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銃砲と歴史2-4
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 長篠の戦い4 戦いの「実像」3段撃ち 05/11/13 作成
 
 鉄砲の3段撃ちの伝説                               目次へ

 長篠・設楽原の戦いの「実像」に迫るページの2回目は、「鉄砲3段撃ち」の実像です。
 すでに、長篠の戦い2(こちらです)でふれたように、織田・徳川軍の鉄砲隊の「鉄砲3段撃ちの伝説」は、17世紀前半の書物『
甫庵信長記』によるものです。
 それ以前に書かれた、より正確な資料であった太田牛一の『
信長公記』には、鉄砲の撃ち方については何も説明がないのに対して、甫庵信長記』には、

「敵馬を入れ来らば・・際1町までも鉄砲うたすな間近に引請け・・・千挺づつ放ち懸け一段づつ立ち替り立ち替り打たすべし

小和田哲男編『長篠・設楽原の戦い』(吉川弘文館 2003年)P158より引用

 とあります。
 これが、その後の様々な書物に無批判に引用され、「
3000挺の鉄砲を1000挺ずつ代わる代わる発射し、突撃してくる騎馬隊を打ち負かした」という伝説を作りました。
 私自身も、自分が小学校の時に初めてそれを学習して以来、それから30年近く、教師になっても無批判にそれを教え続けていました。
 教える側の教師の立場のからいうと、この伝説は、説明のしがいのあるものでした。つまり、当時の火縄銃がいかに発射に手間がかかる代物であるかの説明は結構面白い話でしたし、それを「3段撃ち」によって克服する話も、また、生徒を魅了する内容でした。
 
 その3段撃ちの実像をいろいろな角度から解明します。 
 


 合戦の際の鉄砲の数                                目次へ

 まずは、「3000挺の鉄砲を1000挺ずつ代わる代わる発射」の前提となった、鉄砲の数です。
 この数字は、いくつか伝えられる『
信長公記』の多くや、『甫庵信長記』に「3000挺」とあるところから、一般には、そう信じられてきました。
 しかし、『
甫庵信長記』はこれまで述べてきたように、確実な資料とは言いがたいものです。
 となると、より確実な太田牛一の『
信長公記』によらなければいけません。しかし、これがまた、ミステリアスなこととなっています。
 『信長公記』の伝本は40ほどが確認されていますが、最も良質なものは、次の2つです。

  1. 全15巻太田牛一の自筆本とされる、京都の建勲神社に伝わる通称「建勲神社本
  2. 全15巻のうち14巻が自筆本とされる、岡山大学池田家文庫所蔵の通称「池田家文庫本

 鉄砲の数については、「建勲神社本」は「千挺ばかり」としているが、「池田家文庫本」は、「千挺ばかり」の千の字の右肩に三の字が小さく加筆されて「三千挺ばかり」となっています。
 そして、「
池田家文庫本」を江戸後期に写した「内閣文庫所蔵本」では、加筆の「三」の字が本文中に組み込まれ、完全に「三千挺ばかり」になっています。「内閣文庫所蔵本」だけを見た人は、太田牛一が初めから「三千挺ばかり」と書いたと錯覚してしまうでしょう。
 「
池田家文庫本」の「三」の字の加筆をどのように考えるかが問題です。
 これについて、たびたび引用している『
信長公記』の研究家、藤本正行氏は次のように解釈されています。

池田家文庫本の加筆は、牛一が新しく有力な証拠を得て、訂正したものとも考えられるが、池田家文庫本の形態年代を考えれば、むしろ後世、『甫庵信長記』に「三千挺」とあるのを見た誰かが、訂正するつもりで加筆した可能性が高い。ともかく本来、二本とも「千挺ばかり」とあった事から、少なくとも牛一が最初は「千挺ばかり」と認めていた事がわかる。そして他に適当な史料が見当たらぬ以上、この数値をまず信頼すべきであろう。」

藤本正行著『信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫 2003年)P236

 ということは、そもそも、1000挺×3=3000挺という根拠となっていた、3000挺自体が、いい加減な数値ということになります。 


 伝説の鉄砲隊の疑問                                   目次へ

 次に、伝えられる鉄砲隊について、いろいろな疑問を提示しながら説明します。

1 火縄銃を射撃する早さ

 火縄銃の構造や射撃の手順については、「銃砲と歴史1 はじめに−火蓋を切る」で説明しました。 (こちらです。
 ここでは、もう少し詳しく、射撃のスピードという点から説明します。


まずは装備です。
腰には、発射用火薬(または
早盒、はやごう)入れ・弾丸入れ・着火薬入れの3つを付けています。左手には火縄銃と火縄をもちます。

筒先より、火薬と弾丸を入れます。この絵は早盒(下の説明参照)を使っています。

朔杖(かるか)で押しつけます。


火皿に着火薬を載せ、暴発しないように、火蓋を閉じます。


火鋏に火縄を装填します。

構えて火蓋を切り(開ける)、ねらいを付けます。

発射です。


 1回発射するのにこれだけの作業が必要と言うことは、現代の鉄砲のように、1秒間に何発もは発射することは到底不可能です。(これ以後、次の弾を撃つまでにかかる時間を射撃準備時間といいます。)
  現代普通の人が普通に、Aの状態からGの発射までやると、とても1分ではできないでしょう。
 しかし、専門家が熟練すると、20秒ほどで発射できるようになるそうです。
 さらに、射撃準備時間を短くする方法があります。
 
