力を持っている。それと関係するが、今日でも、所どころで、阿片のとれる本物のケシが時々、発見される。これらの大部分は、戦時中、全国的規模で大々的にケシを栽培していた時の名残ではないかと、私は疑っている。戦後50年、経過したが、ケシの種子は生命力が強いので、地中にしぶとく生き残る。そして、何かのきっかけで、地面がほじくり返されるなどの機会にめぐりあえば、長い間、地中に眠っていた種子が目覚め、発芽する。さらにきれいな花を咲かせて、人を驚かせる。」
  ※参考文献1 倉橋正直著『日本の阿片戦略−隠された国家犯罪−』P255

参考文献一覧へ||先頭へ戻る 
 3 まずは、19世紀から第一次世界大戦までの復習/TD>

 では、今回の問題の本題に入ります。
 まずは、19世紀の復習です。
【19世紀の二つの戦争】
 イギリスが中国との貿易拡大や経済的な進出を狙って、二つの戦争、
アヘン戦争アロー戦争(第二次アヘン戦争)を起こしたのは周知の事実です。
 アヘン戦争後の
南京条約によって次の権利を手に入れました。

・香港島の割譲   ・上海・寧波・福州・厦門・広州の5港の開港   ・公行の廃止    ・賠償金の支払い

 しかし、これによっても期待する貿易拡大がなされないわかると、イギリスはさらに、フランスに呼びかけて共同出兵し、2度目の戦争を起こします。これがアロー戦争です。
 この結果、
天津条約・北京条約が締結され、イギリスは次の権利を手に入れるとともに、アヘンの輸出を公認させました。

・外国公使の北京駐在   ・天津など11港の開港   ・外国人の中国内地での旅行の自由 
・キリスト教不況の自由   ・九龍半島南部の割譲

 これによって、イギリスのインド植民地から中国へのアヘンの輸出量は増加していきました。
 アヘンを外国に売りさばいてそれで利益を上げるということは今日なら国際的に禁止されている事項ですが、当時のアヘンに対する認識は、現在のものとは少し異なっていました。
「 しかし一方で、注意すべき点も二つある。第一に、最初にも触れたように当時のイギリスでアヘンは広く使用されており、過剰に搾取すれば害があるとしても、それはアルコールなどほかの物も同様と考えられていたことである。とくにアヘンを食べることは、アヘンを精製した煙膏を吸うより害が少ないと考えられていた。また、アヘンを吸う場合には、他の物と混ぜずに良質な煙膏を用いる方が害は少ないと考えられ、インドで均質な生アヘンをつくるよう意を用いたのは、そのためであった。中国と戦火を交えるべきか否か議論された際のイギリス議会で、アヘンの害そのものに注目して反対したのが、「起源においてこれほど不当な戦争は聞いたことがない」との演説をおこなった、当時30歳のグラツドストンら少数派であったのも、当時のイギリスの状況からすればそれほど驚愕すべきことではなかったのである。
 第二に、イギリスはアヘンを中国に売り込んだが、「商品」がアヘンである必要はなかった。売れて儲かるものでさえあれば、砂糖でも、コーヒーでも何でもよかったのである。そして、その商品を対等の立場で自由に取引できるようにすることが、十九世紀中葉のイギリス人の要求であった。
 なぜ中国で他の商品でなくアヘンがそれほどよく売れたのかは、未だ解明できていない問題である。中国でのアヘン消費の特徴は、アヘンを吸うということであるが、この行為は、明末(十六世紀後半〜十七世紀前半)にアメリカ大陸からタバコが台湾海峡付近に持ち込まれ、オランダ人がそれをアヘンと混ぜて用いたことから広まったという。そしてのちには、タバコを混ぜずに純粋のアヘンを煉膏に加工して吸うようになった。
 アヘンを単に口に入れるのではなく長い煙管を使って吸うためには、準備の手間も費用もかかった。ジェンらの研究によれば、アヘン吸煙は明代には有産階級がくつろぐためにおこなったものだったという。このレベルでは、アヘンを消費する理由は主として緊張を解きほぐすため、くつろぐためであったと考えられる。また、ともにくつろぐ社交の手段としても用いられるようになっていった。アヘンを吸っても飲酒と違って顔が赤くなるなどの外見的変化が現れず、暴力や粗野な行動を引き起こすこともなかったために好まれたという。さらに、アヘンの吸煙は、中国上流階級の楽しみや社交の手段だけに留まらず、上流の生活に憧れる者も彼らを模倣して吸煙を始めることとなった。」
 ※参考文献4 後藤春美著『アヘンとイギリス帝国』P10−11


