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日本の真ん中について考える1
 2000年の国勢調査のデータを元に、人口と人口重心について考えてみました。
 | 2005年の人口重心の話は続編にあります。こちらです。 |
 まずはセンター試験問題です 04/01/03作成 
 日本の真ん中について                            |目次へ|

 岐阜県は日本の真ん中です。
 もちろん、これにはちゃんと定義があって、公式なものです。

 岐阜県内には、「日本の人口重心」があるのです。人口重心というのは、イメージ的には、日本の人口1億2692万6千人(2000年国勢調査の数値、2002年の推計人口は1億2743万5千人(総務省統計局)による))がみんな同じ体重として、ちょうど「やじろべえ」の1本足のように、全国に分布している人口を1点で支えて傾かないで平衡を保つ点を意味します。
 
 この点が現在岐阜県内にあるのです。

 本題にいく前に、これに似た「日本の真ん中」をいくつか紹介します。

○「日本列島真ん中の碑」(石川県珠洲市禄剛崎(ろっこうさき))
 能登半島の最先端のここには、「日本列島のまん中の碑」というのがあります。
 ここは国土地理院が認定した、日本の国土の重心です。
 本当の国土の重心点は、禄号崎沖の日本海なのですが、陸上でもっとも近いこの地が、重心点に認定されているわけです。
 ※石川県のホームページにある禄剛崎の写真はこちらです。
 
○「日本中心の標」(長野県辰野町鶴ヶ峰)
 長野県の中央、諏訪湖の南西のこの町は、本州の中心という位置づけとなっています。
 ※長野県辰野町のホームページはこちら
 ※「日本中心の標」の写真はこちら

○「日本のまんなかのまち」(群馬県渋川市)
 東経 139°00′北緯36°29′に位置する渋川市は、日本列島のほぼ中央に位置しているということで、独断で、1983年に「日本のまんなか緑の渋川」をキャッチフレーズに決定し、また、翌84年には、「日本のまんなかへそのまち」を全国に向けて宣言しています。
 ※群馬県渋川市のホームページはこちら
 ※「日本のまんなかのまち」の説明はこちら

 

 センター試験問題                            |目次へ|

 さて、人口重心ですが、これは、その場所と重心点の移動が、その国の人口の動きを示すもであるだけに、地理では重要な学習項目です。
(以下の内容については、平成15年度岐阜県総合教育センター研修講座1041における、岐阜大学教育学部大関泰宏教授の講義とその資料「基礎的・基本的な内容の確実な定着を図る社会化指導の在り方」からお教えをいただいたことを元に構成しました。)

 2002年の国立大学のセンター試験(追試)問題には、アメリカ合衆国の人口重心の移動が問題として出題されました。 

左の地図と以下の文章は、その問題です。
(地図の作図や問題の表現等は少々変更してあります。)
 アメリカ合衆国の人口重心は、1950年には図中のO地点にあったが、2000年には図中のA〜Dのいずれかの地点に移動した。この移動先として正しいものを選べ。

Oはイリノイ州南東部
Aはイリノイ州北部
Bはオハイオ州南西部
Cはテネシー州中部
Dはミズーリ州南部


 2000年のアメリカ合衆国の人口調査の結果は、このサイトでも、説明しています。
  ※現代社会クイズ政治1「アメリカ合衆国の人種構成」を参照
 授業で人口重心の移動などを学習して暗記していなくても、最近のアメリカ人口の動き、ヒスパニック系移民の急増による、カリフォルニア州やテキサス州の人口増加などが理解されていれば、この問題は「思考」によって答えを導き出すことができます。
 そういう意味では、単に知識の暗記を問うだけではない非常にいい問題といえます。 

 これの正解は、Dです。アメリカ合衆国の人口重心は、建国以来次のように移動しました。



 
 ※U.S.Bureau of Census のトップページはこちら
 ※人口重心に関する報告書はこちら


 左の図は、U.S.Bureau of Census の中にある資料から作成した1990年から2000年の州別人口増加率の分布です。

 この10年間にアメリカ合衆国の総人口は、
1990年 2億4870万9873人 から
2000年 2億8142万1906人 へと
         3271万2033人増加しました。
 全体の人口増加率は
13.2%です。

 左図は、平均を基準に平均以上の増加率の州、平均以下の州が識別できるように作りました。
 北部は中西部は平均以下、南部や西部は平均以上であることがわかります。
 人口重心点が西南に移動するのは頷けます。
 それにしても、日本がやがて、2005年か06年をピークに人口減少国になってしまうという時に、「移民の国」アメリカは、とんでもない勢いで人口が増加しています。

  | 2005年の人口重心の話は続編にあります。こちらです。 |
 人口重心というのはどうやって算出するのか 04/01/10作成 
  人口重心の算出の方法                       目次へ       