早盒(はやごう)、という道具を使う方法です。
 写真で説明します。以下の写真は、新城市設楽原歴史資料館の展示物です。(05/11/04撮影)


左:新城市設楽原歴史資料館(古戦場を見下ろす丘にあります。)  右:各種火縄

左:着火薬入れ。火皿にれる火薬を入れる容器です。
右:
早盒(はやごう)です。現在の薬莢のようなもので、火薬と弾丸がセットになった容器です。


 早盒の正確な使い方は、次のとおりです。

「早盒を逆さにして銃口にあてる。
左手の拇指、人差し指、中指で早盒を保ち、薬指と小指で銃口巣口をしっかり握りしめる。
 右手で柵杖(かるか)を持ち、逆さにして銃口にあてた早盒の底、鉛弾丸に、かるかの先端をあてがい、かるかを早盒の筒中と銃腔内に強く突きこめば、銃身内の薬持ち(薬室)に焔硝が納まり、その上部に弾丸一発が乗った形で装填される。
 ついで早盒を上方に、柵杖から抜きとり、銃腔にささったままの柵杖を右手で数回強く突き、弾丸を焔硝にわずかに埋めこんで、柵杖を銃身から引き抜く。
 この操作で、銃腔内の爆庄を強めて、弾丸を前方に射出することができる。
 次の操作は、火皿に口葵を盛り、火縄を装着することで、早盒を使っての装填を終わる。」

名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)P24


 名和弓雄氏によると、この早盒をつかうと、使わない時の20秒だった射撃準備時間が短縮されて、15秒以内となるそうです。上のアニメは、約15秒でAからGまで動くように作ってありますが、ほぼこの程度で1発が打てると言うことです。
 この時間は、皆さんには、短い時間と感じられますか、長いと感じられますか?
 私自身は、結構短い時間で次発が撃てるものだと感じています。

実は、名和氏は、もっと射撃準備時間を短縮できる方法の存在を指摘されています。
それが、射手一人と装填手3人による分業による射撃です。名付けて「
分業3人組弾丸込め法」です。これによると、4秒から5秒間隔で発射できるとのことです。 (名和前掲書、P25−26)


2 3段撃ちはできるか

 『甫庵信長記』によって作られた「3段撃ち」は、鉄砲隊が3列になって、射撃をしたあとは、最後尾に移動して弾込めを行い、順に撃ちながら代わっていくという方法です。

 次のアニメのような感じでしょうか?

 ※このアニメは24秒で3発射撃できるように作成してあります。つまり、射撃間隔8秒で1発です。

 つまり、「3段撃ち」は、1000挺の銃で単独で射撃する場合よりは、もちろん射撃間隔を短くすることができます。
 しかし、これが実戦で行われたと考えるには、次のような難点があります。


A この移動をともなう方法では鉄砲隊の兵隊が疲れる
 3人は代わる代わる移動して射撃のための活動を継続しなければならず、これは兵隊たちを大変疲れさせます。ただ歩くだけでなく、鉄砲や装備をもって移動し、しかも迅速に作業をしなければならないからです。
 鉄砲隊の兵士は、4kg前後の重さがある火縄銃(ちなみに、自衛隊の89式小銃は3.5kg)に加えて、他の装備と合わせて20kg以上を身に付けています。その状態で、動き回ると・・・。

 名和弓雄氏の実験の結果です。

「この移動三段射ち射法を一斉射撃で実験してみると、1、2、3列が3度入れ替わり、つまり、全部で9度(9発)射撃しただけで、全員息を切らし、へとへとに疲労し、ギブアップしてしまった。」

名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)P35

 この名和氏の実験の際の射撃間隔は、装填と移動を合わせて、25秒から30秒とされていますから、上の私のアニメよりは少しゆっくりです。それでも、長続きは不可能というわけです。

B 敵が一斉に突撃してくるとは限らないのにこの戦法は不合理 
 この戦法は、あくまで、騎馬隊が馬防柵の全面で一斉に突撃してくるということを想定して考えられたものです。
 そう言う状況であれば、多少疲れようが、できるだけ速射して撃退するという方法は考えられなくはありません。
 しかし、本当にそんなことが起こるでしょうか。
 もし、あなたが指揮官なら、次のように戦いませんか。
「相手が少数でこちらが圧倒的多数と分かってでもいない限り(現実の設楽原は、織田・徳川軍が武田軍の3倍近くいた)、まず、注意深く敵の戦線に様子を見るための部隊を送り、そこで見つけた敵の陣地の弱そうなところをめがけて、集中的に兵力を投入し、防衛線にほころびを生じさせ、敵陣に突入する。」

