つまり、「3段撃ち」は、1000挺の銃で単独で射撃する場合よりは、もちろん射撃間隔を短くすることができます。
しかし、これが実戦で行われたと考えるには、次のような難点があります。
A この移動をともなう方法では鉄砲隊の兵隊が疲れる
3人は代わる代わる移動して射撃のための活動を継続しなければならず、これは兵隊たちを大変疲れさせます。ただ歩くだけでなく、鉄砲や装備をもって移動し、しかも迅速に作業をしなければならないからです。
鉄砲隊の兵士は、4kg前後の重さがある火縄銃(ちなみに、自衛隊の89式小銃は3.5kg)に加えて、他の装備と合わせて20kg以上を身に付けています。その状態で、動き回ると・・・。
名和弓雄氏の実験の結果です。
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「この移動三段射ち射法を一斉射撃で実験してみると、1、2、3列が3度入れ替わり、つまり、全部で9度(9発)射撃しただけで、全員息を切らし、へとへとに疲労し、ギブアップしてしまった。」 |
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名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣 1998年)P35 |
この名和氏の実験の際の射撃間隔は、装填と移動を合わせて、25秒から30秒とされていますから、上の私のアニメよりは少しゆっくりです。それでも、長続きは不可能というわけです。
B 敵が一斉に突撃してくるとは限らないのにこの戦法は不合理
この戦法は、あくまで、騎馬隊が馬防柵の全面で一斉に突撃してくるということを想定して考えられたものです。
そう言う状況であれば、多少疲れようが、できるだけ速射して撃退するという方法は考えられなくはありません。
しかし、本当にそんなことが起こるでしょうか。
もし、あなたが指揮官なら、次のように戦いませんか。
「相手が少数でこちらが圧倒的多数と分かってでもいない限り(現実の設楽原は、織田・徳川軍が武田軍の3倍近くいた)、まず、注意深く敵の戦線に様子を見るための部隊を送り、そこで見つけた敵の陣地の弱そうなところをめがけて、集中的に兵力を投入し、防衛線にほころびを生じさせ、敵陣に突入する。」
もし、武田方がこういう風に攻めてくるとしたら、実際には、「3段撃ち」のような機械的な戦法をとるよりも、兵士一人一人の射撃にまかせる方が合理的です。その方が、敵の兵力集中に対応しやすくなります。
名和弓雄氏は、さらに合理的な方法として、上で少し述べた、「分業3人組弾丸込め法」の存在を指摘されています。
これは、平地ではなく、身を隠す陣地の中で行う射撃方法で、射手以外の3人が、それぞれ、@早盒を使って弾と火薬を込める役、A火皿に着火薬をを盛り盛り火蓋をかぶせる役、B火鋏に火縄を付け射手へ渡す役、と分業するものです。
これだと、4秒か5秒の間隔で射撃ができるそうです。
この方法は、鉄砲に巧みで信長をずいぶん苦しめた紀州雑賀(さいが)の鉄砲衆が用いたことが記録に残っていますが、この設楽原の戦場で使われたかどうかは記録上は確認できません。
C 戦いはどれだけ続いたか、鉄砲はどのくらい発射されたかとの矛盾
鉄砲隊が3段撃ち戦法で騎馬隊をやっつけたという場合、みなさんは、どのくらいの戦闘時間を想定されますか。30分ですか、1時間ですか?そして、その時の鉄砲隊の射撃時間はどのくらいでしょうか?
映画「影武者」では、武田の騎馬隊は、僅か6分で壊滅します。 これは少しオーバーであくまで映画の世界の話でしょうが、それでも、普通の方は、結構短い時間で勝負が付いたと思っておられると思います。
しかし、実際の戦いの時間は、記録によりまちまちですが、短いのは2時間、長く書いている記録では夜明け後の午前6時から午後2時まで、8時間続いたとあります。
その間中、鉄砲を撃ち続けることはありえません。いや、それどころか、現実的には、携行の火薬量から考えて、射撃回数は、うんと少なかったと想像できます。
銃の専門家、岩堂憲人氏の分析です。
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「どのくらいの量の火薬があったのか正確には知るよしもないが、試算は可能である。設楽原の戦いの時間にも諸説あって、短いので2時間、長いのは8時間とされている。ここではその中間をとって4時間と仮定してみる。この4時間に各銃手が何発射ったのかというのは想像するしかない。数発ということはありえないとして、数百では多すぎる感じがする。まず数十発というところであろうか。もちろん平均発射数であるのはいうまでもない。そこで数十発を具体的な数にして、まず50発と考えてみる。4時間の戦闘中20秒ほどで装填し、射撃可能な火縄銃として・記録に残る当日の戦闘状況からこれはかなり低めの数字のつもりである。
当時主用されていた銃は6匁簡(弾丸重量22・5g)で火薬量は約10gだから、1挺の銃が消費した火薬は500gとなり、千挺では500kgつまり半トンである。しかし戦闘の終了と同時に弾薬は射ち尽したわけではないだろうから、そのぶんを加算し750kgの火薬が用意されていた、と考える。設楽原での連合軍の戦線は長いもので約1800mほどであった。ここに750kgの火薬がどのような形にせよ分散して置かれていたのである。一口に750kgというが、その量が大変なものであるのは言をまたない。もし銃手を前後にずらして配置し、射撃するようなことが行なわれたとするなら、前に位置する銃手の火薬容器に火花が落ちて火薬が引火、炎上することは避けられなかったに違いない、と推理するのだがどうであろうか。もちろん記録にはそのような事がおきたことなどは一切記されてはいない。」 |
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岩堂憲人著『世界銃砲史』(国書刊行会 1995年)P212 |
岩堂氏の推定である、全戦闘中の銃1挺に付き、50発という数字は、かなり低めの数字です。しかし、それでも、火薬量は相当なものになります。(氏は、早盒はこの時代には戦闘で大量に使われることはなかったと考えられています。)
ということは、そもそもが、この時代に火縄銃を、今時の機関銃のようにガンガンと撃つということ想定すること自体に無理があるということです。
このほか、もうもうと火薬の煙がただよう戦場(今の銃と違って黒色火薬はひどい白煙がでます)で、一斉に号令によって射撃することなど、通説には非現実的な内容が多く含まれています。 |