| メニューへ | |  前へ | | 次へ |

銃砲と歴史2-3
 銃砲と歴史について、シリーズで取り上げます。
 
 長篠の戦い3 戦いの「実像」騎馬隊 05/11/06作成 05/11/13追加記述
 武田の騎馬隊のイメージ                           | このページの先頭へ |

 長篠・設楽原の戦いの「実像」にせまるページをこれから3回連続で続けます。

 その1は、「
武田の騎馬隊」の実像です。

 まずはじめに、皆さんに考えていただきます。
 「
織田・徳川の鉄砲隊めがけて攻撃をかける武田の騎馬軍団」といった場合、次に示す、A・B・Cの模式図のどれを想像されますか? 

この図はどこからの引用でもなく私が実力で描きました。これまでも、図や地図を多用して、「わかりやすい」説明を心がけてきたこの「未来航路」ですから、これまた、きばって書きました。他のサイトにはこの図は多分ありません。


 騎馬兵の密集隊形での突入。



 騎馬兵と歩兵の混合の突入。



 歩兵中心の突入。騎馬兵は比較的後方で命令。騎馬での突入はない。


 「こんなことをクイズのように尋ねるのだから、きっと答えは、○ではなくて、○だな」なんていう深読みをしないとすると、まず多くの方は、「騎馬隊の突入」=Aと答えられると思います。 

 
騎馬隊とか騎馬軍団とか言うことばからそのように自分で想像される人も多いでしょうし、私のように、長篠・設楽原の戦いを描いた映画やTVからそのように思い込んでいる方も多いでしょう。
 そして、長篠・設楽原の戦いを描いた映画といえば、やはり、
黒澤明監督の1980年度の作品「影武者」(東宝映画)です。

 ご覧になっていない人のためにちょっとだけストーリーと戦いの場面を解説します。
 武田信玄は、徳川家康を三方原で破った後、三河の野田城を攻略します。ところがここで鉄砲の狙撃を受け、その傷が元で甲斐への帰路に死亡します。その直前信玄は自分の死を3年間秘密にせよと遺言し、そのため、影武者が仕立てられます。
 その存在は3年を経ずして途中でばれてしまいます。そして、それによって正式の跡継ぎとなった武田勝頼は、長篠・設楽原での決戦に臨み、織田・徳川の連合軍の陣へ向けて、武田の誇る騎馬隊を突撃させます。

 これがこの映画のラストシーンで、全編2時間55分の超大作の2時間45分目から突撃のシーンがはじまります。
 3度に渡る突撃は、上の
Aの騎馬隊、いわゆる騎馬兵の密集突撃隊形として描かれています。撮影場所は、それこそ北海道の大平原かなんかで、山も丘も見えない広々としたところを、騎馬隊がまるで競走馬のように激走して、織田・徳川軍へ迫ります。
 次のシーンは、火を噴く織田・徳川軍の鉄砲隊(ちゃんと馬防柵の中にいます)、そして、自らの騎馬隊の悲惨な結末におののく武田勝頼の本陣の様子。

 このあと、映画の2時間51分目から最後までは、戦場に累々と横たわる武田軍の馬と兵隊の映像が続きます。
 なんでも、馬の場合は、麻酔薬をたくさん注射した馬と少なめの馬とわざと違いがあって、少ない馬は、「死にきれず」によろよろしたり、ぴくぴくしたりする馬となっています。
  ※この映画はDVDで発売されていますから、まだご覧になっていない人は、レンタルビデオ屋さんでどうぞ。


 この映画は、まさしく、これを見た多くの日本人に、
騎馬隊=騎馬兵の密集突撃隊形のイメージを形成しました。 


 本当の騎馬隊とは                              | このページの先頭へ |

 しかし、実際には、この時の騎馬隊は、密集隊形の部隊ではありません。以下、その理由を簡単に説明します。


1 武士の中で馬に乗れる人は特別の人 それを集めた騎馬軍団などあり得ない

 武士は平安時代後半に誕生した当時から馬に乗る存在でした。平安末期や鎌倉時代の戦いで軍勢を表現する場合、「100騎」とか書かれますが、これは、確かに騎乗の武士100人という意味でしょう。
 しかし、室町時代半ば以降、足軽という徒歩の兵種が出現し、合戦の人数が何万人にも上る時代となってからは、騎乗の武士の数は、軍勢のうちの何%かになりました。
 馬を1頭養うには大きな経済的な負担がかかり、馬を保有できる人間は、領地をもつなど領主か、その特定の家来に限られます。近代の軍隊で言うなら、指揮官か士官クラスのものしか騎乗できないのが常でした。当然ながら、何万もの軍勢の多数派は、徒歩の兵隊ということになります。