 もし、武田方がこういう風に攻めてくるとしたら、実際には、「3段撃ち」のような機械的な戦法をとるよりも、兵士一人一人の射撃にまかせる方が合理的です。その方が、敵の兵力集中に対応しやすくなります。
 名和弓雄氏は、さらに合理的な方法として、上で少し述べた、「
分業3人組弾丸込め法」の存在を指摘されています。
 これは、平地ではなく、身を隠す陣地の中で行う射撃方法で、射手以外の3人が、それぞれ、@早盒を使って弾と火薬を込める役、A火皿に着火薬をを盛り盛り火蓋をかぶせる役、B火鋏に火縄を付け射手へ渡す役、と分業するものです。
 これだと、4秒か5秒の間隔で射撃ができるそうです。 
 この方法は、鉄砲に巧みで信長をずいぶん苦しめた紀州雑賀(さいが)の鉄砲衆が用いたことが記録に残っていますが、この設楽原の戦場で使われたかどうかは記録上は確認できません。

C 戦いはどれだけ続いたか、鉄砲はどのくらい発射されたかとの矛盾 
 鉄砲隊が3段撃ち戦法で騎馬隊をやっつけたという場合、みなさんは、どのくらいの戦闘時間を想定されますか。30分ですか、1時間ですか?そして、その時の鉄砲隊の射撃時間はどのくらいでしょうか?
 映画「影武者」では、武田の騎馬隊は、
僅か6分で壊滅します。 これは少しオーバーであくまで映画の世界の話でしょうが、それでも、普通の方は、結構短い時間で勝負が付いたと思っておられると思います。
 しかし、実際の戦いの時間は、記録によりまちまちですが、
短いのは2時間、長く書いている記録では夜明け後の午前6時から午後2時まで、8時間続いたとあります。
 その間中、鉄砲を撃ち続けることはありえません。いや、それどころか、現実的には、携行の火薬量から考えて、射撃回数は、うんと少なかったと想像できます。

 銃の専門家、岩堂憲人氏の分析です。

「どのくらいの量の火薬があったのか正確には知るよしもないが、試算は可能である。設楽原の戦いの時間にも諸説あって、短いので2時間、長いのは8時間とされている。ここではその中間をとって4時間と仮定してみる。この4時間に各銃手が何発射ったのかというのは想像するしかない。数発ということはありえないとして、数百では多すぎる感じがする。まず数十発というところであろうか。もちろん平均発射数であるのはいうまでもない。そこで数十発を具体的な数にして、まず50発と考えてみる。4時間の戦闘中20秒ほどで装填し、射撃可能な火縄銃として・記録に残る当日の戦闘状況からこれはかなり低めの数字のつもりである。
 当時主用されていた銃は6匁簡(弾丸重量22・5g)で火薬量は約10gだから、1挺の銃が消費した火薬は500gとなり、千挺では500kgつまり半トンである。しかし戦闘の終了と同時に弾薬は射ち尽したわけではないだろうから、そのぶんを加算し750kgの火薬が用意されていた、と考える。設楽原での連合軍の戦線は長いもので約1800mほどであった。ここに750kgの火薬がどのような形にせよ分散して置かれていたのである。一口に750kgというが、その量が大変なものであるのは言をまたない。もし銃手を前後にずらして配置し、射撃するようなことが行なわれたとするなら、前に位置する銃手の火薬容器に火花が落ちて火薬が引火、炎上することは避けられなかったに違いない、と推理するのだがどうであろうか。もちろん記録にはそのような事がおきたことなどは一切記されてはいない。」

岩堂憲人著『世界銃砲史』(国書刊行会 1995年)P212

 岩堂氏の推定である、全戦闘中の銃1挺に付き、50発という数字は、かなり低めの数字です。しかし、それでも、火薬量は相当なものになります。(氏は、早盒はこの時代には戦闘で大量に使われることはなかったと考えられています。)
 ということは、そもそもが、この時代に火縄銃を、今時の機関銃のようにガンガンと撃つということ想定すること自体に無理があるということです。
 このほか、もうもうと火薬の煙がただよう戦場(今の銃と違って黒色火薬はひどい白煙がでます)で、一斉に号令によって射撃することなど、通説には非現実的な内容が多く含まれています。


 鉄砲隊の実像                                    目次へ

 まとめです。
 鉄砲隊の「
3段撃ち」という戦法は、あくまで、密集隊形の騎馬隊が継続して怒濤の如く攻めてくることを前提として、それを速射によって、撃退するということから考え出された幻想です。

 前提の騎馬隊の密集突撃隊形が存在していない以上、「3段撃ち」も存在し得ません。
 私たちの通念よりも、もっと戦いの時間は長いものでした。
 そして、一斉ではなく、部隊ごとに繰り返し攻めてくる武田軍を、次のページで説明する馬防柵という陣地から、これまた一斉ではなく各鉄砲隊ごとにごく普通の方法で効率よく銃撃し、何度にもわたって撃退したというのが、戦いの、鉄砲隊の実像でした。

 次回は、馬防柵と戦術革命についてです。 


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