 ある時、理科系のクラスで授業で人口重心について得意げに説明している時、不意打ちを食らいました。
「それで先生、その人口重心というのはどうやって計算するの。数学の三角形の重心と同じ?」さすが、理系の生徒らしい不意打ちです。

「まあ、このー。似ているようで似ていない。」ごまかすしかありません。

 教える以上、その算出方法についても、ある程度知っていなければ授業はできません。
 そこで、そのほんのさわりを説明します。



 上図のようにA町(人口5000人)、B町(同8000人)、C町(同12000人)があった場合、この3町で構成する地域全体の人口重心はどうやって算出すればいいでしょうか。

 算出のためには、いくつかの現実離れした約束事が必要です。

  • 人は常に動いているものですが、動いていては重心ははかれません。したがって、止まっているものと見なします。

  • それぞれの家に止まっているのでは、まだ算出はできません。また仮定します。図に各町の町役場の位地に、全人口が止まっていると仮定するのです。町役場が重みでつぶれてしまいますが、これも架空の約束事です。

 さらに、下図3のように、座標軸を設定します。
 ここではわかりやすく普通の数学の時間に使う座標軸のようになっています。これは、本当の人口重心の場合は、緯度経度の座標となります。

 設定した座標軸によると、ABC各町の町役場の座標は、A
(4,11)、B(14,8)、C(6,2)となります。 



 さて、いよいよ重心の計算です。
 計算式を言葉で書くと次のようになります。
 求める重心Gの座標軸を、G(
XY)とすると、

  • X=(AのX座標×Aの人口+BのX座標×Bの人口+CのX座標×Cの人口)÷(Aの人口+Bの人口+Cの人口)

  • Y=(AのY座標×Aの人口+BのY座標×Bの人口+CのY座標×Cの人口)÷(Aの人口+Bの人口+Cの人口)

 となります。
 
 具体的に、座標と人口の数値を当てはめて計算すると、次のようになります。

  • X=(4×5000+14×8000+6×12000)÷(5000+8000+12000) 

  • Y=(11×5000+8×8000+2×12000)÷(5000+8000+12000)

 これを計算して、

  • X=8.1 Y=5.7

 となります。つまり、重心点の座標は、G(8.1,5.7)であり、座標軸に示すと、下の5図のの位置となります。
 
 もし人口が変化して、次の調査で、A町(人口6000人、1000人増加)、B町(同10000人、2000人増加)、C町(同11000人、1000人減少)となった場合、同じように計算すると、

  • X=8.5 Y=6.2

 となり、新しい重心は、図6のの位置、つまり、人口がより増加したB町側に少し動くことになるのです。

 う〜ん、数学は疲れます。



 では、実際には、日本の人口重心はどうやって求めているのでしょうか。
 
 基本的な設定は、上述のABC町の場合と同じです。

  • 各都道府県の重心を算出する。この際、各都道府県内にある各市区町村の人口が、すべてその市区町村の市役所・区役所・町村役場にあると仮定して計算する。

  • それぞれの市役所等の位置は、国土地理院発行の2万5千分の1地図をもとに測定する。

  • 全国の人口重心は、都道府県の人口重心をもとに、同様の計算式を用いて算出される。

 ではその計算式です。

まずは、変数・定数等の設定です。

@人口重心の経度、緯度をそれぞれ()とする。

  ※経度は横軸、つまり座標、緯度は縦軸、つまり座標

A前回の調査の人口重心の経度、緯度を0,0

BA市の市役所の経度a、A市の市役所の緯度

CA市の人口wa

D緯度の異なりによる経度の補正係数を α

0+Σwa(a−0)÷Σwa

0+Σwa(a−0){1−(a−0)×α}÷Σwa÷{1−(0)×α}

 ※Σwaは、あの数学のΣですから、A市、B市、C町などすべての人口の合計という意味です。


 ここで、ややこしいのは、の方にあるαを含んだ項です。

 説明では、「D緯度の異なりによる経度の補正係数」となっています。

 これは、地球が球面であることによる、緯度計算の補正係数です。

 つまり、たとえば、東経135度線と東経150度線を取り出すと、右図の左のような形たちとなります。
 
 すると、当然ながら、同じ東経135度と150度の間でも、北緯35度線と北緯50度線の長さは、右側の拡大部分のように、長さが違ってきてしまいます。

 これを補正する係数です。これは、ちょっと難しくて、これ以上は、説明できません。(-.-)