 そして、その特別の存在の騎乗の武士は、鎌倉時代なら、「やあやあ我こそは・・」と名乗りあって戦った、
家名を重んじ個人戦を基本とする存在です。
 戦国時代の戦いは、さすがにもはや、名乗り合うことはありませんでしたが、それでも、個々の有力な武士はやはり一族郎党を引き連れて、
有力者とその家来単位で戦うのが常です。
 彼らを集めて全体の統率のとれた「騎馬軍団」に仕立て上げるというのは、戦国時代の武士の存在を無視することになります。 つまり、後世の発想からはできても、現実には、そう言う軍団の編成はあり得ないのです。
 19世紀以降の近代的な騎馬隊、たとえば、
インディアンと戦ったアメリカ合衆国の騎兵隊のような、一人一人の騎馬兵が、単に部隊の一構成員として参加し、部隊長とか中隊長・小隊長の下で統制されて戦うというのは、戦国時代にも江戸にもありえませんでした。

 
このことを伝える証拠の一つに、ルイス・フロイスの「証言」があります。
 ルイス・フロイスは、高校の教科書にも登場する有名なイエズス会の宣教師です。信長時代から秀吉時代にかけて、彼の後半生の35年間を日本で過ごし、長崎で没しました。彼が残した書物で最も有名なのは、教科書にも載っている
『日本史』ですが、もう一つ面白い本があります。
 
『ヨーロッパ文化と日本文化』といって、そのものズバリ、文化の比較を行ったものです。

 その本に次のように書かれています。

「われわれの間には、曹長、小隊長、十人組隊長、百人組隊長などがある。日本人はいっさいこのようなことを気にかけない。」

ルイス・フロイス著岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫 1991年)P119


2 武田軍団の騎馬兵の比率は他と比べて特別多くはない

 「それなら」と、あくまで騎馬軍団に固執される方は思われるかもしれません。
 「武田軍は、有力武士が率いる一族郎党の中に馬に乗ることができる家来の数が他の戦国大名よりも多く、結果的に、多数の騎馬兵をもった、騎馬軍団である。」
 しかし、これも、事実ではありません。
 たしかに、武田氏の本国甲斐(現在の山梨県)には、古代律令制の時代から、「
」(東国には、律令時代には馬を育てる官営の牧場があり、牧と呼ばれた)が多く、他の地域よりは馬の供給量は多かったかも知れません。

 しかし、現在残っている資料を見る限り、武田軍の騎馬兵の数は他の大名と比較して、そう多くはありませんでした。

所属

戦闘員総数 騎馬兵の数 騎馬兵の割合 資料の出典

武田軍

237 23 9.7% 永禄・天正期の甲斐・信濃の軍役状

上杉軍

5514 566 10.3% 天正3年の軍役帳

※鈴木眞哉著『鉄砲隊と騎馬軍団』(洋泉社 2003年)P92


 武田軍上杉軍とも、騎馬兵の割合は、同じく全体の10%程でした。 


 これで、上のイメージ画のは、否定しなければならないことが分かっていただけたでしょうか。

 それでは、
とでは、どちらが現実に近いでしょうか?
 「
って、では騎馬隊などとは言えないだろう。」と思われるかしれません。
 真相は、こうでした。  


3 戦うときは・・・

 武田の騎馬軍団の実像を示す次の観点は、騎馬兵となる有力な武士(近代軍隊なら指揮官及び士官クラス)が戦いの時は、どうしていたかです。
 上述の
ルイス・フロイスは、これについても興味深い記録を書き残しています。

「われわれの間では、馬で戦う。日本人は戦わなければならない時には、馬から下りる。

ルイス・フロイス著岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫 1991年)P119

このことに関しては、当然、フロイスがいつごろの戦いの様子を伝えたものなのかが問題となります。彼はこれと同じ内容の報告を、イエズス会のインド区長に贈っています。その日付は、1571年10月、つまり長篠・設楽原の戦いの4年前です。
鈴木眞哉著『鉄砲と日本人−「鉄砲神話」が隠してきたこと』(洋泉社 1997年)P185

 つまり、フロイスによれば、戦場の移動の際は騎馬にまたがっていた武士が、戦いの時は馬から下りるというのです。
 フロイスはこの点における日本とヨーロッパの文化の相違に強い興味をもち、別の著書『日本史』の中でも、同じことをふれています。
 今度は、和田伊賀守惟政と池田勝政との戦いにおいてです。

「それ故彼は(敵勢)を、新城から半里ばかりのところまで認めますと、息子とともにやってくる後衛を待つことなく、一同を下馬させ〔交戦の際には徒歩で戦うのが日本の習慣だから 原注〕」

