岐阜県の東海道線あれこれ13
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 穂積駅建設と高架(盛り土)2 高架(盛り土)の話

 「穂積駅建設と高架(盛り土)1 踏切の話」では、踏切の考察を通して、木曽川鉄橋−長良川鉄橋−揖斐川鉄橋間の高架(盛り土)について基本的な知識を説明しました。
 このページでは、本題の
穂積駅を含む長良川鉄橋−揖斐川鉄橋間の高架(盛り土)本体について考えます。

 その際の問題点は、次の二つです。

 初めは駅もなかった長良川鉄橋−揖斐川鉄橋間はいつ高架(盛り土)となったのか。

 いわゆる都心部の踏切における交通渋滞緩和という理由はあまり考えられない瑞穂市(旧本巣郡穂積町・巣南町)の田園地帯で、なぜ鉄道を高架(盛り土)とする必要があるのか?


 では、また地図や写真や黒板を使って説明しましょう。


 最初は建設された年代です

 まずは単純な質問です。
 あまり参考資料がありませんから、ほとんど勘で答えてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 下に関連の年表を示します。



岐阜県内の東海道線建設に関する年表
青字は岐阜県に関する記述

年・月

開通区間及び事件

1882年

03

金ヶ崎−長浜(38.6km)※途中の柳ヶ瀬トンネルは未開通。2年後、1884年開通。(42.5km) 

05

大津−長浜間に太湖汽船開業

11

長浜停車場駅舎完成(現存する最古の駅舎)

1883年

05

長浜−関ヶ原(23km)開通

1884年

05

関ヶ原−大垣(13.6km)開通

1886年

03

武豊−大府−熱田(33.2km)開通  05熱田−一ノ宮開通  06一ノ宮−木曽川開通 

07

幹線鉄道建設を中山道から東海道に変更 伊藤内閣総理大臣が東海道幹線鉄道着工指令

12

揖斐川橋梁、長良川橋梁完成(木曽川橋梁は建設中)

1887年

01 大垣−加納(岐阜)開通 04加納−木曽川開通 ※これにより金ヶ崎−武豊間開通

1888年

03

加納停車場の位置を西へ移転  12加納停車場を岐阜停車場と改称

1889年
(M22)

04

新橋−長浜間に直通列車運転開始 琵琶湖の太湖汽船を利用して新橋−神戸間の列車・蒸気船輸送完成

07

湖東線 馬場(現膳所)−米原−深谷(69.6km) 米原−長浜(7.4km)開通
鉄道による新橋−神戸間全通

1891年

10

尾大地震発生 木曽川・長良川・揖斐川橋梁損壊

1895年

04

東西幹線の名称を正式に「東海道線」と制定

1896年

07

長良川・犀川(さいかわ)間の洪水により穂積地区線路流出被害

1899年
(M32)

10

米原−関ヶ原間に柏原経由の新線開通  
07熱田−名古屋間複線化完成 ※東海地方の東海道線で初の複線化
 

1906年

08

穂積駅開設 ※穂積駅は高架(盛り土)上に建設

1908年

04

大垣−穂積間複線化・高架(盛り土)化完成

1909年

06

穂積−長良信号所間複線化完成

   

 長良川鉄橋と揖斐川鉄橋の間の高架(盛り土)工事が完成したのは、明治の末年、1908年です。(明治41年)
 1890年代から進められていた東海道線の複線化改良工事にともなっって、これまで駅のなかった
長良川−揖斐川間に穂積駅が建設され、また、その間4kmも高架(盛り土)化されました。


  写真13−01                                     (撮影日 07/11/05)

 現在の穂積駅
 初代の駅は、盛り土の上のホームの位置にあって、下部のトンネルから階段で上がるという、当時としては斬新な発想で作られていました。
 この駅ができた時は周囲は水田や遊水地で、家は一軒もありませんでした。
 年内に8軒、翌年中に18軒の家が建ち並び、開業6年目には38軒になったと記録に残されています。このころの一日の停車列車数は上り10本、下り9本でした。また、利用客数は、1日僅かに80人程度でした。
  ※穂積町史編纂委員会編『穂積町史 通史編 下巻』(1979年)P581

 しかし、開設から20年後の昭和初期(1920年代後半)になると、一日の利用客は600名前後となり、当初の駅構造では手ざまとなりました。このため、駅南側に用地を得て新駅舎を建築しました。

 3度目の改築で現在の駅のようになったのは、1985年のことです。 


  写真13−02                                     (撮影日 07/12/30)

 穂積駅のプラットフォームの西端から、穂積駅に近づく上り線(岐阜方面行き)の電車を撮影したものです。


 なぜ高架(盛り土)に?その理由は?

