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街道を歩く8
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件5 リチャードソン殺害その2  07/09/02作成 

 B地点 リチャードソン死亡現場                          | このページの先頭へ |

  現在のリチャードソン死亡現場には、事件を顕彰する石碑が建てられ、顕彰会によって守られています。この石碑は、1883(明治16)年に初めて建立されたもので、碑文は、『西国立志編』で名高い中村敬宇(正直)によるものです。

 

 
 キリンビール工場正門少し西からのB地点遠望。
 赤い車のいるところを右折すると国道15号線と合流。
 顕彰碑は、赤い車の後方の細い道(これは実は国道15号線の歩道)に面したところにあります。
(撮影日 07/05/23)

 


 旧東海道が国道15号線と合流する所に、顕彰碑があります。
 写真左の白い垣根の部分です。

 この日も、近くの方でしょうか、年配の方が掃除をされていました。ご近所に見守られている顕彰碑です。

 国道上の青いガードは、横浜港へ向かうJRの貨物線です。
(撮影日 07/05/23)

 


 国道15号線の北側から顕彰碑のある場所を撮影しています。

 中華料理屋さんの隣の白い垣根の部分です。
(撮影日 07/05/23)

 

 上の写真左は、顕彰碑の東半分、右の写真は西半分です。(撮影日 07/05/23)

 

 上右の説明板のアップです。ここにも、「行列を横切ろうとしたイギリス人」と表現されています。

 

 

 石碑本体です。
 碑文には下のように書かれています。

 

 碑文を訳してみましょう。

「 文久2年壬戌8月21日英国人
リチャードソン(原文では力査遜)は命をここに落とす。すなわち、鶴見の人である黒川荘三の所有地であった。荘三は私にそのことを文章にすることを願い出た。よってそれがために歌つくった。
 歌に曰く、

君は(リチャードソンのこと)、この海辺のあたりに流血した。我が国の変化は将にこの事件に源がある。西南雄藩が決起して皇室の威光もまたさかんになった。また新しいことに民権というのも勃興している。君の殺された騒擾事件は誰が知っているだろうか。すべての国には歴史として伝えるべきことがあり、君の名こそ伝えるべきものである。我今歌を作って石碑に刻む。君は君の死の意味が顕彰されていることを思って、黄泉の国(原文では
九原)で安心して笑っていておくれ。」

ってな感じでしょうか。

 
4人の状況                                        | このページの先頭へ |

  ここで、死亡が確定したリチャードソンも含めて、災難にあったイギリス人4人がどうなったか、まとめておきます。
 
 落馬したリチャードソンを残して彼の馬だけを引いて先に進んだ
マーシャルは、先行していたクラークマーガレットに追いつきます。
 クラークが出血によって意識朦朧となっているのを感じたマーシャルは、自身は宮之下河岸の船着き場に向かい、2人には、東海道をそのまま進んで近くにあるアメリカ領事館(現在の青木橋の北、本覚寺にありました)に行くように命じました。

 マーシャルは、船着き場に待たせていた使用人に対し、馬で横浜に急行し、この惨事を知らせるように命じ、それがすむと自身もクラークマーガレットの後を追ってアメリカ領事館に向かいました。

 先にアメリカ領事館に向かったマーガレットでしたが、クラークが今にも落馬しそうなのを見て不安を感じ、クラークと別れて海岸沿いに横浜まで馬で疾駆することを決意しました。
 結果的に、マーガレットマーシャルが命じた使用人の馬が相前後して横浜居留地に到着し、彼らが生麦事件の様子を横浜の外国人に知らせることになります。

 出血で意識朦朧だったクラークは何とかアメリカ領事館に到着し、遅れてマーシャルもやって来ました。
 彼らはここでこれまた教科書にも登場する有名な外国人
ヘボン医師の診察を受けます。

 深手ではあるものの、命には別状がないとの判断から、彼らは知らせを聞いて救援にやってきたイギリス人同胞によって、しばらく数時間してから舟で宮之下河岸から横浜に運ばれました。
 横浜到着は夜の8時頃と推定されています。


 
 Aの事件発生地点から宮之下河岸までは、およそ5kmあります。
 宮之下河岸からアメリカ領事館までは、歩いて3分の至近距離です。 
 マーガレットは宮之下河岸から馬で陸路大回りして横浜へ向かいました。

