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各地の鉄道あれこれ24
 全国各地の鉄道の話題あれこれについて紹介します。

 東京駅から一番近いトンネルその4 東海道新幹線13/06/16

 おっと忘れていました 東海道新幹線のトンネル1 日吉トンネル 矢上トンネル 

 東京駅から一番近いトンネルを、在来線で確認してきました。
 近いトンネルは順に、第1位
中央線御所トンネル(東京駅から6km820m)、第2位京浜東北線田端トンネル(同7km476m)、山手貨物線中里トンネル(同18km400m、このトンネルの距離は複雑ですが一番短い距離を使っています)です。
 ところが、これとは別に新幹線のトンネルランキングが存在します。東海新幹線には、東京駅からそれほど遠くないところに、トンネルがあるのです。
 
 このページでは、まずは、そのうちの東京駅からの距離第2位と第3位のトンネルを紹介します。二つのトンネルは
慶應義塾大学のキャンパスの「下」にあります。


 日吉トンネル・矢上トンネル 慶応義塾大学のキャンパス下のトンネル

 慶應義塾大学といえば、東京港区三田の校舎が有名ですが、神奈川県横浜市にも日吉キャンパス矢上キャンパスがあります。住所は横浜市港北区日吉です。
 両キャンパスは小高い丘の上にあり、実はその丘を、新幹線が通り抜けています。
 そのトンネル、東京駅から近い順に、
矢上トンネル日吉トンネルが、東海道新幹線のトンネルとして、東京駅から2番目、3番目に近いトンネルです。二つは連続して存在していますが、そのうち第2位の矢上トンネルの東京よりの入り口は、東京駅から19km067mです。
  ※正確には、この距離はトンネルの入り口の位置ではなく、手前の矢上橋梁のトンネルよりの橋桁の位置です。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、慶應義塾大学日吉キャンパス周辺の地図です。
 中央斜めに東海道新幹線が横切っています。上(北側)が東京駅からの距離第2位の
矢上トンネル、下(南側)が第3位の日吉トンネルです。左(西)よりの日吉駅は、東京急行電鉄(東急)東横線の日吉駅です。
 慶應義塾大学のキャンパスは、東急日吉駅の西側にも広がっています。日吉は、慶應義塾の町です。
両トンネルへのアクセスは、東急日吉駅からか、またはちょっと遠いですが、
JR横須賀線新川崎駅からとなります。私は、2012年の取材の時は東京から新川崎駅経由で、2013年の取材の時は横浜から日吉駅経由で向かいました。このページの取材は2年越しです。(-.-)


 写真24-01 横浜ランドマークタワーから見た横浜市東北部方面   (撮影日 07/06/13)

 中央最も遠景の高層ビルが新宿の都庁などの高層ビル群です。その手前の数棟の高層ビルは、東急東横線沿線の武蔵小杉のビル群です。
 その手前に横たわっている緑の部分が、日吉丘陵・矢上丘陵です。
 日吉までは、横浜駅から東急東横線の通勤特急で15分です。なお、東急東横線は、渋谷駅で東京メトロ副都心線と直通運転することになりましたから(2013年3月から)、この電車にそのまま乗って行けば、横浜から1時間10分で埼玉県和光市まで到着できます。 


 写真24-02 東横線日吉駅(撮影日 12/07/06)

 写真24-03 日吉駅構内(撮影日 13/05/29)

 朝のラッシュ・アワーでは当然、学生の乗降客でごった返します。痴漢の間違われそうでした。
 右のオブジェは、「虚球自像」という、鉄の球です。その向こうに、慶應義塾日吉キャンパスへ登る銀杏並木が続いています。


 写真24-04 二つの丘陵です。左:日吉丘陵、右:矢上丘陵。東側からの撮影 (撮影日 13/05/29)

 この写真は、両丘陵とJR横須賀線新川崎駅の中間にある、夢見ケ崎動物公園の丘陵上からの撮影です。
 写真、右が東京方面です。緑がつながっているように見えますが、右の
矢上丘陵は、より規模が小さく、丘陵手前の白い建物(矢上小学校)とその隣のゴルフ練習場(白い檻)の部分がそれに当たります。檻の左手が両丘陵の切れ目です。


 写真24-05 左上 (撮影日 13/05/29)
 矢上トンネルに入る大阪方面行き新幹線。夢見ヶ崎動物公園から撮影。

 写真24-06・07 下左・下右 (撮影日 12/07/06)
 矢上丘陵の麓を半周する矢上川(丘陵の南で鶴見川に合流します)から撮影した、矢上トンネルの東入口。
 右下の写真の橋梁の桁の場所を示す数字が、橋桁に書き込まれていて、その数字が東京駅から19km067mです。
 


 写真24-08 上左 (撮影日 13/05/29)
 日吉トンネルに入る下り新幹線。夢見ケ崎動物公園から撮影。

 写真24-09・10 下左・下右(撮影日 13/05/29)
 左:日吉トンネルに入る下り新幹線。
 右:日吉トンネルから出る上り新幹線。入り口の壁に、トンネルの名前「日吉」の文字を見ることができます。
 いずれも、矢上トンネル西にある慶應義塾大学矢上キャンパスへ登る坂からの撮影です。
 


 慶應義塾大学日吉キャンパスの新しいトンネルと古いトンネル

 このまでは単なる新幹線トンネルの紹介に終わってしまいます。このサイトらしい、「お勉強」をしなければなりません。
 そこで、黒板クイズです。 


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 写真24-11 夢見ケ崎動物公園から撮影した日吉丘陵     (撮影日 13/05/29)