 総務省の人口重心の計算上は、1度あたり α=1/72 という数字が用いられています。

 ※この項目は、総務省統計局の「統計表で用いられる用語,分類の解説1」を私なりに、解釈して作成しました。
 ※総務省統計局のページは、こちら。

【追加・変更】(07/11/10記述)

 重心点算出の方法が変更となりました。
 2000年までの算出方法は、
市町村役場の位置を基準とする方法でした。ところがこれでは、市町村合併が進んで市町村が位置や役場の位置が変わると、それだけで、人口の変化がなくても人口重心点が移動してしまいます。
 そこで、2005年からは、
基本単位区(約25〜30世帯の地域単位)の図形的中心点を基準とする方法へ変更になりました。
 このため、以下に説明する2000年の人口重心と、2005年の国勢調査による重心点とは誤差が生じています。詳しい説明は、目から鱗「日本の真ん中について考える2」に掲載してあります。

  | 2005年の人口重心の話は続編にあります。こちらです。 |
 日本の人口重心の推移 04/01/17作成 
 日本の人口重心の推移                            目次へ       

 右図は、明治時代以来の日本の人口重心の推移です。
(但し、この計算には、太平洋戦争前の海外領土等の分は含まれていません。また、復帰前の沖縄の分も含まれていません。)

 これを見れば、日本の人口重心は、アメリカとは違って次第に東へ移動していくのがわかります。
 理由は、いうまでもなく東京を中心とする首都圏への人口集中です。
 さて、この地図からもわかるように、1920年以降は、人口重心はずっと岐阜県内にあります。
 1965年以降の正確な重心点は、下の表のようになっています。
 
 
郡上郡美並村(みなみ)は、1980年以来人口重心が村内にあるのを利用して、これを村おこしに積極的に活用してきました。
 ※2004年2月美並村は、近隣町村と合併して
   岐阜県郡上市となりました。ここでは、合併前
   の町村名を用いています。
 
 「日本の真ん中」をキャッチフレーズに、「日本真ん中」花火大会、秋祭り、、マラソン大会などを企画したほか、「へそまんじゅう」、「ど真ん中ラーメン」などを販売するなどしてきました。
 1997年には、東海北陸自動車道路の美並インター出口横の丘陵に、巨大な日時計を備えた「日本まん真ん中センター」を建設しました。
 日時計は、高さが37.3m(みなみの語呂合わせ)もあります。(なんで日時計かは、ちょと??ですが。)
 このセンターの周りには、複合施設「まん真ん中の里」も整備しました。
 ※詳しくは、こちらの美並村のHPへ

年  次

東  経 北  緯 位  置

1965

136度45分57秒  35度39分35秒 山県郡美山町円原(現山県市)

1970

136度51分22秒 35度38分52秒 武儀郡洞戸村高賀

1975

136度53分19秒 35度38分06秒 美濃市今淵ヶ岳と瓢ヶ岳の中間

1980

136度54分19秒 35度38分08秒 郡上郡美並村片知山の北方

1985

136度55分18秒 35度37分34秒 郡上郡美並村片知山の東方

1990

136度57分17秒 35度37分08秒 郡上郡美並村半在駅の東北方

1995

136度58分06秒 35度37分01秒 郡上郡美並村半在駅の東方

2000

136度58分56秒 35度36分42秒 武儀町水成の北西方
  

※岐阜県統計調査課の「データ・アイ岐阜が見える本」より
    こちらは統計調査課  こちらは「データ・アイ岐阜が見える本」人口編

【追記】(07/11/11記述)

 緯度・経度の測定基準が、2002年の測量法の改正によって、日本測地系から世界測地系に変更になりました。上表の2000年以前の重心点の緯度・経度も、世界測地系でのものに修正になりました。
 修正版は、目から鱗「日本の真ん中について考える2」に掲載してあります。


 ところが、ところが、2000年の国勢調査の時には、村に衝撃が走りました。
 20年間にわたって存在し続けた人口重心が、2000年の調査では、東隣の武儀町へ移動してしまう心配が生じたのです。

 2000年12月には村の助役さんが、
「人口重心のおかげで、村を全国にアピールできた。村外に出た場合のことは考えていない。今は、村内にとどまってほしいと願っている」と談話しています。
 ※『中日新聞』2000年12月3日

 しかし、表にあるように、2000年の調査の結果、人口重心は東隣の武儀町に移動してしまいました。
 
 もちろん、美並村の施設や、ラーメンは今も営業中です。
「キャッチフレーズの頭に『元祖』を付けるとかして、何とか『まん真ん中の村』という言葉は継承していきたい。」美並村村長談話。
 ※『中日新聞』2002年5月21日

