| 未来航路Topへ | | メニューへ | |  前へ | | 次へ |

街道を歩く2
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 もちろん最初は「お江戸日本橋」その2 07/07/26作成 07/07/31修正
 明治時代の日本橋                                  | このページの先頭へ |

 明治時代の日本橋です。
 木製の橋で、一応車道と歩道を分ける柵が設けられています。
 橋を渡った所を走っているのは電車ではなく、馬にひかれた「馬車鉄道」です。


 この写真は、「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。
 上記データベースの説明はこちらです。


 現在の日本橋その1                                 | このページの先頭へ |

 現在の日本橋は、1911(明治44)年に完成し、4月3日に渡り初めが行われました。花崗岩製の2連アーチ作りの橋で、竣工まで2年3か月もかかっています。それまでの木橋は、火事や地震などのたびたびの災害に遭い、何度も掛け替えられました。この橋は、1603年にかけられた初代日本橋から数えて19代目です。

 しかし、この橋は、関東大震災や太平洋戦争の空襲にも大きな被害を受けることなく生き残りました。1999年には国の重要文化財に指定されています。あと4年で、架橋100年を迎えます。その時は、きっと盛大な記念式典があるに違いありません。


 現在の橋の渡り初め式は、1911(明治44)年4月3日に行われました。長さ50mの花崗岩製です。
 上の写真は、当時の写真はがきからの複写です。
 真ん中のスタンプは、「
日本橋開通式 記念 44.4−3」とあります。スタンプが偽造でなければ、なかなか由緒あるスタンプ印付ということになります。(^_^)

 橋上の街灯の装飾には、中国の伝説上の動物、獅子(手前)と麒麟(中央)がデザインされました。製作者は、明治時代の建築界を牛耳っていた3大物の一人、妻木頼黄(つまきよりなか)です。(ちなみにあとの2人は、辰野金吾、片山東熊です。)
 


 現在の日本橋の様子は、橋そのものは昔と同じですが、「風景」は、上の写真の姿でないことは、ご存じの通りです。

 1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催に合わせて、東京の高速道路網が整備された際、日本橋川の上に首都高速道路が架けられ、日本橋は、「橋の下の橋」となってしまいました。 
 


 
 現在の日本橋です。南側からの撮影です。(撮影日 07/05/25)



  雨の日本橋。
 江戸橋川(下流)側からの撮影。
(撮影日 07/05/25)


 

 1944年の東京駅、日本橋周辺航空写真。

 水路と河は基本的には江戸時代のおもむきを残しています。
外堀川、京橋川、楓川、八丁堀などの水路は、戦後高度経済成長期に次々に埋め立てられていきます。
(この写真の方位は、上が西、右が北です。)




 

上と同じ地域の現在の写真です。
 日本橋川の上には首都高速道路が走っています。黄色の点線は、首都高速道路の路線です。
 日本橋川の川面は上空からは見えません。
 また、外堀川・京橋川・楓川・八丁堀は埋め立てられました。


 現在の日本橋その2                                 | このページの先頭へ |

 現在の日本橋の袂には、多くの記念物が残されています。
 日本橋の周りをいろいろ撮影してみました。


 

 南西の袂から首都高速道路の橋梁側面に掲げられた「日本橋」の標識を撮影。
 獅子のデザインの街灯形状がよく分かります。
(撮影日 07/06/14)



 上流(南西の袂)から見た日本橋。
 首都高速道路の下面は、橋中央の麒麟の装飾電灯より低くなっており、高速道路の上下線の間にかろうじてその存在を許されています。
(撮影日 07/06/14)


 

 橋の南西袂は、かつての、江戸時代の高札場でした。
 現在は、その説明と浮世絵の銅版レリーフが埋められています。(撮影日 07/06/14)


 高札場の説明です。


 江戸時代の浮世絵のレリーフです。右上には富士山が描かれています。昔の浮世絵には、日本橋とともに必ず富士山が描かれています。富士山は本当に見えたのでしょうか?
 現在では、もちろん、ビルの谷間の日本橋からは富士山など見えるはずがありません。


 そこで、3Dソフトカシミールを使ってシミュレーションしてみました。
 5万分の1の地図の日本橋の地点、標高3m(橋の上からという設定です)からカメラの仰角0度で撮影すると・・・。

 ちゃんと富士山が見えました。本当に見ることができたのです。

 
 下の写真は、代々木オリンピックセンターの4階から撮影した富士山です。(撮影日07/06/15)


 
 日本橋の東北の袂には、「
日本橋魚市場の発祥の地」の碑が立っています。
 
 現在では、魚市場というと築地ですが、江戸時代以来長い期間、
魚河岸は日本橋の東北側の日本橋川の河岸にありました。


 日本道路元票                                        | このページの先頭へ |

 では、現在の日本橋は、道路の起点という点ではどうなっているのでしょうか?
 江戸時代は、5街道(正確には4街道)の起点でした。現代では・・・?

 これは、次のページで説明します。


| メニューへ | |  前へ | | 次へ |