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 陸前高田 | 先頭へ ||旅行行程図(目次)へ||旅行日程と費用へ| 12/03/12 12/03/13修正

 2月26日(日)、午前10時30分過ぎ、手続きをとったトヨタレンタリース一関西口店から、ヴィッツを運転して、陸前高田・気仙沼へ向かいました。(ややこしいですが、「いちのせき」は、都市名は「一関」、駅名は「一ノ関」です。)
 そのコースは以下のとおりです。矢印
で示したコースを移動しました。
【目次】
 交差点で左折??駅はどこ?? 
 中心市街地 
 海岸線、そして高田の1本松


 一ノ関駅西口から県道16号を猊鼻渓(げいびけい)方面へ向かい、国道343号・340号を経て、西北から陸前高田へ入りました。陸前高田からは、国道45号を通って気仙沼へ入り、国道248号を通って、一関へ戻りました。
 JR大船渡線は、一ノ関と大船渡市の盛(さかり)駅(大船渡駅の北)を結んでいるローカル線です。路線の形状から、「ドラゴンレール大船渡線」と呼ばれています。
 津波の被害のため、現在は、気仙沼と盛間が普通となっており、現段階では復旧の見通しは立っていません。
 また、この路線は、「歴史的」にも有名な路線で、以前は、「鍋鉉(なべつる)」線とあだ名されていました。あだ名の理由は、陸中門崎ー猊鼻渓ー摺沢ー千厩(せんまや)の部分で、鍋の取っ手(正確な漢字を使えば、鉉=つる)のような形をしているためです。なお、この部分の表現を、「鍋弦」・「鍋蔓」と表現している書物もありますが、漢字の正確な意味からは、「弦」(ゆみのつる)、「蔓」(植物のつる)ではなく、「鉉」(鍋等の取っ手)です。
 この部分は何故このような形をしているのでしょうか?その理由は・・・・。これは、別のページで、クイズ形式で紹介します。
  ※→クイズ日本史:明治時代末~昭和初期「大船渡線の独特の形状が生まれた理由は?」 
  ※日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 第9巻』P32
  ※長江好道・三浦黎明・藤澤隆男・浦田敬三・早坂啓造・渡辺基著『岩手県の百年 県民百年史3』P98-105

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 交差点で左折??駅はどこ?? | 先頭へ ||目次と地図へ|

 一ノ関駅西口を出た私たちは、カーナビの目的地を「JR陸前高田駅」と設定し、県道16号・国道343号、通称今泉街道を一路東へ向かいました。山や田畑には2月24日から25日かけて降った雪が厚く積もっていて、道路も日陰部分は雪に覆われており、時速を30km以下に下げなければならない状態でした。特に、標高が430m以上ある笹ノ田峠のトンネルあたりは、深い雪でした。
 やがて、陸前高田市域に入り大船渡線の
陸前矢作駅を過ぎ、大船渡方面へ通じる国道340号(通称高田街道)をとおり、竹駒駅をすぎて、市街地へ入りました。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、陸前高田市の地図です。


 市街地に入るところで、いきなり驚きの体験をしました。

 カーナビが冷静に案内します。
「交差点を左折します。」
「えっ、ちょっと待って。どこを曲がるの。」
 左折といわれても、前方には信号機はありませんし、建物もありませんから雪が積もった地面では、瞬間的には交差点があることすらわかりません。そこを曲がれとナビはいうのです。
 これは衝撃的でした。カーナビの地図にはある町が、現実には存在していないのです。

 あとから思えば、津波の被災地ですから当たり前のことだったのですが、不覚にも私はこのことを予想していませんでした。テレビの映像で見た津波被害の状況が、自分の感覚には反映されていないことを思い知らされました。

 目的地のJR大船渡線の
陸前高田駅はもうすぐです。


 写真02-01  カーナビの画面には陸前高田駅の所在が示されています        (撮影日 12/02/26)

 カーナビが、「目的地(陸前高田駅)周辺です」と告げます。自動車の前には、何もない雪原が広がっています。


 写真02-02 JR大船渡線陸前高田駅               (撮影日 12/02/26)

 駅の痕跡を示すものは、この撮影位置からでは何も発見できません。80年の歴史を誇る駅舎は、跡形もなく流れ去ってしまいました。
 津波襲来当時、大船渡線の列車としては、14時45分大船渡発の一ノ関行きが走っていましたが、偶然にも、大船渡湾沿いの高台に停止し、難を逃れました。
 陸前高田市内には、
陸前矢作竹駒陸前高田脇ノ沢小友の駅がありますが、陸前矢作以外はいずれも津波の被害を受け、駅舎も流されるかもしくは大きく損壊しました。