 では、新しい人口重心はどこへ行ったのでしょうか。  

  | 2005年の人口重心の話は続編にあります。こちらです。 |
 現在の日本の人口重心探検記 04/01/24作成 
 現在の日本の人口重心                           目次へ       

 2000年の国勢調査によって、日本の人口重心は、1995年のそれより東南東に1キロメートルほど移動し、武儀町の水成地区の山中となりました。
 
 1965年以降5年間ごとの人口重心の推移は、右図の通りです。
 洞戸村→美濃市を経て美並村に移った人口重心は、20年間にわたって町内をゆっくり東南東に移動していきましたが、今回ついに、美並村を出て、東南隣の武儀町に移ったのです。
 地図の茶色の線は、第3セクターの長良川鉄道の路線で、これは、おおむね長良川の流れと同じです。
 また、ほぼ同じ所に直線で、東海北陸自動車道路が通っています。
 人口重心の正確な位置は、下の図をご覧ください。
 美並村と美濃市と武儀町との境にある水晶山の頂上のやや東南に位置します。

 武儀町というのは、岐阜市の北東隣の関市の、またその東南隣に位置する、山あいの町です。
 昭和天皇が薨去されて、新元号が「平成」と発表された時、その「平成」と同じ地名、「平成」と書いて「へなり」と読む地名が合ったことで、ちょっぴり有名になったところです。

 人口重心が移ってきたことに対して、町長は、「名誉なこと」としながらも、こう談話しました。
「人口重心は5年後に動く可能性もある。記念碑は建てたいと思うが、現段階ではあまりカネをかけて何かを作ることは考えてない。」とのことでした。
 ※『中日新聞』(2002年5月21日)

 さて、こうなったら、そこがどんな場所で、どうなっているか、見てこないわけにはいきません。
 事前に武儀町役場に問い合わせると、
「はい、一応、人口重心の場所には、ささやかなモニュメントがおいてあります。林道を途中まで車で行って、あとは、整備された遊歩道を30分ばかり昇っていただければ、モニュメントに行き着けます。」
と確認できました。

 2003年12月27日に、その場所に行ってきました。

 人口重心のある岐阜県武儀町は、県都岐阜市の東北にあたり、我が家からは1時間15分ぐらいの所です。まずは、岐阜市から関市に入り、飛騨の金山町に向かう県道58号線を東北に走ります。

 津保川に沿った道をしばらく行くと、道はまもなく武儀町に入ります。道の駅「平成」過ぎると武儀中学・武儀町役場のある、武儀町の中心部に着きます。

 ここで、橋を渡る手前で左折して、県道58号線から県道63号線へ入ります。
 数キロで左にサークルK、右前に郵便局がある交差点につきます。この交差点を右に曲がると、右手200mに県立中濃高校があります。但し、この学校は、2004年4月から現在の中濃西高校と合体して、「関有知高校」となってしまいます。在校生がいる2年間は存続しますが、そこで終わりとなります。


 中濃高校に行くのとは反対側、サークルKの横を左折して、町道に入り、橋を渡って右折し、富之保小学校に通じる町道に入ります。そこですぐに左折すると、水成川という小さい川に沿って、水成集落に向かう道が続いています。

 左折する場所を確かめようと、とある家の庭先に車を止めて、犬にえさをやっているおじいさんに近づいていきました。
「水成集落へ行く道はここですか。」と指を指して、その手を下ろしたら、なんと、そばでほえていた犬に、右手をガブリと咬まれてしまいました。
 狂犬病で、余命幾ばくもありません。(--;)

富之保小方面へ向かう町道。左の標識のあるところで左折。
(普通は通り過ぎまする。) 

水成の集落。前方の谷筋へ林道を走る。 

 集落抜けて、林道に入り、森の中を数キロ走りました。
 道幅は狭く、途中から未舗装となります。地元の人しか通らない寂しい道です。
 椎茸の栽培のための作業用の倉庫や、菌打ちに使う木が並べてあります。

椎茸の栽培が行われています。

砂防堤を超えます。

 さらに数キロ行くと、林道の終点となります。
 ちゃんと駐車スペースが作ってあって、車3台は止められます。遊歩道の案内板も立っています。遊歩道は、本来水晶山に昇る登山道です。この山は、その名の通り、水晶の石がある山です。

 ここからは徒歩です。案内板には、30分ほどで着くと書かれています。

林道の終点。

遊歩道の案内。

 道は、「遊歩道」の名の通り、丸太や石でちゃんとp道が造ってあり、少し急な坂道も普通に登れます。ちょっと張り切りすぎてオ−バーペースになってしまった私でしたが、いい汗かきながら、20分と少しで、前方に人口重心の標識とモニュメントが見えてきました。