元の出典は、ルイス・フロイス『日本史』第4巻(岩波文庫 1991年)P119

この部分の直接の引用は、坂内誠一著『碧い目の見た日本の馬』(聚林書院 1988年)P116


 これを裏付ける研究として、鎌倉期から戦国期への戦闘形体の変化があります。駒澤大学の講師の近藤好和氏は、次のように戦闘の形体に変化があったと指摘しています。(著書からの要約です。)

鎌倉武士は、基本的には、騎乗から弓矢を射ることを戦いの基本と考えていました。(この戦いの形を弓射騎兵)ところが、室町期から戦国期にはいると、弓射歩兵打物歩兵(うちものほへい、刀をもった歩兵のこと)が増加するとともに、下馬打物(馬から下りて打物を使う)も増加し、基本的に騎馬から歩兵へと戦いの形体が変化する、「戦闘の徒歩化」が起こった。

近藤好和著『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館 2005年)P200〜206

 
 まとめると、鎌倉時代は、有力武士といえば、騎馬上にあって弓を射るのが戦いの基本でした。しかし、戦国時代になると、騎馬兵も下馬して戦うことが多くなったのです。
 これでは、そもそも騎馬兵そのものが戦場に存在しなくなってしまいます。
 つまり、一部の有力者のみが軍の比較的後方から指揮をするという、上の図のが、事実に近くなりました。

 ちなみに、騎馬兵が戦闘で一番活躍する場面は、ひとつは、戦いなかばで、相手陣地にほころびが生じ、それに乗じて一気に蹴散らす場合、そしてもう一つは、相手軍が敗走した際の追撃戦でした。


4 日本の馬は・・・

 武田の騎馬軍団の実像を語る4つ目の資料は、当時の日本の馬の大きさです。
 現在では馬というと、普通はTVや実際の競馬場で見る、サラブレッドやアラブ種の馬を連想します。
 しかし、そう言う現代の馬と、日本の古来からの馬は根本的に異なる点がありました。
 下の2枚の写真は、西洋種の馬と日本の伝統馬です。体形の違いはおわかりになりますね


 左は、普通のサラブレッド。ただし特に有名な馬というわけではありません。
 右は、
日本の伝統馬の一つ木曽馬。いずれも、岐阜市の畜産センターで撮影。(撮影日 05/10/23)


 馬の体形を体高という点で比較すると、サラブレッド種やアラブ種の馬が体高150〜160センチ前後もあるのに対して、木曽馬の体高は135センチ前後しかありません。

 木曽馬のみならず、日本の在来種の馬は、総じて中型、小型馬でした。

 これは実際の発掘調査からも明らかとなっています。次の引用は、鎌倉幕府が滅亡したときに埋葬された鎌倉市材木座の人骨・馬骨の分析結果です。

「昭和28年、東京大学人類学教室が鎌倉市材木座の遺跡を発掘した。この遺跡から元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めで戦没した人々556体とともに、128の馬骨、若干の牛や犬の骨が発見された。林田重幸・小内忠平両氏は、脛骨・中手骨などから、材木座の馬の体高は109〜140センチ、平均129センチであると推定している。この事実からも、鎌倉時代末期の馬は、現存する在来中型馬とほぼ同じ体型であったとみてよい。鎌倉時代における小さな馬は、現在の与那国馬やトカラ馬と同じだが、大部分の馬は木曽馬・土産馬・蒙古馬などの大きさで、戦記物に出てくる四尺七寸(142センチ)にも及ぶ大きな馬は1頭もなかった。源義経など坂東武者たちは、足の短い馬にまたがり、合戦に参加したのである。」

市川健夫著『日本の馬と牛』(東京書籍 1981年)P22

 16世紀に日本へやってきたヨーロッパ人宣教師たちは、この日本の馬の小さなことも記録に残しています。 

 
 馬の体高とは、頸(くび)の付け根にある第6〜7胸椎(きょうつい)の一番高い所(この部分を
き甲とも言います。横から見た場合は、肩胛骨の少し上の部分です。)から地面までの垂線の長さです。(写真の赤い線の長さ) この体高は、馬が首を下げても変わりありません。 


