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戦艦大和について考える11
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認その8「片道燃料」について4
 昭和19年末〜20年初めの油輸送                             | このページの先頭へ |

 確か、このコーナーのタイトルは、「片道燃料」でしたっけね。
 いえ、忘れているわけではありません。ちょっと遠回りしているだけです。(^.^)

 前々ページ・前ページでは、大日本帝国の生命線というべき、せっかく占領した東南アジアから日本への輸送が、1944年に後半には、瀕死の状態に陥り、1945年3月には途絶してしまうことを説明しました。
 この大局を理解した上で、ここでは、片道燃料に直接つながる、1944年から45年にかけての油輸送と備蓄量について、いろいろな数値を挙げて説明します。

表6 石油消費見込み量と戦時消費実績 (単位klキロリットル)

1942年

1943年

1944年

1945年

全体の消費見込み量(うち海軍)

520万(280万)

500万(270万)

485万(250万)

実際の消費量(うち海軍)

823万(483万)

662万(428万)

468万(317万)

81万(57万)

  南方からの還送実績量

149万

265万

106万

三輪宗弘前掲『太平洋戦争と石油』P146などより作製

 
 石油の消費量は、その年ごとに事前に予想された見込み量を大幅に上回って消費されました。特に、海軍の消費量が、大幅に見込み違いとなっています。
 また、南方からの還送量は、1944年になって急速に減り始めました。
 特に、1944年10月にアメリカ軍がフィリピンに上陸してからは、これまでの潜水艦に加えて、石油の還送ルートである南シナ海(地図はこちらです。Battle_Ship_Yamato08_04Oil_occupation1941.gif',641,576,641,576)にアメリカ軍機が跳梁するようになり、シーレーンの安全性は、急速に低下していきます。


<普通の教科書にはない太平洋戦争に関する知識 その5>
 1944(昭和19)年の夏から秋にかけては、日本船団の被害は太平洋戦争中の最高を記録します。そして、特に、アメリカ軍のフィリピン上陸以後(1944年10月)は、シンガポール−台湾−日本のシーレーンも、日本船団の海の墓場となってしまいました。
 具体的な例をいくつか紹介します。 

例1 ヒ船団と護衛空母

 1944年8月8日、関門海峡の門司港をヒ71船団が出航しました。4隻のタンカーを含む10隻の船団を、護衛空母大鷹(たいよう)、駆逐艦夕凪など7隻が護衛する船団でした。
 この船団は、10隻の船舶が大型で優秀な船ばかりだったため、当然ながらそれを護衛する部隊も護衛空母を含む強力な部隊が付けられました。護衛空母が船団を護衛するのは今回が初めてでした。ヒ71船団は、ちょっと意気込みが違う船団だったのです。

<用語解説>

ヒ船団

 1943年8月から、石油の還送こそが日本の生命線であるという認識が高まり、犠牲を最小限にするため、高速タンカーにはできうる限る護衛艦を付けて船団を組んで、往復させる方針となりました。
 この船団の名前がヒ船団です。
 日本の出発地門司からシンガポールに向かう船団には、奇数番号が付けられ、シンガポールから戻ってくる船団は、偶数番号で呼ばれました。
 このあたりの数字へのこだわりは、新幹線などJRの特急電車の番号と同じ、日本の「文化」とも言えるものです。(^.^)
 ヒ71船団というのは、したがって、36往復目の行きの船団ということになります。

護衛空母

 護衛空母というのは、1943年11月に海上護衛総司令部が設置された時にその配下に入った艦種で、全部で4隻が属していました。大鷹・雲鷹・神鷹・海鷹です。
 ただし、もともと、他の艦種だったものを改造されたもので、飛行甲板の長さは正規空母の250m前後に比べ、160m〜180mと短く、搭載飛行機数も3分の1以下の20機程度、そして、心配なことに、海軍艦艇としては速力が遅く(21ノッ程度、戦艦大和は27ノット。ただし、タンカーなどは高速船でも15ノット程度であったから、一応護衛はできた。)、本当に護衛ができるのかという懸念も出されていました。
 ちなみに、これらの空母は、日本軍が攻勢の時期は、前線へ航空機を運ぶための運送艦として利用されていました。ところが、戦線の縮小によってそれが必要なくなり、連合艦隊もこれらの空母を気前よく海上護衛総司令部へ、「譲渡」したものでした。

 やはり、心配は、現実のものとなりました。
 昼間はともかく、夜は飛行機を飛ばして警戒することはできません。
 前ページの「例1」のSJレーダーはここでも威力を発揮しました。

 8月18日、ルソン島北西沖を通過中、アメリカ潜水艦の”狼群”の一団に捕まりました。
 まず、まっさきに、
大きな図体の空母大鷹が沈められさらに船舶4隻が撃沈されました。さらに、4日後、護衛の海防艦3隻が別の”狼群”につかまり、次々と沈められました。

