西部に向かって発展してゆくアメリカ合衆国と鉄道にとって、大陸横断鉄道を実現させることが、新たな目標となりました。
高校の歴史の教科書には、鉄道の話題はあまり多く取り上げられていませんが、この「大陸横断鉄道」の話題は、ちゃんと取り上げられています。
「一方、西部では、まず1860年前後からネヴァダ・コロラドなどで金銀の採掘がはじまり、ついで牧畜業が栄えて、牛を東部の市場に供給した。その後、農民がミシシッピ川以西の大平原地域に進出し、小麦の生産地帯を形成した。西部の発展にともない、東部と西部を結ぶ通信・交通機関も整備され、有線電信の開通に続き、1869年には最初の大陸横断鉄道が完成した。西部開拓の進展によって、1890年代にはフロンティアが消滅した。」
また、「大陸横断鉄道の開通」と題する写真が掲載されており、「東西から建設された鉄道はユタ州プロモントリーで結ばれた。」とあります。
※参考資料1 佐藤次高他著『詳説世界史』(山川出版 2004年)P236
カリフォルニアが州となった1850年代においては、東部から西海岸へ向かう方法は3つありました。(パナマ運河は20世紀になってから建設され、この時点ではまだありません。)
①
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内陸の大平原・山地を馬車で向かう。(インディアンの襲撃を受ける危険あり)
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② |
東海岸から船でパナマ地峡へ行き、地峡を陸路横断し、再び船で西海岸へ向かう。(熱帯病の蔓延る危険なパナマ地峡を通過) |
③ |
東海岸から船で直接西海岸へ向かう。(南アメリカ大陸南端のホーン岬を回る大迂回の危険な海路) |
アメリカ合衆国という大陸国家が東西バラバラではなく、真の統一国家として成立するためには、大陸横断鉄道はどうしても必要なものでした。
この結果、1850年代半ばから政府の主導で調査や建設資金援助が行われ、最終的に二つの会社が競って建設を進めることになりました。
一つは、カリフォルニアのサンフランシスコから東に向かって建設を進める、セントラル・パシフィック鉄道、もう一つは、ネブラスカ州オマハ(アイオワ州との境、ミズーリ川河岸の都市)から西に向かって建設を進める、ユニオン・パシフィック鉄道です。
南北戦争中の1862年、リンカーン大統領が「太平洋鉄道法」に署名し、鉄道会社に資金援助や土地が無償供与されるという政府の援助も整い、翌1863年から建設がはじまりました。
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資金援助は、鉄道建設費の融資という形で行われました。平坦な土地は1マイルにつき1万6,000ドル、西部の乾燥地帯はその倍、ロッキー山脈地帯は3倍という金額でした。
また、鉄道路線の片側10マイル(16km)土地の所有権が認められました。
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両社が競争で線路敷設をすすめたため、両社の会合ポイントをどこにするかで手間取りましたが、結局は合意がなされ、1869年5月10日正午に両鉄道は結ばれました。
最後の儀式では、カリフォルニア州で産出した金でつくられた金の犬釘(レールと枕木に固定する大きな釘)、および銀の犬釘が打ち込まれました。そのあと、両蒸気機関車がそれぞれ少し前進して、お互いのカウ・キャッチャーが触れて、儀式は終了しました。
大陸横断鉄道完成の意義は、次のように位置づけられています。
「これは単に鉄道史に残る事件というだけではない。プロモントリー・ポイントで鉄道がつながれた日は、アメリカ史の暦においては、国が統合され、バラバラだった州が真の合衆国になった記念の日だ。今日ではそういう日として祝われているのである。」
※参考資料2 近藤喜代太郎著『アメリカ鉄道史 ーSLが作った国ー』P64-73
※参考資料3 クリスティアン・ウォルマー著『世界鉄道史 血と鉄と金の世界変革』P194-215
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