右図は、明治時代以来の日本の人口重心の推移です。
(但し、この計算には、太平洋戦争前の海外領土等の分は含まれていません。また、復帰前の沖縄の分も含まれていません。)
これを見れば、日本の人口重心は、アメリカとは違って次第に東へ移動していくのがわかります。
理由は、いうまでもなく東京を中心とする首都圏への人口集中です。
さて、この地図からもわかるように、1920年以降は、人口重心はずっと岐阜県内にあります。
1965年以降の正確な重心点は、下の表のようになっています。
郡上郡美並村(みなみ)は、1980年以来人口重心が村内にあるのを利用して、これを村おこしに積極的に活用してきました。
※2004年2月美並村は、近隣町村と合併して
岐阜県郡上市となりました。ここでは、合併前
の町村名を用いています。
「日本の真ん中」をキャッチフレーズに、「日本真ん中」花火大会、秋祭り、、マラソン大会などを企画したほか、「へそまんじゅう」、「ど真ん中ラーメン」などを販売するなどしてきました。
1997年には、東海北陸自動車道路の美並インター出口横の丘陵に、巨大な日時計を備えた「日本まん真ん中センター」を建設しました。
日時計は、高さが37.3m(みなみの語呂合わせ)もあります。(なんで日時計かは、ちょと??ですが。)
このセンターの周りには、複合施設「まん真ん中の里」も整備しました。
※詳しくは、こちらの美並村のHPへ
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年 次 |
東 経 |
北 緯 |
位 置 |
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1965 |
136度45分57秒 |
35度39分35秒 |
山県郡美山町円原(現山県市) |
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1970 |
136度51分22秒 |
35度38分52秒 |
武儀郡洞戸村高賀 |
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1975 |
136度53分19秒 |
35度38分06秒 |
美濃市今淵ヶ岳と瓢ヶ岳の中間 |
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1980 |
136度54分19秒 |
35度38分08秒 |
郡上郡美並村片知山の北方 |
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1985 |
136度55分18秒 |
35度37分34秒 |
郡上郡美並村片知山の東方 |
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1990 |
136度57分17秒 |
35度37分08秒 |
郡上郡美並村半在駅の東北方 |
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1995 |
136度58分06秒 |
35度37分01秒 |
郡上郡美並村半在駅の東方 |
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2000 |
136度58分56秒 |
35度36分42秒 |
武儀町水成の北西方 |
※岐阜県統計調査課の「データ・アイ岐阜が見える本」より
こちらは統計調査課 こちらは「データ・アイ岐阜が見える本」人口編
【追記】(07/11/11記述) |
緯度・経度の測定基準が、2002年の測量法の改正によって、日本測地系から世界測地系に変更になりました。上表の2000年以前の重心点の緯度・経度も、世界測地系でのものに修正になりました。
修正版は、目から鱗「日本の真ん中について考える2」に掲載してあります。 |
ところが、ところが、2000年の国勢調査の時には、村に衝撃が走りました。
20年間にわたって存在し続けた人口重心が、2000年の調査では、東隣の武儀町へ移動してしまう心配が生じたのです。
2000年12月には村の助役さんが、
「人口重心のおかげで、村を全国にアピールできた。村外に出た場合のことは考えていない。今は、村内にとどまってほしいと願っている」と談話しています。
※『中日新聞』2000年12月3日
しかし、表にあるように、2000年の調査の結果、人口重心は東隣の武儀町に移動してしまいました。
もちろん、美並村の施設や、ラーメンは今も営業中です。
「キャッチフレーズの頭に『元祖』を付けるとかして、何とか『まん真ん中の村』という言葉は継承していきたい。」美並村村長談話。
※『中日新聞』2002年5月21日
では、新しい人口重心はどこへ行ったのでしょうか。 |