 では、なぜ高架(盛り土)にする必要があったのでしょうか。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 下の地図をご覧ください。現在の東海道線と江戸時代の中山道のルートを比較したものです。

 中山道のルートは、現在の岐阜駅南にあった加納城下を出たあと、そのまま西に進み、河渡で長良川を渡河し、旧巣南町(現瑞穂市巣南)まで進んで、そこから南下していました。
 
 これは、途中に美江寺観音という有名な観音様のある集落を通るという理由の他に、瑞穂市南部(旧穂積町)の
低湿地帯を避けるという重要な理由がありました。

 律令時代の
東山道(とうざんどう)という幹線道路がこの地域を通っていました。そのルートは上の地図のエリアのさらに北側(山側)になり、旧穂積町が属していた本巣郡地域では、北の旧真正町(現本巣市)を通っていました。
 これまた、低湿地帯を避け、水害を心配しないためです。


  写真13−03                                     (撮影日 05/03/05)

 旧名鉄揖斐線沿線にあった、旧東山道跡。旧政田駅東。(岐阜・美濃・飛騨「名鉄揖斐線・廃線物語」はこちらです。→


 東海道線が通っているこの地域は、岐阜県の南部地方の地理上の話題として有名な木曽川・長良川・揖斐川に挟まれた輪中地帯の最北部に当たります。

 水害こそが、この地域最大の自然災害であり、東海道線もまたその被害を免れませんでした。
 岐阜県における
明治時代最大の被害となっ1896(明治29)年の大水害はもちろんのこと、1893(明治26)年、98年、99年、1901年、1903年、1905年、1906年と毎年のように水害による被害を受けました。

岐阜県編『岐阜県史 通史編 近代下』(1986年)P1071

戸田清著『東海道線の発祥から郷土の鉄道を検証する 「穂積駅」開業100周年記念』(自家出版 2006年)P159

 高架(土盛り)化は、洪水対策においても、また橋梁を越えるために短い区間でアップダウンをくり返すことへの対策においても、絶対必要だったのです。


 下の地図は、長良川・揖斐川間にある主な河川を示した写真です。
 東から
糸貫川中川五六川犀川(さいかわ)です。


 これは大事な「遺跡」です

 次の写真を見てください。
 下り大垣方面行き電車の内部から撮影したものです。穂積駅の西、
瑞穂市立図書館の北の部分です。
 ここに写っている
は、100年前の高架(土盛り)化と関係あります。

 写真13−04                                     (撮影日 07/12/30)

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 写真13−05                                     (撮影日 07/11/03)

 上の写真13−04の池を瑞穂市立図書館から撮影したものです。いつ見ても誰かが魚釣りをしています。


 写真13−06                                     (撮影日 08/01/02)

 前方右に見える池も鉄道池。下り線大垣方面行き電車から撮影しました。上の写真13−05の写真よりもさらに少し西で、こちらは線路の北側です。


 写真13−07                                     (撮影日 1987年)

上の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステム(試作版)のカラー空中写真から引用しました。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)の写真から作製しました。

 上の写真13−05写真13−06の鉄道池を空から見た写真です。斜めに横切るのが東海道線です。右上端に穂積駅があります。右手の川は中川、左手の川は五六川です。
 鉄道池は中央の線路の北と南に2個確認できます。1987年に撮影された写真です。


 では最後に高架(土盛り)部分の紹介写真です

 それでは、最後に、高架(土盛り)部分の紹介写真をいくつか掲載します。 
 写真13−08                                     (撮影日 07/11/03)

 上り線(岐阜方面行き)の先頭車両からまもなく到着する穂積駅手前を撮影しました。線路間隔が広がっているのは中川鉄橋の部分です。その先、直線部分から少し右に曲がると穂積駅です。


 写真13−09                                     (撮影日 08/02/11)

 五六川鉄橋と中川鉄橋の中間部分ですれ違う上下線です。


 写真13−10                                     (撮影日 08/01/02)

 犀川鉄橋手前の下り線を走る電車の先頭車両から対向してくる上り線電車を撮影しました。上り線電車は、五六川鉄橋の東を通過中です。


 写真13−11                                     (撮影日 08/01/02)

 揖斐川鉄橋の東から鉄橋への勾配を登ってくる下り大垣方面行き電車を撮影しました。


 写真13−12                                     (撮影日 07/11/19)

 犀川鉄橋から揖斐川鉄橋を撮影しました。上り岐阜方面行き電車がやって来ます。


 写真13−13                                     (撮影日 08/02/11)

 五六川鉄橋の向こうに夕陽が沈みます。
 通過しているのは、13:50長野発、名古屋を経て大阪へ向かう特急しなの16号です。他の特急しなの号は名古屋止まりですが、この1往復のみは大阪と結んでいます。


 これで、「穂積駅建設と高架(土盛り)」を終わります。つぎは、「岐阜駅の変遷」です。

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