青木橋の上から撮影した本覚寺です。(撮影日 07/06/13)
青木橋の下をJR各線や京浜東北線が走っています。写真に映っているたくさんの車が信号待ちをしている道は、第二京浜国道すなわち国道1号線です。
本覚寺は当時アメリカ領事館が置かれており、そこで、クラークとマーシャルはヘボン博士の手当を受けました。
また脱線ですが、ヘボン博士について説明します。
高校の日本史の教科書には次のように説明されています。「幕末の文化」の所です。
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「このほか、開港場の横浜には外国人宣教師や新聞記者が来日し、彼らを通して欧米文化が紹介された。その宣教師のなかには、アメリカ人ヘボンのように診療所や英学塾をひらき、積極的に西洋文化を日本人に伝えるものもあらわれた。こうして攘夷の考えはしだいに改められ、むしろ欧米にみならって近代化を進めるべきだという声が強まっていった。」
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石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P237
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アメリカ人ヘボン博士は、かのヘボン式ローマ字表記の発明者として名を残していますが、本来は、宣教師であり医者です。
彼は1815年アメリカのペンシルバニア州で生まれています。ヘボンは日本的な発音で、本来なら、ヘップバーンと表記すべきです。あのキャサリン・ヘップバーンや、オードリ・ヘップバーンと同じ名字です。(といっても、年代の若い方には通じませんが・・・。(--;))
ペンシルバニア大学で医学博士の学位を取得した後、妻クララと結婚し、プロテスタントの「宣教医」として、夫妻で東アジアに伝道を行うことを決意します。
1840年代にシンガポール、マカオに5年間ほど滞在したのち、一度帰国してニューヨークで病院を経営し名声を得ました。しかし、ぺリーが帰国後に出版した『日本遠征記』に魅了され、日本への伝道を決意し、病院や財産を売り払って活動費とし、1859年4月にアメリカを船出します。横浜到着は同年10月です。
早速神奈川宿の寺を借りて宣教師としての活動や医療活動を行いました。宣教師としての活動は、江戸幕府のキリシタン禁令が出ていた当時においては危険を伴うものでした。しかし、ヘボンは、医療活動を通じて、しだいに民衆の支持を獲得していきました。
リチャードソンが斬られた時点では、神奈川奉行によって医療活動は停止中でしたが、非常時において神奈川で頼れる医者は彼の他にはなく、請われて犠牲者の診療にと、アメリカ領事館のある本覚寺に来たのでした。
のちにヘボン博士は、本国への書館に次のように書いています。
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「頻繁に起こる外国人殺害と、それから生ずる焦燥とが、こうした感情を起こさせたことは言うまでもありません。薩摩藩主自身の命令で一イギリス紳士を殺害したあの最も野蛮な、原因不明の殺傷事件は今までの事件に比べて、とてもごまかすことができない難しい事件なのです。」
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村上文昭著『ヘボン物語 明治文化の中のヘボン像』(教文館 2003年)P207
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博士は、このあと、1862年の12月に横浜で塾をはじめます。これがのちの明治学院大学につながっていきます。
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