 右後ろの建物は、250m離れた地点にある
県立高田病院です。4階建てのこの病院では、およそ100人の患者・職員が取り残され、3月12日夜になってようやくヘリコプターによる救助が終了しました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P38、3.13

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 陸前高田駅の駅舎はありません。両側のプラットホームだけが残っています。

 駅にはどこかのTV局の取材チームが来ていました。

担当

「地元の方ですか」

「いえ。岐阜からやってきました。」

担当

「ボランティアですか?それともどなたかゆかりの方とかがいらっしゃるのですか?」

「いえ、ただ、TVだけで見ていたこの町の状況を、自分の目で確かめたくて来ました。」

担当

「いかがですか?」

「想像を絶する状況です。1年たっても、何もないのですね。」

担当

「ご覧になってどうされるつもりですか?」 

「私は教員をしていますので、この状況を生徒諸君や同僚の先生方に伝えることだけでも意味があると思います。」


 写真02-03 陸前高田駅1番プラットホーム                   (撮影日 12/02/26)

 背景は海側です。中央の高い建物は高田松原の手前に位置するキャピタルホテルです。背景の山は広田半島の仁田山です。
 ホテルの電話番号、0192-55-3111に電話すると、「お客様の都合で、電話を取り外しております」との案内でした。営業はされていません。
 ホームの先端の背景には、高田松原第一球場の照明灯が見えます。


 中心市街地 | 先頭へ ||目次と地図へ|

 駅をあとにして、陸前高田市街地を東西に貫通する目抜き通り、県道141号(東浜街道)を東へ向かいました。映像や写真で見た悲しみの建物群が、無言で私たちを迎えました。
  ※以下建物の確認には、次の資料を用いました。
  ※毎日新聞社編『写真記録 東日本大震災 3・11から100日』
          P9-8(3.12_4:44pm陸前高田 P104-105(4.6_0:20pm陸前高田)

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 写真02-04 陸前高田市が中心部              (撮影日 12/02/26)

 高田街道から見た陸前高田の中心市街地。瓦礫や住宅の跡地は雪原の下に隠れています。


 写真02-05 中心部のアップです               (撮影日 12/02/26)

1

 中央左の色の看板のある3階建ての建物は、大船渡市に本店のあるこの地方のスーパーマーケット、マイヤ高田店です。この3階建ての建物でも、屋上部分を残してほぼ丸ごと水につかりました。
 客を誘導・避難させたあと新沼善寛店長ほか最後まで残っていた従業員が逃げる場を失って屋上に上がりました。避難が遅れてやってきた周辺住民と消防団員と合わせて13人が屋上で津波をやり過ごしました。水が引くと、3階の天井の鉄骨に捉まって生き残った市役所職員を救助し、あわせて14人が、寒い寒い11日の夜を廃墟のビルで耐えました。なんと、この夜は、雪が降りました。過酷な状況に耐えぬいた彼らは、12日の朝にヘリコプターで救助されました。
 マイヤは、岩手県沿岸部に16店を展開していましたが、そのうち6店が店ごと流されたり全半壊しました。従業員27名が死亡又は行方不明となり、受けた被害は甚大でした。しかし、3月15日から陸前高田市の小学校で出張販売を開始するなど、こういう時こその地元スーパーの意気込みを示しています。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』
                                            P22、3.12、P509、4.5
 もちろん陸前高田店は、現在はまだ閉鎖中です。中心市街地では住民はほとんど生活しておらず、商業は成り立ちません。
 ただし、この町では気仙川(陸前高田市なのですが、流れている川は、気仙川です)の上流の竹駒地区・矢作地区(地震や津波の被害は比較的少なかった)には仮設住宅や仮設店舗が建設されて住民が集まっており、マイヤは、2011年8月に震災後初めての新店舗、
マイヤ滝の里店(陸前高田市竹駒町滝の里1番)を開業しました。
  ※マイヤのHPはこちらです →http://www.maiya.co.jp/