遊歩道はかなり急です。

手前重心点、後ろ記念モニュメント。

人口重心を示す標識。

武儀町が設置した人口重心のモニュメント。

 はあはあいいながら昇った人口重心点でしたが、役場の方のお話通り、モニュメントは、ささやかなものでした。
 写真右上の、直径50センチほどの黒い玉が、モニュメントです。
 
 人口重心はこれまでのペースで移動していくと、2005年の調査ではまだ武儀町内にあるかもしれませんが、その次の、2010年には、確実に、隣の七宗町に移っていきます。
 このくらいのモニュメントが、相応かもしれません。
 そうです、それ以前に、今書いてきたこのあたりの町名は、平成の大合併で違うものになってしまうことの方が確実です。
 そうなるとこのモニュメントはどうなるのでしょう。
  

 | 2005年の人口重心の話は続編にあります。こちらです。 |
 岐阜市の人口重心の変遷 04/01/31 作成 
 岐阜市の人口重心の変遷                        目次へ       

 さて今度は、岐阜市の人口重心です。
 以下で用いた数値は、基本的に、岐阜市のウェブサイトの統計書からエクセル・データをダウンロードして引用しました。

岐阜市のサイトの岐阜市経営管理部統計分析室のページはこちらです。 

 左の最初の地図は、 1985年までの岐阜市の人口重心の推移を示しています。
 1950年から1965年までの岐阜市の人口重心は、岐阜市役所の周りを少しずつ西へ動いていました。
 ところが、1970年・1975年と大きく東北へ移動します。これは、次の団地群が、岐阜市の北東部に誕生し、北部の人口増加が大きくなったことに起因しています。

964年

福富団地

1967年

北山団地

1968年

加野団地

1970年

諏訪山団地

※上記地図は、『中日新聞』2000年12月26日の朝刊より作成 
 その後も、

1977年

三田洞団地    

1979年

松籟団地        

1981年

大洞団地

1981年

大洞緑団地

と、北東部に団地造成が続き、人口重心はさらに、北上します。
 続いて、それ以後1985年から1990年、さらに1990年から1995年の各5年間の地区別人口増加率は、次の地図の様になっています。
 この間の人口重心は、どちらへ動いているのでしょうか?
 ここでいう地区別とは、小学校の校区とほぼ同じと考えてください。
 ちなみに、岐阜市の人口重心は、地区ごとに、その人口が小学校の所在地にすべて集まっていると仮定して算出されています。 


 1990年には、人口重心は、少し、西北へ移動しました。
 さらに、1995年にはほんの少し、北に移動しました。
 地区別人口増加率を見ると、15%を越えたのが僅か1地区となり、全体に、オレンジ系(増加率が6%以上)の地区が減っていることがわかります。



 前回の、2000年国勢調査では、これまでにない結果が出ました。
 まずは、右の地区別人口増加率をご覧ください。

 上の1995年の地図と比べてみると、次のことが言えます。
(それまで49校区(地区)に区分されてきたが、2000年に芥見南小学校が芥見東小学校に統合されました。このためこの時点での校区(地区)は48。しかし、計算上は、芥見南地区を独立させて、従来通りの計算で算出している。

  1. 中心部の減少は相変わらず大きい。

  2. 東部の芥見、岩が新しく減少地区にとなる。

  3. 岩野田、藍川の減少率が大きくなる。

  4. 西郷が、唯一15%以上の増加地区となる。

  5. 七郷、市橋、日置江、鶉地区で増加率が大きくなる。

 この結果、人口重心は、右下図の様になりました。
 つまり、人口重心は、35年ぶりに、西方向へ移動したのです。
 市では、「長良川に架かる大縄場大橋の開通や、島地区一帯の区画整理事業が終了し、市北西部で宅地開発が進んだため」と考えています。
 ※『中日新聞』2000年12月26日朝刊

 ちなみに、この時の増加率No1の西郷地区は、私の住んでいる校区です。
 これで、人口重心の話は、終わりです。
 それほどすごい「目から鱗」、ではないと思いますが、地理的な見方・考え方をの面白さということで、いろいろ紹介しました。

2005年の国勢調査の分析は、岐阜・美濃・飛騨「岐阜県の原風景・現風景4 岐阜シティ・タワー43」で説明しています。

上、重心点の写真。中央は長良川、右手の橋は金華橋。
下は岐阜市の重心点移動の詳細図。上の写真は、下の地図の「写真撮影位置」より撮影。

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