岐阜県の東海道線あれこれ14
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 岐阜駅の変遷1 初代・2代目岐阜駅

 岐阜県の東海道線のシリーズの第5作目は、「岐阜駅の変遷」です。
  写真14−01                                     (撮影日 07/10/28)

 夕暮れの岐阜駅。ホームのライトがきれいです。
 岐阜駅の現状は、2008年3月段階では、刻々と変わりつつあります。
 と言っても駅本体が変わっているのではありません。
 岐阜駅前整備事業によって、駅前が一新されつつあるのです。上の写真は、2007年秋の撮影ですが、未完成のU字型のデッキは、現段階ではまもなく完成です。


 またもや得意の歴史です

 「岐阜駅の変遷」という限りは、またもや得意の歴史です。
 しかも駅だけでなく、ついでに、岐阜の町についての歴史も織り交ぜます。
 まずは下の年表を見てください。



岐阜市付近の東海道線・私鉄建設と岐阜駅に関する年表
赤字は岐阜駅に関する記述
年・月 開通区間及び事件
1883年 05 長浜−関ヶ原(23km)開通
1884年 05 関ヶ原−大垣(13.6km)開通
1886年 03 武豊−大府−熱田(33.2km)開通  05熱田−一ノ宮開通  06一ノ宮−木曽川開通 
07 幹線鉄道建設を中山道から東海道に変更 伊藤内閣総理大臣が東海道幹線鉄道着工指令
12 揖斐川橋梁、長良川橋梁完成(木曽川橋梁は建設中)
1887年
(M20)

01 大垣−加納(岐阜)開通 この時加納停車場(駅)@が開業(初代岐阜駅
04 加納−木曽川開通
1888年 12 加納停車場を岐阜停車場(駅)と改称
1889年
(M22)
04 新橋−長浜間に直通列車運転開始 琵琶湖の太湖汽船を利用して新橋−神戸間の列車・蒸気船輸送完成
06 岐阜駅を340m移転A 八間道の南端に新しい駅が開業
07 湖東線 馬場(現膳所)−米原−深谷(69.6km) 米原−長浜(7.4km)開通
鉄道による新橋−神戸間全通
1891年 10 尾大地震発生 木曽川・長良川・揖斐川橋梁損壊
1895年 04 東西幹線の名称を正式に「東海道線」と制定
1899年
(M32)
10 米原−関ヶ原間に柏原経由の新線開通  
07熱田−名古屋間複線化完成 ※東海地方の東海道線で初の複線化
 
1906年 08 穂積駅開設 ※穂積駅は高架(盛り土)上に建設
1908年 04 大垣−穂積間複線化・高架(盛り土)化完成
1909年 06 穂積−長良信号所間複線化完成
1913年 07 岐阜駅前後の線路付け替え、岐阜駅、南西に400mの位置に移転B
1920年 11 高山線の岐阜ー各務ヶ原間開通
1926年 01 各務原鉄道の安良田−補給部(各務原市三柿野)間開通(現在の名鉄各務原線の一部)
1945年 07 空襲により岐阜駅焼失
1948年 12 岐阜駅の駅舎再建(木造)
1953年 12 岐阜駅の西、西陸橋の西側に岐阜貨物駅分離移転
1959年 11 5代目岐阜駅駅舎完成(鉄筋2階建て)
1986年 11 岐阜西駅開業岐阜貨物ターミナル開業
1996年 02 東海道線・高山線の高架化が完成C
1997年 03 高架下に6代目岐阜駅駅舎完成
   

 岐阜駅の場所は、1887年開設の初代@1889年の移転A1913年の移転B1996年の高架化Cと大きく4回の変遷を見ています。
 これは、いろいろお話をするには十分なネタです。(^_^) 
 なお、正確には、初代は加納停車場、それが改称されて岐阜停車場(駅)、さらに移転して2代目岐阜停車場となりますが、ややこしいので、簡単に言う場合は、加納停車場も含めて、「初代岐阜駅」「2代目岐阜駅」などと表現します。

 岐阜駅の名称変更と移転については、これまでの文献では、
  ・1988年3月1回目の移転、同年12月加納駅から岐阜駅への名称変更
 とするものが多かったと思われます。
 今回、井戸田弘氏の研究にもとづき、上記年表の年代としました。