 マイヤの陰に隠れていますが、右後ろに陸前高田市役所庁舎があり、道を挟んだ右側にあるのが陸前高田市民会館です。市庁舎は4階建て、市民会館は3階建てです。
 陸前高田市の避難マニュアルでは、市民会館が避難場所に指定されていました。ところが今回の津波は市役所庁舎の4階部分まで到達してしまいました。屋上がかろうじて水没を免れただけとなりました。市役所にいて屋上に逃れた戸羽太市長をはじめとする職員と避難民合計127人は助かりました。しかし、市民会館に避難していた人々は津波にのまれてしまいました。
 結果的に、市内中心部の11の避難場所のうち、10カ所が津波につかり、市内中心部だけで1000人ほどの方がなくなられるか行方不明となりました。
  ※『NHKスペシャル 映像記録3.11 あの日を忘れない』(2012年3月4日 21:00~22:00放送)
  ※戸羽太著『被災地の本当の話をしよう 陸前高田市長が綴るあの日とこれから』P31→追記あり

 市役所の職員も296名のうち、教育長をはじめ4分の1程の方が犠牲となりました。すぐに、高台にプレハブの仮庁舎が営まれ、失われた住民基本台帳など重要書類・データについては、システム会社のバックアップデータを頼りに復原がおこなわれました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P326、3.27

 右端の建物は陸前高田郵便局です。現在は、山の手の高田町鳴石50-21に仮店舗がつくられています。

 背景の山は、標高254mの仁田山です。

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 写真02-06 左から消防本部中央公民館、そして一番右端は図書館          (撮影日 12/02/26)

 図書館では、全職員が死亡または行方不明となっています。新しく採用された職員によって再建が進められ、市内の公民館の敷地内に建設中のプレハブの建物を仮設図書館とするそうです。蔵書は全国から寄せられた約8000冊とのことです。
  ※『中日新聞』2012年3月7日朝刊

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 写真02-07 社会福祉協議会のビル              (撮影日 12/02/26)

 屋上まで、完全に水没しました。


 写真02-08 市民体育館 (撮影日 12/02/26)

 写真02-09  高田高校 (撮影日 12/02/26)

 市民体育館の時計塔の針は、流されてありません。100名ほどの避難者がいたそうですが、生存者は3名とのことです。
 岩手県立
高田高校では、地震発生時には、校内で257人の生徒が部活動をおこなっていました。地震直後裏の丘の第2グランドに避難し、学校にいた生徒からは犠牲者を出さすに済みました。高田高校のHPに工藤校長は次のように記しています。
「地震の直後、第二グランドに避難指示を出しましたが、生徒たちは本校体育館に避難してきた住民の方々の両脇を抱えて第二グランドまで誘導したり、雨天練習場に布団を運ぶなど、避難してきた人たちのために行動してくれました。本来であれば、家族の安否や家が流されていないかと泣き叫びたいほどの不安があるはずなのに、どの生徒も慌てず、冷静な行動をとってくれました。我々はこんな高高生(たかこうせい)を誇りに思います。」
 しかし、水泳部の生徒9人は学校をから500mほど離れた海岸沿いの室内プールで練習をしており、そのうち7人が犠牲となりました。また、水泳部顧問の小野寺泰子教諭は、地震発生時には学校にいましたが、学校での避難が終了したあと、「水泳部員を探しに行く」といって自動車で出たまま行方不明となりました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P149、3.18
  ※『朝日新聞』2012年3月12日朝刊

 高田高校は、2011年5月から、大船渡東高校萱中校舎を借りて、授業を再開しています。
  ※岩手県立高田高等学校のHP →http://www2.iwate-ed.jp/tak-h/
 

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 写真02-10 高台にある米崎小学校              (撮影日 12/02/26)

 東の丘の中腹にある米崎小学校。津波による被害を免れたため、多くの避難民を収容することになりました。現在は、グラウンドに仮設住宅が建てられています。

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 海岸線、そして高田の1本松 | 先頭へ ||目次と地図へ|

 東浜街道を東は進んだ私たちは、海岸線に出て、大船渡線脇ノ沢駅まで来て、今度は方向を変えて、海岸線沿いのバイパスを西へ向かいました。


 写真02-11 陸前高田市の脇ノ沢駅近くの海岸と広田湾             (撮影日 12/02/26)

 陸前高田市の前に広がる広田湾です。
 2011年3月11日午後3時26分、この海岸線に高さ10mを越える津波が襲来しました。
広田湾は、湾口が広く奥が深く海岸線は狭いという条件を持っていたため、その奥にある陸前高田の町は、予想を超える大津波におそわれたのです。
 各地域の津波の威力は次の表の通りです。



