二つの世界大戦その4
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<解説編>
 

1005 Battole of Britain の転機となったドイツ軍の作戦とは?                 | 問題編へ |

 この下りは、イギリスの教科書には、次のように書かれています。

「フランス軍はたちまちのうちに壊滅し、6月25日に降伏した。2週間前にイタFリアの独裁者ベニ卜=ムッソリーニは、彼が勝利の側と考えた陣営に彼の国を引き入れた。イギリス帝国は孤立していた。いっぼうヒトラーは英仏海峡を越えての侵入を準備していた。イギリス人のなかには、そのような状況を絶望的とみなしたものもいた。だが、チャーチルはそうは考えなかった。「いかなる犠牲を払おうとも、われわれはわれわれの島を守り抜くであろう。われわれはけっして降伏しない」と、彼はいった。海岸は有刺鉄線や地雷でおおわれた。教会の鐘は警戒警報を鳴らす時に備えて、静まりかえっていた。しかしながら、ヒトラーの侵攻艦隊が無事に海に乗り出すことができる前に、彼は制空権を獲得しなければならなかった。ドイツ空軍を指揮していたゲーリングは、必要なことはただ「5日間の青天」である、とヒトラーに請け合った。彼らは二人とも予期せぬ成り行きに驚かねばならなかった。
 8月はじめに、ドイツ空軍は、イギリス空軍(RAF)と南イングランドの飛行場を破壊するという仕事にとりかかった。しかし、ドイツ空軍ははじめて、きわめて有能な敵軍に向き合うこととなった。すなわち、
イギリス側は、海岸沿いにレーダー観測所を備え、ドイツのメッサーシュミット機よりわずかに性能のすぐれたスビットファイア戦闘機が攻撃の先頭に立っていた。数的には劣勢であったけれども、イギリスのパイロットは敵に対して非常に深刻な損失を負わせたので、9月半ばまでにその侵攻作戦は無期延期の状態となった。実質上ドイツのイギリス大決戦は終わった。ヒトラーの計画は、数百人のRAF戦闘機操縦者の手腕と勇気によって覆された。そのパイロットのほとんどすべてが25歳以下であった。「これまでに、これほど少ない軍勢でこれほど多くのものを得たことはけっしてない」と、チャーチルはいった。ドイツ空軍は、イギリスの軍需生産に痛手を与えることを望んで、ロンドンおよびそのほかの主要な都市に対する夜襲に切り換えた。いわゆる電撃作戦(ザ・ブリッツ)は、1941年の春までつづいた。毎夜、サイレンが鳴って、家族に非難−地下室や特別に作られた防空壕や、ロンドンでは地下鉄の駅に−するように警告した。広範囲の破壊にもかかわらず、イギリスの抵抗は揺るがされなかった。」

R・J・クーツ著今井宏・河村貞枝訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ イギリスW』(帝国書院 1981年)P288

 ここには、レーダー観測所とスピットファイアーの優秀性のみが強調されていますが、本当は、それらにもまして、このクイズで問題としているドイツ軍の誤判断による作戦が、戦いの流れを大きく変えました。

 その発端は8月24日の深夜に起こった「事件」です。
 この日の攻撃にも、ドイツ空軍は爆撃機・戦闘機合計1030機を発進させました。
 そのうちの一部は、He111爆撃機による夜間爆撃であり、その目標はテムズ川河口の工場地帯とドックでした。しかし、そのうちの一隊は機の位置を見失い、爆撃目標を発見できず、仕方なしに適当な場所に爆弾を投棄しました。ところが、その位置は、何とロンドンの中心市街地であり、それまで、両軍が控えていた都市への無差別爆撃(軍事目標を爆撃するのではなく、都市の住民そのものを爆撃対象とする)を、偶然にもドイツ軍機が誤って行ってしまったのです。
 この事件が、それまでとは違う展開を生みました。ここがこのクイズのポイントです。次の黒板で考えてください。 


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 つまり、これまで、ドイツとイギリスの間には、お互いに都市に対する無差別爆撃は実行しないという「暗黙のルール」がありました。しかし、ドイツ軍機の誤爆によってチャーチルは「報復」の命令を発令したのです。この命令によって史上初のイギリス軍のベルリン爆撃が、8月25日に決行されました。ウエリントン、ホイットレー、ハンプデンの3機種の双発爆撃機からなる80機を超える編隊がベルリンを夜間爆撃し、これは以後数日続けられました。
 ※大内建二著『ドイツ本土戦略爆撃 都市はすべて壊滅状態となった』(光人社NF文庫 2006年)P52