 

 横浜ランドマークタワーから見た生麦事件関係地域。(撮影日 07/06/15)
 事件現場の
生麦は右遠方、宮之下河岸本覚寺(アメリカ領事館)までは、およそ5kmあります。

  

 青木橋の上から撮影した本覚寺です。(撮影日 07/06/13)
 青木橋の下をJR各線や京浜東北線が走っています。写真に映っているたくさんの車が信号待ちをしている道は、第二京浜国道すなわち国道1号線です。

青木橋と本覚時については、街道を歩く11「神奈川宿と横浜1」で説明します。

 本覚寺は当時アメリカ領事館が置かれており、そこで、クラークとマーシャルはヘボン博士の手当を受けました。
 また脱線ですが、ヘボン博士について説明します。
 高校の日本史の教科書には次のように説明されています。「幕末の文化」の所です。

「このほか、開港場の横浜には外国人宣教師や新聞記者が来日し、彼らを通して欧米文化が紹介された。その宣教師のなかには、アメリカ人ヘボンのように診療所や英学塾をひらき、積極的に西洋文化を日本人に伝えるものもあらわれた。こうして攘夷の考えはしだいに改められ、むしろ欧米にみならって近代化を進めるべきだという声が強まっていった。」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史』(山川出版 2004年)P237

 アメリカ人ヘボン博士は、かのヘボン式ローマ字表記の発明者として名を残していますが、本来は、宣教師であり医者です。
 彼は1815年アメリカのペンシルバニア州で生まれています。ヘボンは日本的な発音で、本来なら、ヘップバーンと表記すべきです。あのキャサリン・ヘップバーンや、オードリ・ヘップバーンと同じ名字です。(といっても、年代の若い方には通じませんが・・・。(--;))
 
 ペンシルバニア大学で医学博士の学位を取得した後、妻クララと結婚し、プロテスタントの「宣教医」として、夫妻で東アジアに伝道を行うことを決意します。
 1840年代にシンガポール、マカオに5年間ほど滞在したのち、一度帰国してニューヨークで病院を経営し名声を得ました。しかし、ぺリーが帰国後に出版した『日本遠征記』に魅了され、日本への伝道を決意し、病院や財産を売り払って活動費とし、1859年4月にアメリカを船出します。横浜到着は同年10月です。

 早速神奈川宿の寺を借りて宣教師としての活動や医療活動を行いました。宣教師としての活動は、江戸幕府のキリシタン禁令が出ていた当時においては危険を伴うものでした。しかし、ヘボンは、医療活動を通じて、しだいに民衆の支持を獲得していきました。
 リチャードソンが斬られた時点では、神奈川奉行によって医療活動は停止中でしたが、非常時において神奈川で頼れる医者は彼の他にはなく、請われて犠牲者の診療にと、アメリカ領事館のある本覚寺に来たのでした。 

 のちにヘボン博士は、本国への書館に次のように書いています。

「頻繁に起こる外国人殺害と、それから生ずる焦燥とが、こうした感情を起こさせたことは言うまでもありません。薩摩藩主自身の命令で一イギリス紳士を殺害したあの最も野蛮な、原因不明の殺傷事件は今までの事件に比べて、とてもごまかすことができない難しい事件なのです。」

村上文昭著『ヘボン物語 明治文化の中のヘボン像』(教文館 2003年)P207

 
 博士は、このあと、1862年の12月に横浜で塾をはじめます。これがのちの明治学院大学につながっていきます。

杉田幸子著『ヘボン博士の愛した日本』(いのちのことば社フォレストブックス 1999年)P30−52

彼が創設した明治学院大学のHP 「明治学院大学の歴史と現在」http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/history.html

  

 4人の状況をまとめてみましょう。

氏      名

被害

事件時年齢

生没年

死亡場所

チャールス・レノックス・リチャードソン

死亡

29歳

1833−1862

生麦

 薩摩藩士海江田武次によってとどめを刺され、遺体は街道脇の河原に放置されていました。
 
イギリス代理公使ニール(「街道を歩く その9」で詳述)は、薩摩藩士や幕府役人との衝突を恐れて横浜にあったイギリス軍警備兵の出動を控えました。
 しかし、
イギリス領事のヴァイスは警備兵の一部を率いて東海道へ向かい、民間人と協力してリチャードソンの遺体を回収し、宮之岸船着き場から舟で横浜に運びました。
 その日のうちに検死が行われ、事件翌日の9月15日(太陽暦)午後4時に葬式が営まれました。横浜の外国人居留民ほぼ全員が出席したといわれています。