 陸前高田市の中心部の体育館のある地点では、津波浸水高15.80mにも及びました。
 津波は気仙川をさかのぼり、河口から直線で3.8kmもある
竹駒駅でも、浸水高は11.30mを記録しました。竹駒駅は標高3m程ですから、ここでも8m以上の津波だったということです。
 また、斜面では津波は坂をかけ上がり、高田高校東北の長砂地区では、
津波遡上高が19.38mにもなりました。
  ※原口強・岩松暉著『東日本大震災津波詳細地図上巻 青森・岩手・宮城』P42

 これにより、市内全体の8000世帯のうち、70%以上が津波被害を受けたとされ、被害発生直後には、政府や岩手県は、「陸前高田市は『
壊滅状態』」と表現しました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P22、3.12

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 写真02-12 5階建ての定住促進住宅は4階まで浸水              (撮影日 12/02/26)

 海岸沿いを通っている高田バイパス沿いの定住促進住宅下宿団地1号棟は、海からの津波の直撃を受け、4階までは無残に破壊されました。正面から見ると、各部屋の中には何も残っていません。


 写真02-13 定住促進住宅とは反対側にある高田松原第一球場             (撮影日 12/02/26)

 照明灯は無事でした。


 写真02-14 気仙中学校  (撮影日 12/02/26)

 写真02-15 陸上の漁船群 (撮影日 12/02/26)

 気仙川の河口西にある気仙中学校は3階建てのコンクリートの建物ですが、内部は全壊です。 


 写真02-16 海岸沿いのバイパス              (撮影日 12/02/26)

 バイパスの南側(写真左側)には、古川沼があり、そのさらに南の海岸沿いには高田松原が広がっていました。中央の建物は、キャピタルホテルです。


 写真02-17 在りし日の高田松原              (撮影年 1972年)

 この写真は、国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」の「カラー空中写真閲覧」の航空写真です。1972(昭和47)年の高田松原です。この松原は防潮林として、約350年前の江戸時代前期につくられ始めました。
   ※サイトはこちらです。 → http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html
 この写真では、まだバイパスはできていませんが、
野球場古川沼がわかります。松原には7万本もの松がありました。

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 写真02-18 奇跡の一本松              (撮影日 12/02/26)

 高田松原は陸前高田市民のみならず、近隣の住民が海水浴に来るなどの観光地で、2010年には104万人の観光客が来ました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P327、3.27

 しかし、津波によって松原は無残な姿となりました。7万本のうち残ったのは、1本だけです。まさしく
奇跡の松です。隣は陸前高田ユースホステルです。もちろん全壊です。
 高田松原の松をめぐっては、大文字焼きの薪にすることを拒否されたりなどいろいろありました。そして、2011年12月には、次の決定がなされました。
「東日本大震災の津波に耐えた岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」について、保存活動を続けてきた地元の「高田松原を守る会」が保護を事実上断念したことがわかった。
 同会は、国の名勝「高田松原」に唯一残った松を復興のシンボルにしようと、周囲に鉄板を打ち込んだり、地中の海水を吸い上げたりしてきた。しかし、財団法人「日本緑化センター」(東京)が10月に調べたところ、海水で根がほとんど腐り、松を維持するのは極めて難しい状態と判明。会では「再生不可能」として保護作業を打ち切った。現在は立ち枯れるのを見守るしかない状況という。
 守る会の鈴木善久会長(66)は「一本松は我々を『強く生きろ』と励ましてくれた。生きて残してやれないのは本当に残念」と話す。会では一本松の接ぎ木を育てるなどして高田松原に苗木を移す計画を進めるほか、一本松に防風・防虫対策を施し、立ち枯れのまま残せないか市に要望している。」
  ※『読売新聞』2011年12月4日朝刊

 大変残念なことです。

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 陸前高田市のHPによれば、同市の人的な被害は、次のようになっています。



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 結果的に、所々で自動車を止めて、降りて撮影し、周囲の雰囲気を身に感じたというだけの、短い時間の滞在でした。「通り過ぎただけで何がわかる」というご批判も甘んじて受けます。
 しかし、それでも、旧市街地中心部に広がる、ビル跡が点々とするだけの「雪原」は、心に残りました。忘れはしません。
 犠牲となったみなさんのご冥福と、陸前高田のみなさんのご幸福をお祈りするとともに、みなさんの町の復興になんらかの形で支援申し上げることを誓います。