「「われわれの馬はきわめて美しい。日本のものはそれに比べてはるかに劣っている。」(フロイス)、「エスパーニャの乗用馬よりも荷馬に似ていながら」(ロドリーゲス)」

坂内誠一著『碧い目の見た日本の馬』(聚林書院 1988年)P12

 このように日本の馬が小さかったことが、どのような結論につながるのでしょうか。 

「中世の馬の状態がどのようであったかを、NHKが「歴史への招待」のテレビ番組で実験していたが、それによると、実験馬として、鎌倉時代の馬と同じような体高130センチメートル、体重350キログラムの馬を使い、鎧、冑、鞍の重量として45キログラムの砂袋と、体重50キログラムの人間の合計95キログラムを乗せて走らせた。
 大学の馬術部員の話では、歩調が重く鈍くなり、駈歩をしていたのに、すぐ速歩に落ちてしまったという。
 普通、駈歩は、分速約300メートルの速さであるが、実験馬は、分速150メートルに達していなかった。そして、乗馬してから十分で馬は大きく首を振り、やっと走っているという状態で実験を終了している。たった十分問である。
 よって、当時の合戦の実情が推測できよう。決してテレビや映画の時代物のように、勇壮に駆け続けるわけにはいかないのである。軍隊でも、駈歩は約500メートルぐらいで、直ぐ速歩に速度を落としていた。今日、小柄な騎手を乗せた大形の競走馬でも、全力疾走できるのは200〜300メートルといわれている(若野章『日本の競馬』)。そこで長距離レースでは、騎手はどこで力を出させるかに苦心し、レースの駆け引きをするのである。」

坂内誠一前掲著 P118

 
 つまり、重い鎧を着た武士を乗せた日本の小柄の馬は、映画「影武者」の中の騎馬隊の馬の様に、長い距離を疾走して突撃することなどできないということです。
 
 以上、騎馬隊の「実像」をいろいろな点から検証してきました。
 結論をもう一度繰り返します。
 長篠の戦いの武田の騎馬隊の戦場での実像は、少なくとも、イメージ図Aのような騎馬兵の密集突撃隊形ではありませんでした。
 
実際には、イメージ図B、もしくは、多くの武士が下馬戦闘をしていたとしたら、イメージ図Cのような「騎馬隊」だったのです。
 そう思い直して、もう一度、「長篠合戦図屏風」を見ると、これまで見えなかったことが見えてきます。
 「屏風」全体の写真はなかなか見ることはできませんから、よく教科書などに載っている、連吾川をはさんで右に武田軍、左に馬防柵と織田徳川方の鉄砲隊が描かれている部分(屏風の真ん中の部分です)のみを分析してみましょう。

長篠合戦図屏風の本物を掲載するわけにはいきませんので、他のサイトを参照してください。
徳川美術館のサイトです。トップはこちら。「長篠合戦図屏風」はこちら。

この「屏風」は徳川家康の9男義直を藩祖とする尾張徳川家に伝わったもので、縦159.5センチ、横379.8センチの六曲屏風です。尾張徳川家の家老であった成瀬家に所蔵されていた江戸前期の同様の屏風を、江戸中期以降に写したものとされています。
最初の屏風の作者、模写した人物は不明です。

 馬と人間の数は以下の表のようになります。
 

描かれている人物総数

鉄砲保持者 騎馬兵(馬) 徒歩兵

武田軍

56  0 48

織田・徳川軍

41 19 16

 もちろん、屏風絵はあくまで絵ですから事実をそのまま描いているわけではないでしょう。しかし、描き手は、ある程度は戦国時代的な常識があった人物でしょうから、まったくの嘘と言うよりは、事実をかなり反映したものと考えるのが妥当でしょう。
 
屏風の中には、騎馬の集団などどこにも描かれていません。全体として、イメージ図Bの展開となっています。


 <補足>競走馬の早さ 【05/11/13 追加記述】            | このページの先頭へ |

 馬のことをいろいろ調べましたから、ついでに、補足として馬の早さについて追加します。これは、次のページ以降で、馬防柵に迫る騎馬隊のスピードという観点から必要なデータです。  

<20世紀後半の50年間の中央競馬の優勝タイムの分析から得られたデータ>

  • サラブレッドの競走馬は、1000m〜2000mの短距離レースでは、秒速17m〜18mのスピードは出すことができる。

  • また、3000m〜4000mの長距離となっても、短距離とそれほど変わることはなく、秒速16m前後のスピードを出すことができる。

林良博・佐藤英明編近藤誠二著『アニマルサイエンス@ ウマの動物学』(東京大学出版会 2001年)P109

 つまり、競走馬は、4000mの長距離レースでも、なんと平均秒速16mで疾走できるのです。すごいもんです。
 もちろん、これは、体重の軽い騎手一人が乗ったときのスピードですから、上の堀内誠一さん書物の引用にあるように、何10kgもある鎧・装備をつけたら、このスピードは無理でしょう。
 したがって、長篠合戦時に、もし、騎馬隊が馬防柵に向かって突進したとして、その速度は、
早くて秒速10m程度と推定できるのではないでしょうか。 


| メニューへ | |  前へ | | 次へ |