 井戸田弘著『加納駅から岐阜駅へ :駅は移動する』(2007年6月)氏の冊子著書は岐阜県図書館に所蔵


 明治時代の岐阜の町と初代・2代目岐阜駅

 まずは初代岐阜駅ができる時代の岐阜の町の様子です。

 はじめに初代岐阜駅の位置にかかわるクイズを出します。
 下の航空写真を元に作製した
地図21は、現代の岐阜市の主な道路を示しています。
 南北(縦方向)の道路、
のうち、初代岐阜駅が建造された1887(明治20)年以前にも存在した道が1本だけあります。 さてどれでしょう。

上の地図は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。下の地図22・23・24・25も同じです。


 正解は、です。
 地図22をご覧ください。
 当時、南北に通じる道路は、金華山山麓を中心に市街地が広がっていた旧岐阜町と名古屋を結ぶ「名古屋街道」のみでした。
 
 現在の岐阜市の神田町通りの東側にある北から米屋町・白木町・常盤町・笹土居町・小熊町・金屋町・美園町・元町・安良田町の通りです。
 旧中山道に沿った加納町は岐阜町の市街地とはまったく別の地域でした。
 現在の岐阜市の最高路線価格地点となっている現岐阜駅前は、岐阜町と加納町の間の、まったくの田園地帯でした。


 それでは、初代岐阜駅は一体どの場所にできたのでしょうか?
 下の
地図23をご覧ください。
 実は、
1887(明治20)年1月の開業当初の東海道線(正確には正式な呼称は1895年から)の加納駅(停車場)は、現在の長住町通り(名鉄岐阜駅・十六銀行本店前を東西に貫く通り)と名古屋街道(元町通り)の交差点のやや西にあったと推定されています。現在の名鉄各務原線安良田踏切附近です。
 
地図23の道路Eは、当時の岐阜町から元町・安良田町を経て名古屋へと向かう街道でした。そういう意味では、初代の駅は、交通の重要な場所に開設されたということになります。(この街道については、ほかのページで詳しく説明しています。
  →岐阜・美濃・飛騨「御鮨街道を歩く 岐阜町と尾張藩について考える」
渡利正利著『岐阜駅物語』(岐阜新聞社 2001年)P7

 当時の長住町通りは今の通りの一本北側(キャッスルホテルの前)にあり、敷設当初の鉄道線路は、現在の長住町通りのあたりを東西に通っていました。現在の鉄道線路より随分北側だったわけです。
 その後、この年1888年12月には、加納停車場(駅)は岐阜停車場(駅)と改称されました。

 しかし、この駅は、早くも2年6ヵ月後の
1889年6月には、西へ340m程移動します。
 その理由は、「岐阜市」の新しい発展構想にありました。
 「岐阜市」は、1889年の市制施行に向けて市街地の西部・南部への発展を企図しており、それまで、北部までしか建築されていなかった
八間道と呼ばれる新メインストリートを鉄道線まで延ばし、その南端に駅を作るという構想をもっていましたが、それが実現されたのです。

 2代目の駅は、八間道の南端に移設されました。 
八間道は現在の長良橋通り(神田町通り)。幅が八間だったので八間道。1間は、1.8m、8間は、14.4m。


 初代停車場に関する新しい考え

 上記の初代岐阜駅の位置は、直接には、渡利正利氏のの前掲書によっていますが、これは、それまでの定説となっているものです。しかし、初代加納停車場の位置は、実はもっと西側だったという説を、渡利氏自身が後の論考で提唱しています。
渡利正利著「新発見された加納停車場」『中山道加納宿』(中山道加納宿文化保存会 2002年3月20日)

 渡利氏は、上記の『岐阜駅物語』の発刊直後、岐阜市内の書店でたまたま『古写真で見る明治の鉄道』(世界文化社 2001年)を手にされたところ、その中に「明治20年1月21日開業間もない岐阜駅」として、初代加納停車場の写真が掲載されているのを発見され、その形状、背景の山の形などから、その写真の加納停車場の位置をあらためて推定し直された。
 それによれば、従来の元町ー安良田町通りと名鉄各務原線の交差する場所、安良田踏切附近ではなく、
もう少し西の清住町通りの踏切付近(私なりの言い方で、もう少し正確に言うと、清住町と長角町の交差点あたり)であるとのことです。場所は、以下の地図24および地図25のの位置になります。
 写真の撮影日時が正確であれば、極めて妥当な推定となります。


 旧線路の跡

 初代駅の正確な位置はとりあえずそのままにしておいて、その時代の線路について確認します。

 
初代・2代目駅時代の線路は、現在よりずっと北側を走っていました。
 下の
地図24をご覧ください。
 これは、現在の岐阜駅の東側の地域の衛星写真です。

 
初代駅2代目駅の位置を示しました。
 もちろん二つの駅跡は現代ではまったく昔の痕跡を留めていません。しかし、その時の線路跡は、現在でも道路となって残っています。
 両駅跡を通っている現在の長住町通りもそうですが、他にも、
当時の鉄道線路敷跡で現在は道路となっている部分を見つけることができます。
 どの道かおわかりですか? 


