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銃砲と歴史2-3 |
銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。 |
長篠の戦い3 戦いの「実像」騎馬隊 05/11/06作成 05/11/13追加記述 |
武田の騎馬隊のイメージ | このページの先頭へ | | ||
長篠・設楽原の戦いの「実像」にせまるページをこれから3回連続で続けます。
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騎馬兵の密集隊形での突入。 |
騎馬兵と歩兵の混合の突入。 |
歩兵中心の突入。騎馬兵は比較的後方で命令。騎馬での突入はない。 |
「こんなことをクイズのように尋ねるのだから、きっと答えは、○ではなくて、○だな」なんていう深読みをしないとすると、まず多くの方は、「騎馬隊の突入」=Aと答えられると思います。 |
本当の騎馬隊とは | このページの先頭へ | |
しかし、実際には、この時の騎馬隊は、Aの密集隊形の部隊ではありません。以下、その理由を簡単に説明します。 |
武士は平安時代後半に誕生した当時から馬に乗る存在でした。平安末期や鎌倉時代の戦いで軍勢を表現する場合、「100騎」とか書かれますが、これは、確かに騎乗の武士100人という意味でしょう。
「それなら」と、あくまで騎馬軍団に固執される方は思われるかもしれません。
武田軍上杉軍とも、騎馬兵の割合は、同じく全体の10%程でした。 |
これで、上のイメージ画のAは、否定しなければならないことが分かっていただけたでしょうか。 |
武田の騎馬軍団の実像を示す次の観点は、騎馬兵となる有力な武士(近代軍隊なら指揮官及び士官クラス)が戦いの時は、どうしていたかです。
フロイスはこの点における日本とヨーロッパの文化の相違に強い興味をもち、別の著書『日本史』の中でも、同じことをふれています。 今度は、和田伊賀守惟政と池田勝政との戦いにおいてです。
まとめると、鎌倉時代は、有力武士といえば、騎馬上にあって弓を射るのが戦いの基本でした。しかし、戦国時代になると、騎馬兵も下馬して戦うことが多くなったのです。 これでは、そもそも騎馬兵そのものが戦場に存在しなくなってしまいます。 つまり、一部の有力者のみが軍の比較的後方から指揮をするという、上の図のCが、事実に近くなりました。 ちなみに、騎馬兵が戦闘で一番活躍する場面は、ひとつは、戦いなかばで、相手陣地にほころびが生じ、それに乗じて一気に蹴散らす場合、そしてもう一つは、相手軍が敗走した際の追撃戦でした。 |
武田の騎馬軍団の実像を語る4つ目の資料は、当時の日本の馬の大きさです。 |
左は、普通のサラブレッド。ただし特に有名な馬というわけではありません。 |
馬の体形を体高という点で比較すると、サラブレッド種やアラブ種の馬が体高150〜160センチ前後もあるのに対して、木曽馬の体高は135センチ前後しかありません。
16世紀に日本へやってきたヨーロッパ人宣教師たちは、この日本の馬の小さなことも記録に残しています。 |
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<補足>競走馬の早さ 【05/11/13 追加記述】 | このページの先頭へ | | |||
馬のことをいろいろ調べましたから、ついでに、補足として馬の早さについて追加します。これは、次のページ以降で、馬防柵に迫る騎馬隊のスピードという観点から必要なデータです。
つまり、競走馬は、4000mの長距離レースでも、なんと平均秒速16mで疾走できるのです。すごいもんです。 |
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