 
船団を組んで護衛艦を付けても、護衛空母というたいそうなものが付いていても、レーダーがない日本艦艇は、敵潜水艦の好餌となるほかなかったのです。 

大井篤前掲書『海上護衛戦』P165・166、P290〜294と松井邦夫著・画『日本油槽船列伝』(成山堂書店 1995年)より

 

例2 アメリカ機動部隊の南シナ海進出

 1945(昭和20)年1月9日、フランス領インドシナのサイゴン(現在のベトナムのホーチミン市)を、今後の日本の命運を握る船団が出航しました。
 ヒ86船団と名付けられたこの船団は、シンガポール方面からの石油・資源を満載し、日本へ向かう途中のもので、タンカー4隻、貨物船6隻の合計10隻に、7隻の護衛艦隊がついていました。護衛艦は、練習巡洋艦(海軍士官学校での練習用に建造された艦)香椎を旗艦とする、海防艦6隻でした。

 船団は、インドシナ半島の沖合2km程の沿岸を航海する
接岸航法(岸にできるだけ近づいて航海すると、陸側からの潜水艦の攻撃はありえず、また、損傷時に陸に向かって逃げることができる。)をとり、夜は、潜水艦のレーダー攻撃を避けて、港に避難するという慎重な航海を続けました。

 ところが、1月12日、突如、アメリカ空母艦載機の攻撃を受けます。
 じつは、この時、ハルゼー大将の率いるアメリカ空母機動部隊は、日本の航空部隊が弱化したのを見越し、大胆にもルソン島の北を回って南シナ海に侵入し、日本の輸送部隊を襲ったのです。

 船団は、10隻ともすべて、被害を受け、沈没するか、近くの岸に乗り上げ、全滅しました。生き残ったのは、海防艦3隻のみでした。

 この1945年1月の中旬のアメリカ機動部隊の南シナ海進出によって、フランス領インドシナ、中国のホンコン、台湾の付近を航行または停泊していた日本船団は、壊滅的な打撃を受けました。これにより28万3千総トンの船舶が沈められました。
 タンカーの被害も大きく、上述のヒ86船団の他、南方に向かう途中、ホンコンで襲われたヒ87船団の5隻の大型タンカーなど、大型10隻、中小型タンカー15隻、合計25隻、合計10万トン以上のタンカーが失われました。
 南方からの油輸送は最後の局面へと入ります。
  

大井篤前掲書『海上護衛戦』P330〜340、松井邦夫著・画前掲書『日本油槽船列伝』P23より


例3 南号作戦

1945年1月20日、大本営は特別命令を発し、『南号作戦』を実施します。「作戦」といって、どこかを攻めるのかというと、そうではありません。

 南方からの資源輸送を石油一本にしぼり、
特攻部隊を編成して、特別の覚悟で輸送するという作戦です。(ボーキサイトなど他の資源は、中国・満州地域からの代用品でまかなうということに決まりました)
 そして、この輸送の方式として、これまでの、
大船団主義に代わって、小船団主義が採用されます。理由は次の諸点です。

  1. 大船団では、敵レーダー網に補足され、敵航空機の襲撃を受ける確率が高い。

  2. 少数のタンカーのみを、その数と匹敵するくらいの護衛艦でがっちり守る方が成功の望みが高い。

  3. 大船団を組もうにも、上述のハルゼー機動部隊の空襲で、南方地域のタンカーも残り少なくなってしまった。

 1月20日、第1次南号作戦船団として、ヒ88A船団がシンガポールを出発しました。船団といっても、1万238総トンの大型タンカーせりあ丸に、駆潜艇2隻の小船団です。
 徹底的な沿岸航路をとったことが幸いし、途中数度の敵潜水艦の攻撃、中国大陸からのアメリカ爆撃機の空襲を回避し、2月7日に無事本土に帰還しました。
 シンガポール−門司間は、4,704kmありますから、出発から到着まで17日、1日276km、時速にして11.5km、船の速度の単位のノット(1ノット=約1.8km)で示せば、平均、6.4ノットという、きわめて遅い速度で、警戒しながらの航海でした。

 せりあ丸は、当時本当に貴重であった
航空揮発油(飛行機の燃料)を1万7000トンも運んでくるのに成功しました。

 しかし、それ以後、3月19日シンガポール出発の最後の船団まで、せりあ丸も含めて
11次の南号作戦が実施され、30隻タンカーが日本へ向かいましたが、無事に石油を届けたのは、僅か6隻に過ぎませんでした。