 正解は下の地図25に示した、高森町6丁目B−C田生越(たしょごえ)町にかけての緩やかな曲線道路です。
 以下に写真で現況を紹介します。


 初代岐阜駅(加納駅)と2代目岐阜駅跡付近の現況

 では、上の地図25に示された部分の現況を写真で紹介します。

 写真14−02(撮影日 08/03/03)  写真14−03(撮影日 08/03/03)

 写真14−02地点(高森町6丁目)の現況です。方向を写したものです。微妙にカーブした路地が旧線路跡です。
 写真14−03
地点(田生越町)の現況です。方向を写したものです。旧線路跡は、二つあるマンションのうち、左手のマンションへ向かっています。

  写真14−04                                     (撮影日 08/03/03)

 地点の安良田町から名鉄各務原線の安良田踏切方面を写したものです。
 旧線路は、右手から道路を横切って左手のマンション方向へ伸びていました。 


 写真14−05
(撮影日 08/03/03)


 写真14−04と同じく
地点から、写真14−04とは反対側の南方向を写した写真です。(上の地図ではから方向を写したものです。)

 手前の高架橋はJRのものです。
 上下2段となっています。
 上は東海道線、下は、高山線です。
 下段を
特急ひだ号が通過中です。

 道のはるか遠方には、
名鉄名古屋本線の踏切があって、赤い電車が通過中です。

 この道路は江戸時代に、岐阜町と尾張藩の城下町名古屋方面を結ぶ主要街道でした。
 


 写真14−06
(撮影日 08/03/03)

 上の写真14−04の安良田町踏切から撮影した名鉄各務原線の名鉄岐阜駅方面。
 
 東海道線初代岐阜駅ができた当時は、まだ名鉄各務原線は建設されていませんでした。
 
 駅は、写真の右手にあったと推定されています。 

 名鉄岐阜駅は電車のすぐ先にあり、普通電車は、駅に到着する寸前です。


 写真14−07
(撮影日 08/03/03)

 上の写真の手前の踏切から撮影した名鉄各務原線名鉄岐阜駅。手前の踏切は清住町踏切。

 往年のスター電車、パノラマ・カーが、犬山行き普通電車として発車を待っています。

 右は中部国際空港行き急行電車です。
 


 写真14−08
(撮影日 08/03/03)

 最初の東海道線が走っていた現長住町通り。
 初代岐阜駅があった場所から、西方、2代目岐阜駅があった方を臨んでいます。

 バスが横切っているところが、現神田町通り(長良橋通り)、つまり旧八間道です。
 
 


 写真14−09
(撮影日 08/03/03)

 上のと同じ長住町通りを、逆に西側から撮影した写真。
 右手には以前は
パルコビルがあり、右手奥Loftの手前には名鉄岐阜駅(新岐阜)百貨店ビルがありましたが、この3年の間に両方ともすっかりなくなりました。
 


 写真14−10
(撮影日 05/01/22)

 ノスタルジーに駆られて、古い写真の登場です。
 
 Loftの屋上駐車場から撮影した、旧新岐阜百貨店前スクランブル交差点です。
 2005年3月31日で廃線となった名鉄市内線(揖斐線)の電車が通過中です。
 


 写真14−11
(撮影日 05/03/01)

 同じスクランブル交差点を、JR岐阜駅のホームから撮影した懐かしの写真です。

 名鉄岐阜駅前停留所を発車した揖斐線電車が、忠節方面へ向かってスクランブル交差点を通過中です。
 


 写真14−12
御大典祈念勧業共進会協賛会編「岐阜名勝案内」(1915年発行)より。

 八間道(現神田町通り、長良橋通り)の大正時代初期の様子です。

 美濃電気鉄道(現名鉄)の市内電車が走っています。


 
 


 初代加納駅、2代目岐阜駅の場所と旧線路跡を中心に、岐阜駅の変遷を紹介してきました。
 このページはこれぐらいにして、次ページは、3代目岐阜駅の変遷をお送りします。


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