1945年1月20日、大本営は特別命令を発し、『南号作戦』を実施します。「作戦」といって、どこかを攻めるのかというと、そうではありません。
南方からの資源輸送を石油一本にしぼり、特攻部隊を編成して、特別の覚悟で輸送するという作戦です。(ボーキサイトなど他の資源は、中国・満州地域からの代用品でまかなうということに決まりました)
そして、この輸送の方式として、これまでの、大船団主義に代わって、小船団主義が採用されます。理由は次の諸点です。
大船団では、敵レーダー網に補足され、敵航空機の襲撃を受ける確率が高い。
少数のタンカーのみを、その数と匹敵するくらいの護衛艦でがっちり守る方が成功の望みが高い。
大船団を組もうにも、上述のハルゼー機動部隊の空襲で、南方地域のタンカーも残り少なくなってしまった。
1月20日、第1次南号作戦船団として、ヒ88A船団がシンガポールを出発しました。船団といっても、1万238総トンの大型タンカーせりあ丸に、駆潜艇2隻の小船団です。
徹底的な沿岸航路をとったことが幸いし、途中数度の敵潜水艦の攻撃、中国大陸からのアメリカ爆撃機の空襲を回避し、2月7日に無事本土に帰還しました。
シンガポール−門司間は、4,704kmありますから、出発から到着まで17日、1日276km、時速にして11.5km、船の速度の単位のノット(1ノット=約1.8km)で示せば、平均、6.4ノットという、きわめて遅い速度で、警戒しながらの航海でした。
せりあ丸は、当時本当に貴重であった航空揮発油(飛行機の燃料)を1万7000トンも運んでくるのに成功しました。
しかし、それ以後、3月19日シンガポール出発の最後の船団まで、せりあ丸も含めて11次の南号作戦が実施され、30隻タンカーが日本へ向かいましたが、無事に石油を届けたのは、僅か6隻に過ぎませんでした。
3つだけ具体例を説明します。
パレンバン丸という名前のタンカーがありました。
「片道燃料について1」で説明した、スマトラ島の油田地帯の拠点がパレンバン(陸軍落下傘部隊が降下)です。この重要な地名を船名にしたタンカーは、戦時標準型油槽船のTM型と呼ばれるもので、5236総トンの中型船でした。
1942年に三菱長崎造船所で完成し、何度も南方との油輸送に実績を残しました。
1945年2月7日、門司港を出航しヒ97船団として南下、2月20日無事シンガポールに着きました。
そして、油を満載し、南号作戦第9次特攻部隊、ヒ98船団として、もう1隻のタンカーとともに2月27日にシンガポールを出発しました。途中、護衛艦2隻が加わり、合計4隻で2隻のタンカーを護衛するという十分な体制がとられました。
しかし、3月4日明け方、敵潜水艦の攻撃を受けて、船団は潰滅しました。
第8次特攻部隊、ヒ96船団は、タンカー富士山丸、あまと丸、光島丸の3隻と海防艦3隻で編成され、2月22日、シンガポールを出発しました。
しかし、2月27日、まず、あまと丸が敵潜水艦によって撃沈され、さらに、3月1日、海南島付近でB29爆撃機による爆撃を受けて光島丸が損傷しました。
被害のなかった富士山丸は、3月13日に本土に到着し、海軍の燃料基地のある山口県徳山に
原油1万6000トンを陸揚げすることに成功しました。
一方、B29爆撃機によって艦首付近に被害を受けた光島丸は、ホンコンで応急修理を施し、3月18日に2隻の護衛艦にともなわれて出航、3月27日に無事に徳山港に到着し、重油、1万800トンの輸送に成功しました。結果的に、この船が南方から石油を運んだ最後のタンカーとなります。(この光島丸の名前は、あとでまた出てきますから、覚えておいてください。)
南号作戦の最後の船団、第11次特攻部隊、ヒ88J船団は、南号作戦中で最も大きな船団となりました。
東南アジアの情勢も逼迫し、これが最後の船団になるということから、タンカー3隻を含む8隻が集められ、これに7隻の護衛艦(海防艦6隻、駆逐艦1隻。ただし、駆逐艦天津風は損傷艦。)が付いて、3月19日にシンガポールを出航しました。
しかし、まず、艦隊が集合して出発した直後、4400トンの油を積んだタンカーさらわく丸が、機雷に触れて沈没しました。
船団は、南シナ海を横切るという最短航路はとらず、マレー半島に沿って北上し、ついでインドシナ半島に沿って北上するという、沿岸航路をとりました。
サイゴンの外港サンジャックまでは、無事に到着し、予定通り貨物船3隻を分離しました。
3月20日サイゴン発。タンカー2隻、貨物船3隻、護衛艦10隻(3隻途中合流)で、インドシナ半島沿岸を北上しましたが、28日から潜水艦やフィリピン基地からの航空機の攻撃を断続的に受け、29日昼までに、貨物船・タンカーはすべて沈められてしまいました。護衛艦は1隻も沈没しておらず、このあたりにも、アメリカ海軍や陸軍航空部隊の「船団攻撃」の徹底ぶりが見て取れます。
このあと、護衛艦隊も次々と被害を受け、海防艦・駆逐艦6隻が沈没または大破して、船団は、潰滅しました。
この時点で、南方からの輸送はすべて放棄されました。もはや、打つ手はなかったのです。
そして、4月1日には、アメリカ軍が沖縄に上陸してきます。 |