 丘陵左手の高い防球ネットが設置されている場所には、野球場(北東側)とアメリカンフットボール場(南西側)があります。そのうちの、アメリカンフットボール場の下を新幹線の日吉トンネルが通っています。
 そのトンネルは、1944(昭和19)年に海軍が建設した地下壕のトンネルの一部を横切っています。


 慶應義塾大学にあった海軍の地下壕

 参考文献によれば、1944(昭和19)年の3月から、帝国海軍の組織の慶應義塾大学日吉校舎への移転がはじまります。最初は、海軍軍令部第3部の第一校舎への移転でした。最初は校舎を借用しただけでしたが、7月からは第一校舎西側にコンクリート製の待避壕の建設がはじまりました。
 
連合艦隊司令部に関しては、まず1944年の9月29日に、寄宿舎等の地上の移設を利用して、豊田副武司令長官以下の幕僚が移動してきました。その後、7月から建設していた地下壕が11月頃には完成し、地下司令部が本格的に稼働しました。1945年8月の敗戦直前には、司令部要員1,000人が勤務していたとのことです。

 ところで、そもそも、
連合艦隊司令部というのは、映画『山本五十六』でも有名なように、司令長官が戦艦などに軍艦にいて、そこに存在しているものというイメージがあります。それがなぜ慶應義塾大学の日吉校舎なのでしょうか?まずはその説明です。
 本来
連合艦隊司令部は、司令長官山本五十六がそうであったように、司令長官が直率する第一戦隊の旗艦におかれるものでした。開戦時は、戦艦長門、それ以降、戦艦大和、戦艦武蔵と連合艦隊司令長官は座乗していました。
 これは日本海軍の日露戦争の日本海開戦以来の伝統、「指揮官先頭、率先垂範」を具現化するものでした。
 しかし、たとえばミッドウエイ海戦の時がそうであったように、長官が艦隊決戦の具体的局面で指揮を執るというのはもはやあり得ない状況となってきました。それよりも、広域なエリアの戦局全体についての指揮の方が重要視されるようになりました。また、戦艦大和・武蔵といった軍艦としても重要な戦力が、ただ司令部機能のために(司令長官を乗せるために)、後方に位置しなければならないことにも矛盾が出てきました。ガダルカナル島をはじめとするソロモン海での決戦が展開されている時、戦艦大和は後方のトラック島にいて、その快適な居住環境から、「大和ホテル」と揶揄されていました。

 このため、1944年5月、連合艦隊は司令部をそれまでの戦艦武蔵から、軽巡洋艦大淀に移します。この艦は、もともと潜水艦隊の旗艦として水上偵察機を多数装備する艦でしたが、その部分を改装して通信施設等の司令部機能を加え、いわば連合艦隊司令部機能専用の巡洋艦となったわけです。大淀は千葉木更津沖に単艦(艦隊を組まず護衛艦も無し)で停泊して司令部となりました。ただし、1944年5月末からは、想起されていたマリアナ沖海戦の指揮を執るため、より通信状況がよいところということから、広島の柱島泊地に移動しました。
 しかし、よく考えれば、そこまでして「司令部は艦上」という理念にこだわる必要はなく、また各地での敗戦による軍艦不足もあって、連合艦隊司令部の陸上移転が進められことになったわけです。その候補地が日吉だったというわけです。

 連合艦隊は、丘陵の最南端にある慶應義塾の学生寄宿舎を通常の地上の司令部とし、空襲が激しくなってからは、地下壕に移動して命令を発するようになりました。
 1944年9月末から日吉に司令部が置かれたということは、それ以降に起こった台湾沖航空戦・レイテ沖海戦・沖縄戦(大和の出撃も含む)などは、すべてこの地の司令部から命令が発せられたことになります。 


 慶應義塾大学日吉校舎の周辺には、大きく分けて4つの地下壕(トンネル)が掘られました。連合艦隊司令部は同じトンネルで軍令部第三部等の地下壕とつながっていましたが、これは、1964年開通の東海道新幹線のトンネルのために、寸断されました。
 長さ(総延長)の点では、東急東横線の西側にある艦政本部地下壕の方が規模が大きくなっています。

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 ここまでくると、このページの次に連合艦隊司令部地下壕の「探検記」が続くのがこれまでのこのサイトの常識です。
 しかし、残念ながら、未だ探検は実施していません。そう簡単にいつでも見学できる施設ではないからです。

 この地下壕は一般公開されておらず、慶應義塾大学はその世話をしていません。見学は、慶應義塾大学の許可を得た民間団体「
日吉台地下壕保存の会」が、定期的に月1回の見学会を実施しています。
 ※日吉台地下壕保存の会 045-562-0443 http://hiyoshidai-chikagou.net/
 
 うまく日があわないと、なかなか訪問できません。出張の際の「早朝探検」ではとても無理です。またの機会にしましょう。
 というわけで、、今回は中途半端なレポートで終わりです。あしからず。 


 【東京駅に近いトンネルその4 東海道新幹線 日吉・矢上 参考文献一覧】
  このページ24の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

白井厚監修日吉台地下壕保存の会編
『学び・調べ考えよう フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕』(平和文化 2006年)

山田朗監修日吉台地下壕保存の会編
『一度は訪ねてみたい戦争遺跡 本土決戦の虚像と実像』(高文研 2011年)


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