 【蔵王・南三陸旅行2 東日本大震災の被災地 陸前高田 参考文献一覧】
  このページ2の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。
 

日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 第9巻』(日本国有鉄道 1972年) 

 

長江好道・三浦黎明・藤澤隆男・浦田敬三・早坂啓造・渡辺基著『岩手県の百年 県民百年史3』(山川出版 1995年) 


朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』(朝日新聞社 2011年)

毎日新聞社編『写真記録 東日本大震災 3・11から100日』(毎日新聞社 2011年)

原口強・岩松暉著『東日本大震災津波詳細地図上巻 青森・岩手・宮城』(古今書院 2011年)

  戸羽太著『被災地の本当の話をしよう 陸前高田市長が綴るあの日とこれから』(ワニブクス 2011年) 

スーパーマーケット・マイヤのHP  →http://www.maiya.co.jp/
岩手県立高田高校のHP →http://www2.iwate-ed.jp/tak-h/ 

『朝日新聞』2012年3月12日朝刊

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『中日新聞』2012年3月7日朝刊


 【追記】以下の文章は、2012年3月13日に追記しました。

 上で引用した、陸前高田市長の戸羽太氏は、自身が奥様を亡くされ自宅を損壊された被災者という立場でありながら、懸命に陸前高田市の復興に尽力されています。その5か月間の思いを込めた本が、『被災地の本当の話をしよう 陸前高田市長が綴るあの日とこれから』(2011年8月25日初版発行)です。

 そこにとんでもない話が紹介され、それに対する戸羽市長の怒りが表現されています。引用せずにはおられません。
「 陸前高田には、菅直人首相をはじめとして、多くの政治家たちが視察にやってきてくれました。
 心からねぎらいの言葉を掛けてくれる方もいらっしゃいますし、何かと気に掛けてくださって、何度も電話をくださる方もいらっしゃいます。そうやって私たち被災者と気持ちを共有してくださる存在は大きな励みになります。
 しかし、明らかに「点数稼ぎ」や「物見遊山」でやってくる人も少なくありません。
 ある日、市長室で公汲にあたっていると「市長、東京からお客様です。玄関までお越しいただけますか?」という内線が入りました。
 玄関へと向かうと、そこにはとある国会議員がいました。
 「なんでしょうか」
 「市長、ここで写真を撮ろう」
 その方は被害状況や復興の進捗などひとことも開かず、市役所の看板が入るところで私とのツーショット写真を撮ると、そのまま、まっすぐ帰ってしまいました。
 ちゃんと被災地の状況は見ていただけたのでしょうか?
 避難所に顔を出して、被災者の旦の声を聞いていただけたのでしょうか?
 まさか私と撮った写真を使って「被災地に行ってきました」と支援者にアピールするためだけにやってきたのでしょうか?
 もっと酷い方もいました。
 私が被災地をご案内したのですが、多くの犠牲者を出し、今では廃墟状態になつている旧市庁舎に来ると「ここで写真を撮りたい」と言い出し、次の瞬間、信じられないことにⅤサインをしながら写真に収まっているではありませんか! この市庁舎でも大きな被害があったことは説明済み、なのにですよ。さらに「さあ、市長も一緒に!」とⅤサインを出したまま、私を手招きしましたが、さすがに丁重にお断りさせていただきました。
 表面上は平静に対応しましたが、心の中では「この人には人間の心があるのか!」と憤慨しました。
 こんな人に「頑張ってくれたまえ」と言われても・・・・・因ってしまいます。
 もちろん真剣に復興について考えてくださる方もいますけど、震災から時間が経つにつれて、こういった失礼な人が増えました。
 私はなんだか馬鹿にされたような気がしてなりません。
 結局「東北地方で起きたことだから、他人事だ」という気持ちがこちらにも伝わってくるんです。
 それこそ「放っておいても、いつかは復興するだろう」ぐらいの考えでフラツとやってくる人も少なくありません。
 私は同じ日本人として悔しくて悔しくてたまらない気持ちになります。
一度、偉い方々に直接、聞いてみたいものです。
「東京が被災しても、あなたは同じような態度を取るんですか」と。」
  ※同書 P85-87

 戸羽市長は、8年後の陸前高田の復興を目指しておられます。お体に気をつけて頑張ってください。心から応援します。


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