 遺体は、
横浜の外人墓地に土葬され、現在もそのまま眠っています。(墓の説明はこちらです。→)


ウィリアム・マーシャル

重傷

35歳

1827−1873

横浜

 横腹と背中に深い傷を受け、重傷でしたが、命には別状ありませんでした。
 自力で神奈川宿の中央やや西にあるアメリカ領事館(現在の青木橋の北、本覚寺にあった)にたどり着きました。
 そこで、1859年に来日し神奈川宿で医療活動を行っていたヘボン博士の治療を受けました。
 夜になってクラークと一緒に舟で横浜に運ばれました。
 その後も横浜で商業活動に従事し、1872年の鉄道開業時には横浜在留外国人の古参として、天皇名前で祝辞を述べています。
 横浜で没し、外人墓地に埋葬されました。その墓碑は、現在は、リチャードソンの墓のそばにあります。
 


ウッドソープ・チャールス・クラーク

重傷

28歳

1834−1867

横浜

 左の上腕を骨に届く深く斬られ、出血が激しく重傷でしたが、最初ににアメリカ領事館にたどり着きました。マーシャルと同じくヘボン博士の治療を受け、夜になって舟で横浜へ運ばれました。 
 これまたマーシャルと同じく横浜に滞在し、事件から5年後に横浜で亡くなっています。現在、墓碑はリチャードソンの墓のそばにあります。


マーガレット・ワトソン・ボラデイル夫人

軽傷

28歳

1834−1870

ロンドン

 事件でのケガはほとんどなく髪を切られかすり傷を負った程度でした。しかし、事件の精神的後遺症に悩み、翌年本国へ帰国。
 事件から8年後、ロンドンで子どもを生み、その直後に死亡しました。


以上、4人のその後については、おもに、以下の参考文献によりました。

宮澤眞一著『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン−』(新潮選書 1997年)当時の資料を丹念にたどって、死亡したリチャードソン氏の視点から事件を再現した著書です。




 リチャードソンの墓は、建立当時のまま、横浜外人墓地にあります。
 本来外人墓地は山の手から入るのですが、彼の墓は、墓地の裏口に近い丘の麓、元町側(元町パセオのすぐ裏)にあります。ただし、墓がある地域は現在は、一般の人が立ち入れない区域になっています。

 では、どうやって上の写真を撮ったのかというと、実は、墓は、道路から7〜8mの至近距離にあり、しかもありがたいことに道路との仕切は塀ではなくフェンスとなっています。このため、フェンスの上部から少しズームすれば撮影が可能なのです。ありがたい配慮です。

 野良ネコは偶然の産物です。別にこの墓の墓守ではありません。
 ネコの背後の石にリチャードソンの墓碑銘が刻まれています。

 碑文は右のようになっています。(墓のそばまで行って実際に見たかったのですが、近寄ることはできませんので、他書からの引用です。)

墓碑銘は、生麦事件碑顕彰会編『生麦事件』(横浜市教育委員会文化財課 2002年)P12 によりました。

 上の写真の、向かって、左はマーシャル、右はクラークの墓碑です。しかし、これらはまだ最近作られたもののようです。
 どういう事情でリチャードソン他3人の墓がここにまとまっているのかについては、詳しい事情はまだ調べていません。


Sacred

to the memory of

C.L.Richardson

Late of Shbghai

Aged  28 years

who was

cruelly assassinated

by Japanese

on the Tokaido

near Kanagawa

September 14 1862


  
イギリスの対応                                         | このページの先頭へ |

 さてさて、これで、本来の「街道を歩く 生麦事件」は終わりです。

 しかし、中村正直先生の生麦事件碑文には「
我が国の変化の源はこの事件にある」とありますし、また、上の写真のリチャードソンの墓にも、「近代国家成立の発端となった生麦事件」とあります。

 したがって、せっかくですから、
イギリスの対応、薩英戦争、薩摩藩の変身と、また次のページで教科書の説明につながるまとめをやって、終わりにします。


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