【反アヘン運動の台頭】
 しかし、1870年代に入って中国へのアヘン輸入量が増え、アヘンの害毒が顕在化すると、19世紀末には中国でもイギリスでも反アヘン運動が盛んになっていきます。19世紀後半には薬物中毒に対知る認識が高まったこと、中国にキリスト教を布教する宣教師等の人道的な見地からの運動があったこと、インドから対中国への輸出品におけるアヘンの重要性が減少していく等の要因がありました。
 また、1890年代にはイギリス議会でも、アヘン貿易を検討する王立委員会が設立され研究と議論が進められましたが、現状維持派も多く、まだ貿易の禁止ということに踏み込むには至りませんでしたが、イギリス国内のアヘン貿易に対する認識も次第に「禁止」支持派が台頭してきつつある状況でした。
 これはようやく1906年に具体化し、この年イギリス議会は「インド・中国間のアヘン貿易が道徳的に養護できるものではないことを確信し、それを終結させる方策を政府が速やかにとることを要求する」動議を可決しています。


【清朝の光緒帝の政策1901−11】
■禁煙政策(禁煙運動)の展開 
 当初中国人はイギリスが運ぶインド産アヘンを吸引していましたが、19世紀後半になると次第に国内でのケシ栽培が増加し、中国国内のアヘン問題は貿易問題だけでは済まなくなっていました。
 1906年に清朝光緒帝は「禁煙の上諭」を発し、さらに続いて10箇条からなる禁煙章程を策定し、10年計画でケシ栽培を各省10%ずつ減少する計画を立てました。
■対英交渉
 国内政策との一方で、清朝政府はイギリスとはなお多くの量が輸入されていたインド産阿片の輸入制限交渉を進めることとしました。1907年清朝政府は、インド産アヘンの輸入を毎年10分の1ずつ減らし、1917年には輸入を根絶するという内容をイギリスに提案しました。イギリスは、この提案を全面的には受け入れず、1908年から当面3年間アヘン輸出を減らし、その間に中国内のアヘン生産と消費が減少すれば、イギリスはその取り決めをさらに延長していくという協定が成立しました。
 中国は、次の項目で述べるように、この後辛亥革命が起こり政治情勢は不安定でしたが、この協定に関しては、インド植民地政府が新たな農産物輸出や消費税課税によってアヘン輸出の収入がなくても財政収支の均衡が維持できることになったことから収束に向かいました。少なくとも第一次世界大戦の時点では、イギリスの対中国アヘン貿易、つまり、インド植民地政府からの中国へのアヘン輸出は激減していきました。
 しかし、インドにおけるケシの栽培は規制されてはいませんでしたので、密輸品は輸出は根絶はしませんでした。また、イギリス全体としては、インド以外にもマラヤやシンガポールなどの海峡植民地におけるアヘン栽培があり、政府としてはアヘン生産と貿易の維持を考えていました。
 ※参考文献4 後藤春美著『アヘンとイギリス帝国』P28・50

【中国におけるアヘン撲滅の難しさ】
 このように、この清朝末から中華民国成立当初の中国における禁煙政策は一定の成果を上げました。しかし、なかなか完全に撲滅というわけにはいきませんでした。その理由としては次の諸点があげられます。

中国の国土は広く、取り締まりの眼が隅々まで向くことはできなかった。例えば、満州で言えば、熱河省と吉林省の東部がケシの栽培地帯となった。

1911年10月辛亥革命勃発し清朝が倒れると、禁煙運動は中華民国の袁世凱政権に引き継がれましたが、1916年その死去によって軍閥割拠時代に入ると逆に中央政府の取り締まりはゆるみ、軍費調達のため軍閥によるケシ栽培振興策が復活しました。たとえば、1927年軍費に窮した満州軍閥張作霖は、満州地域でアヘン解禁政策を行いケシの花の作付け奨励と課税を実施しました。