 イギリス軍によるベルリン爆撃は、「ベルリンには1発の爆弾も落とさせない」と大見得切っていた空軍元帥ゲーリングにとっても、耐えがたい屈辱でしたし、何より、ヒトラーはこの爆撃に激怒しました。

 9月4日のナチス党冬季救援キャンペーン大会の席上で、ヒトラーは次のように演説しました。
「何故彼らは来ないのかとロンドン市民は問うであろう。『もうすぐだ。まもなく行ってやるぞ。』ベルリンに1トンの爆弾を落とすなら、その百倍、いや千倍にして返してやる。」
 ※飯山幸伸著『英独航空戦 バトル・オブ・ブリテンの全貌』(光人社NF文庫 2003年)P222

 こうして、9月7日からドイツ軍の爆撃目標が変更され、1000機以上の爆撃機・戦闘機がロンドンへ向かったのです。


 この結果、ロンドン市民は空襲に苦しめられることになりましたが、それまで連日空襲を受けていた戦闘機隊の基地は、「一息つく」ことができました。これがイギリス軍の戦力の回復につながります。
  一方、ドイツ軍爆撃機・戦闘機隊の方は、護衛戦闘機メッサーシュミットBf109の航続距離の短さがたたって、ロンドン上空での十分な爆撃機護衛ができなくなります。この結果、爆撃機隊の犠牲はもちろん、無理をすることになる戦闘機隊の犠牲もそれまで以上に増加しました。

 それでも、ドイツ空軍は自分たちの勝利を信じ、毎日毎日迎撃に上がってくるスピットファイアーの戦闘機隊を見ては、「あれがスピットファイアーの最後の50機」と信じて、苦難の爆撃行を続けました。しかし、ドイツ軍の爆撃はスピットファイアーの工場にも致命的な打撃を与えるには至っていなかったため、ピットファイアーの生産機数は予定以上を維持され、ドイツ軍の願う「最後の50機」はいつまでも実現しませんでした。

 やがて、決戦の時がやってきます。
 9月15日、自分たちが劣勢にあることを認めたくはなかったドイツ軍は乾坤一擲の大勝負に出てロンドンに大軍を送ります。また、今日こそ形成を一気に有利にするチャンスと思っていたイギリス軍は、力を振り絞って総力を挙げて迎撃に出ます。
 この日イギリス上空に来襲したドイツ軍の爆撃機総数は328機、戦闘機総数は769機とされています。
 イギリス空軍も出撃できる戦闘機隊はすべて舞い上がり、ドイツ軍の阻止を図りました。
 のち、この日は、「
本土決戦の日」と呼ばれます。
 この日のイギリス軍の損害は26機、そして、撃墜されたドイツ軍機は60機。ロンドンへの爆弾投下もうまくいかず、イギリス軍の勝利は明白でした。
 ※イギリス・ドイツそれぞれの撃墜機数は、参考文献6、
   R・ハウ、D・リチャーズ著河合裕訳『バトル・オブ・ブリテン イギリスを 守った空の決戦』によりました。

 のち、9月15日は、「
Battle of Britain day」として記念日にされました。

 9月17日、イギリス上空の制空権の早期確保は無理と判断したヒトラーは、「イギリス上陸侵攻の無期延期」を命令しました。だんだん日が短くなり、天候が悪化する秋に向かっては、もはや上陸作戦の決行は不可能でした。
 ただし、上陸侵攻準備は継続されました。10月12日になって、ようやくヒトラーは「上陸侵攻は春まで延期」と命令し、事実上イギリス上陸作戦は放棄されました。
 
 ただし、ドイツ軍の空襲の方は、9月15日以降も、執拗に続けられ、ロンドンやマージーサイド(マージー川河口のリヴァプール港周辺)には、激しい空襲が行われました。ドイツ爆撃機による空襲は、ドイツが対ソ連侵攻作戦を実施するためイギリス空襲を中止する、1941年前半まで続きました。
 しかし、イギリスの防衛力は最後まで維持され、航空機生産も続けられたのです。


 このBattle of Britain に関する詳しい説明は、→旅行記「マンチェスタ・ロンドン研修記13」こRAFmuseum(イギリス空軍博物館)の展示写真とともに掲載しています。


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