 3つだけ具体例を説明します。

 
パレンバン丸という名前のタンカーがありました。
 「片道燃料について1」で説明した、スマトラ島の油田地帯の拠点がパレンバン(陸軍落下傘部隊が降下)です。この重要な地名を船名にしたタンカーは、戦時標準型油槽船のTM型と呼ばれるもので、5236総トンの中型船でした。
 1942年に三菱長崎造船所で完成し、何度も南方との油輸送に実績を残しました。
 1945年2月7日、門司港を出航し
ヒ97船団として南下、2月20日無事シンガポールに着きました。

 そして、油を満載し、南号作戦第9次特攻部隊、
ヒ98船団として、もう1隻のタンカーとともに2月27日にシンガポールを出発しました。途中、護衛艦2隻が加わり、合計4隻で2隻のタンカーを護衛するという十分な体制がとられました。
 しかし、3月4日明け方、敵潜水艦の攻撃を受けて、船団は潰滅しました。

 第8次特攻部隊、
ヒ96船団は、タンカー富士山丸、あまと丸、光島丸の3隻と海防艦3隻で編成され、2月22日、シンガポールを出発しました。
 しかし、2月27日、まず、あまと丸が敵潜水艦によって撃沈され、さらに、3月1日、海南島付近でB29爆撃機による爆撃を受けて
光島丸が損傷しました。
 
 被害のなかった富士山丸は、3月13日に本土に到着し、海軍の燃料基地のある山口県徳山に
原油1万6000トンを陸揚げすることに成功しました。

 一方、B29爆撃機によって艦首付近に被害を受けた光島丸は、ホンコンで応急修理を施し、3月18日に2隻の護衛艦にともなわれて出航、
3月27日に無事に徳山港に到着し、重油、1万800トンの輸送に成功しました。結果的に、この船が南方から石油を運んだ最後のタンカーとなります。(この光島丸の名前は、あとでまた出てきますから、覚えておいてください。)

 南号作戦の最後の船団、第11次特攻部隊、
ヒ88J船団は、南号作戦中で最も大きな船団となりました。
 東南アジアの情勢も逼迫し、これが最後の船団になるということから、タンカー3隻を含む8隻が集められ、これに7隻の護衛艦(海防艦6隻、駆逐艦1隻。ただし、駆逐艦天津風は損傷艦。)が付いて、3月19日にシンガポールを出航しました。
 しかし、まず、艦隊が集合して出発した直後、4400トンの油を積んだタンカーさらわく丸が、機雷に触れて沈没しました。
 
 船団は、南シナ海を横切るという最短航路はとらず、マレー半島に沿って北上し、ついでインドシナ半島に沿って北上するという、沿岸航路をとりました。
 サイゴンの外港サンジャックまでは、無事に到着し、予定通り貨物船3隻を分離しました。
 3月20日サイゴン発。タンカー2隻、貨物船3隻、護衛艦10隻(3隻途中合流)で、インドシナ半島沿岸を北上しましたが、28日から潜水艦やフィリピン基地からの航空機の攻撃を断続的に受け、29日昼までに、貨物船・タンカーはすべて沈められてしまいました。護衛艦は1隻も沈没しておらず、このあたりにも、アメリカ海軍や陸軍航空部隊の「船団攻撃」の徹底ぶりが見て取れます。
 このあと、護衛艦隊も次々と被害を受け、海防艦・駆逐艦6隻が沈没または大破して、船団は、潰滅しました。 

 この時点で、南方からの輸送はすべて放棄されました。もはや、打つ手はなかったのです。
 そして、4月1日には、アメリカ軍が沖縄に上陸してきます。

大井篤前掲書『海上護衛戦』P346〜348、P358 松井邦夫著・画前掲書『日本油槽船列伝』P97、P165、P176、森田友幸著『25歳の艦長海戦記』(光人社 2000年)P83−153より

<用語解説>

総トン、トン

 上記の部分に、ちょっと難解な表現があります。1万238総トンのせりあ丸が、1万7000トンの航空揮発油を運んできたという部分です。

 ここで使っている商船・タンカー等の船のトン数は、引用した書物のうちのひとつ、大井篤著『海上護衛戦』にしたがって、「
総トン」で表現してあります。
 「総トン」と書いてある部分と、単に「トン」と書いてある部分がありますが、船の大きさとしては、すべて「
総トン」という単位概念が使ってあります。(重油1万トンという場合は、普通の1000kg=1tonのトンです。)

 この
総トンは、船の囲われている部分の全容積を、100立方フィート(2.8立方メートル)を1トンとして計算するものです。囲われている部分でも、船橋のように荷物や乗客と関係のない部分は計算の対象としません。

 1万総トンの貨物船は、重量トンであらわせばおよそ1万5000トンになり、積載貨物重量トンでは、約1万4500トンとなります。

 また、1万総トンのタンカーは、積載する油の量としては、約1万5000トンから1万7000トンほどを積載できるのです。


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