 ※参考文献1 倉橋正直著『日本の阿片戦略−隠された国家犯罪−』P20−45

参考文献一覧へ||先頭へ戻る

【アメリカの活動と国際会議】
 さて、こういう状況のところへ、もう一つの大国、アメリカが登場します。
 アメリカは、1898年の米西戦争によってフィリピンを領有し、アジアの植民地問題に積極的に介入する機会を得、アヘン問題に対しても積極的な提案をします。
 アメリカは、自国において、1920年に国内禁酒法の制定したことに見られるように建国の経緯からピューリタリズムの影響が強く、若々しい理想に燃えてアヘン撲滅の新しい国際的なリーダーとなりました。
 もっとも、そういう人道的理由だけではなく、アメリカが中国のアヘン問題に強い関心を示したのには、この問題を積極的に取り上げることによって
「中国の友」としての自らの立場を強調し、対中国貿易や借款供与などで優位に立とうとするねらいもありました。
 アメリカの主導によって、以下の会議が開かれ、アヘン取り締まりに対する提案がなされました。

1909年

上海アヘン調査委員会(米・英・日・中など13カ国参加) 
 

アヘンに関する初めての国際会議。強制力のない議定書を作成しただけの会議でしたが、アメリカは既存の各国間個別条約の改正に含む、アヘン貿易の早期の徹底禁止を主張。イギリスは、インドのみならずシンガポール・マラヤの海峡植民地も含めた植民地体制全体の見直しを迫られるため、消極的な姿勢となった。

1911年 ハーグ万国アヘン会議(米・英・日・中など12カ国参加)
 

1912年ハーグアヘン条約を調印
・各国の事情に応じて、アヘンの煙膏の製造、国内での取引使用を徐々に有効に抑制する。
・できるだけ早く煙膏の輸出を禁止する。
 


 この段階で、第一次世界大戦前までのアヘンに関する国際関係を図にすると、次のようになります。


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。
 ※参考文献1 倉橋正直著『日本の阿片戦略−隠された国家犯罪−』P28を参考に作成
参考文献一覧へ||先頭へ戻る
 4 第一次世界大戦以降に対中国アヘン貿易を推進した国は? 正解と教科書の学習

 続いて、いよいよ本論となる、第一次世界大戦後の話に入ります。


【第一次世界大戦後の国際連盟とアヘン会議】
 第一次世界大戦の惨禍によって、各国は国際政治・経済における平和維持のための仕組みの創出に向けてより強い努力を進めることになり、国際連盟の中に
国際連盟アヘン諮問委員会(OAC、日・英・仏・中・タイ・ポ・蘭・タイの8か国、アメリカは途中から参加)が設立され、アヘン・モルヒネ中毒防止のための各国の対策が協議されました。
 さらに、アヘンに関して再び
国際会議が開かれました。

1924年

ジュネーブ国際アヘン会議(米・英・日・中、米は途中脱会) 
 

1925年、二つの条約が結ばれる。アヘンの漸禁制止を図る古友を目的とする。
ジュネーブ第1議定書調印
・生アヘンや煙膏の輸入・分配を政府の専売とする  ・未成年者へのアヘン販売の禁止
・輸入国政府の発行による輸入証明書のない場合の生アヘンの輸出禁止
ジュネーブ第2議定書調印
・麻薬およびその原料の生産・分配・輸出入・販売の取り締まりに関し、その監視を行う中央委員会の設置
 


1931年

ジュネーブ麻薬製造制限会議 
 

麻薬製造分配取締条約調印
・麻薬特にヘロインに対して厳重な制限を加える。

 これを受けてイギリスは思い切った方向転換を実施しました。インド植民地においては、医療品以外にはアヘンの輸出を全面的に禁止することとし、海峡植民地においても財政改革を実行し、アヘン貿易に依存しない体制を整備しました。

先頭へ戻る 

 お待たせしました。ようやく、問題の正解の説明です。
 上のクイズ1にならって、関係図のクイズ2【第一次世界大戦後】版をつくると次のようになります。


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。
※参考文献1 倉橋正直著『日本の阿片戦略−隠された国家犯罪−』P29を参考に作成 
参考文献一覧へ||先頭へ戻る

 残念ながらという前置きを付けなければなりませんが、第一次世界大戦後、特に、1930年代以降、中国本土へアヘンやモルヒネを輸出する主役となった国は、我が日本です。
 
 日本は、上述の議定書や条約をすべて批准していましたが、結果的には中国本土へのアヘンの大量輸出を行いました。イギリスは、植民地体制全体を再編する中で中国へのアヘン輸出をなくしていくという状況にあり、また、中国においても、アメリカの主導によって、1920年代には「拒毒運動」という名前の禁煙運動(アヘン禁止運動)が起こりました。しかし、日本はそれに逆行する形で、アヘンの輸出を拡大しました。

 日本が最初に中国に進出したのは、日清戦争によって1895年に台湾を領有した時です。台湾は清朝の領土でしたから、本土と同じようにアヘン吸引が蔓延していました。日本政府や台湾統治のために設置された
台湾総督府は、このアヘンの流行に対して、「漸禁主義」という方法をとりました。これは直接には、「だんだん禁止していく」という方針です。具体的には、すぐに全面禁止にしては、これまでアヘンを愛好していた人々が大変困るだろうから、政府の専売としてアヘンの販売は続け、次第にアヘン中毒者の数を減らしていこうという政策です。
 しかし、実際には、アヘン愛飲者は野放しにされ、むしろ、
専売制によってアヘン販売を続けることで政府が収入を確保するという形となっていました。この方法は、基本的には、日本がその後に中国に獲得した植民地や傀儡国家、つまり、関東州・山東半島の青島地域(第一次世界大戦期に占領、6年間支配)、満州国に対しても適用されました。
 特に満州国の吉林省東部や熱河省においては、かなりの面積のケシ畑が経営されていました。
 また、1910年に植民地とした朝鮮においても、ケシが栽培され、アヘンとしてはもちろん、モルヒネ・ヘロインにも加工されて朝鮮内部での使用はもちろん、中国にも輸出されていきました。
 さらに、1937年に日中戦争が始まり、華北や内蒙古に傀儡政権ができると、そこを窓口にして中国占領地などに大量のアヘンが輸出されました。
 この時点から1945年8月の終戦までに間の期間に、中国におけるアヘン生産の拠点となったのは、内蒙古自治区でした。当時の日本の用語で蒙疆とよばれた地域です。
 ※参考文献3 江口圭一著『日中アヘン戦争』P60〜168
 ※参考文献5 江口圭一編著『資料日中戦争期阿片政策』P13−80
 
 このような事実は、実は高校の教科書には、あまり大々的には表現されていません。
 僅かに、1社の日本史B、日本史Aのそれぞれに次のように表現されているだけです。

 実教出版『日本史B 新訂版』(2008(平成19)年度教科書採用見本版)P341 
 

著者:脇田修、大山喬平、福永伸哉、栄原永遠男、勝山清次、平雅行、村田路人、高橋秀直、小路田泰直、江口圭一、広川禎秀、川島敏郎、豊田文雄、児玉祥一、矢野慎一 

 

「国民政府は首都を重慶に移し、アメリカ、イギリス、ソ連などの援助を受けて抗戦をつづけ、日本が期待した汪兆銘工作も効果を上げず、戦争は完全に長期戦化した。註G」 

 脚注G

「日本軍は中国戦線で国際法で禁止されている毒ガス(化学兵器)をしばしば使用した。また、ハルビンなどに「731部隊」等の細菌戦部隊を配置したり、内モンゴルなどでアヘンを生産し、中国占領地へ販売したりした。 


 実教出版『高校日本史A 新訂版』(2008(平成19)年度教科書採用見本版)P129 
 

著者:宮原武夫、石山久男、小宮恒雄、川尻秋生、川合康、峰岸純夫、佐藤和彦、北島方次、宮崎勝美、久留島浩、大日方純夫、大江志乃夫、君島和彦、渡辺賢二、加藤公明、小松克己

 

「中国軍民の抵抗に直面した日本軍は、1940〜43年にかけて華北の抗日根拠地への攻撃で「焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす」という「三光作戦」をおこなった。また、ハルビンの731部隊などでは、細菌戦・毒ガス戦の研究で、2000人ともいわれる中国人やロシア人を実験材料(マルタ)にし、しばしば中国各地でこれらを使った作戦を実行した。さらに、アヘンを生産して中国占領地で販売したりした。」 

 また、大戦末期になると、これらのアヘンの需要とは別に、医療用のモルヒネ等が不足し、国内でその増産が図られます。日本国内のケシの主要産地は、昭和期に入ってからは、和歌山県と大阪府でしたが、戦争末期には各地で女学生を動員するなどのにわかケシ栽培が試みられ、その名残が、上で説明したように(↑)、現在も意図せぬところにケシの花が散見されるという状況をつくっていると考えられます。
 ※戦前の国内ケシ栽培で名をあげたのは、二反長音蔵という農業経営者です。
  参考文献1 橋正直著『日本の阿片戦略−隠された国家犯罪−』P46

参考文献一覧へ||先頭へ戻る
この時代の問題に戻る 次の時代の問題へ進む