岐阜県の東海道線あれこれ15
 岐阜県の東海道線についてあれこれ紹介します。
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 岐阜駅の変遷2 3代目岐阜駅と東陸橋

 3代目岐阜駅への移転

 八間道の南端にあった2代目岐阜駅ですが、大正時代になってから2度目の移転が計画されます。
 県都の玄関口として乗降客は次第に増加し、停車する列車の本数も取り扱う荷物の量も増加して、駅は手ざまになってきていました。
 しかし、岐阜駅周辺には民家が建て込み、駅用地の拡張もままならない状況でした。

 1891年の地図から作製した2代目岐阜駅周辺の街路・市街地の状況図です。2代目駅と旧中山道沿いの加納町の間には、比較的広い田地が広がっていました。


 このため、1909(明治42)年になって、鉄道院は岐阜県知事に対して岐阜駅の南方への移転の検討を諮問しました。
 この結果、次の移転計画の概要がまとまりました。
  ・岐阜駅を南方、
岐阜市と加納町の境界に移転する。
  ・
八間道(現神田町通り)を直進して加納町に通入させる。
  ・新駅の敷地は7000坪とする。
  ・工事費として22万5000円を見込む。

 しかし、さらにこのあとに反対運動や、買収を巡る疑獄事件等があって計画は若干変更されました。
 この結果、駅舎の本体が当初の計画より東に移され、八間道を直進して加納につなげることはできなくなりました。
橋本巽編『岐阜駅七十年史』(岐阜駅史刊行委員会 1952年)P42

 3代目岐阜駅の開業は、1913(大正2)年7月22日でした。

 写真15−01             岐阜市編初代『岐阜市史』(1928年発行)のP376の掲載写真

 3代目岐阜駅の駅舎です。
 この駅舎は、もともと1896年7月に
関西鉄道愛知駅の駅舎として建てられたものです。
 
関西鉄道というのは、名古屋と京都を旧中山道沿いではなく、旧東海道沿いに結ぼうとする民間鉄道会社で、国有の東海道線の開通の後、おもに三重県の地元の資本家等によって設立され、東海道線と競争する立場にありました
 関西鉄道の愛知駅は、現在のJR名古屋駅の南500mに建てられ、瀟洒な洋風建築を特色としていました。
 しかし、
鉄道国有化法の成立によって、関西鉄道も1907年に国有鉄道に併合され、その路線は現在のJR関西本線となりました。この結果、東海道線名古屋駅と愛知駅の二つが存在する必要がなくなり、旧関西鉄道愛知駅は現在の名古屋駅に統合されました。これにより、駅舎は不必要になり、解体・移転されて新たに3代目岐阜駅として再生したというわけです。
 この駅舎は、1945年7月のアメリカ軍の
岐阜空襲で焼失するまで使われました。
  ※吉岡勲監修市川徳男企画松尾一編著『写真集加納百年』(郷土出版社 1985年)P37解説より

 写真に路面電車が映っています。
 これは、
美濃電気軌道(現名鉄電車)の市内線(2005年3月末に廃線となりました)です。
 美濃電気軌道は、1911年に2代目岐阜駅前と今小町間に市内線を敷設しており、岐阜駅の移転にともなって、線路は
3代目岐阜駅前まで延長されました。


 東陸橋

 駅本体の位置が、当初の計画から東へ移動したため、八間道(現神田町通り)を直進して加納と結ぶことはできなくなりました。
 この結果、
駅の東を陸橋で迂回する道が造られました。
 これが、近年の鉄道高架事業完成ののちに撤去されるまで存続した、
東陸橋の起源です。
 陸橋は3代目駅開業と同じ1913年に開通しています。駅移転地には、水野墓地と呼ばれる墓地があった小高い場所(地図26の墓地)が含まれていましたが、そこを平坦地にする際に土を削って、それを陸橋の土盛りに使ったとのことです。(前掲『写真集加納百年』より。)

 駅移転の7年後、1920年の状況を示した地図です。
 1914年12月に
美濃電気軌道(現名鉄電車)の郊外線(現在の名古屋本線)が、新岐阜駅まで延長され、東海道線の上を、道路橋と鉄道橋の2本がまたぐ形となりました。
 もっともこの時の新岐阜駅は、現在地とは違っていました。線路は東海道線をまたいで北側に出たあと、すぐに西に90度カーブして、八間道の岐阜駅前への延長道路を通る市内線に結ばれており、新岐阜駅は、延長道路と繋がる手前に存在していました。  


 しかし、厳密に言うと、最初の陸橋がそのまま廃止まで続いたのではありません。
 下の2枚写真を見てください。

  写真15−02  御大典記念勧業共進会協賛会編『岐阜名勝案内大正4年』(1915年)の写真より複写 

 東海道線をまたぐ鉄道橋を渡る美濃電気軌道の郊外線電車です。東海道線の北側、鉄橋の西側から撮影です。


  写真15−03                              1975年の航空写真

上の写真は、国土交通省のウェブマッピングシステムのカラー空中写真から引用しました。こちらです。国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)

  まだ鉄道高架になる前、1975(昭和50)年の東陸橋の航空写真です。上が北、右が東です。

 写真15−02写真15−03を比較すると、同じ陸橋でも「変化」があることに気付かれるでしょう。

 そうです、最初の状態では、東海道線をまたぐ橋は、東側が道路橋、西側が鉄道橋でしたが、1975年の航空写真では、東側が鉄道橋、西側が道路橋となっています。

 実は、道路(国道157号線)橋は、戦後に掛け替えられました。当初は鉄道橋の東にあったものが、新しく西側に道路幅を広げて掛け替えられ、
1956(昭和31)年5月15日に完成したのです。 
渡利正彦著『岐阜駅物語』(岐阜新聞社 2001年)P128

 地図28は、東陸橋周辺の変遷図です。
 東陸橋ができた当時は、陸橋
が東側、美濃電気軌道(現名鉄)の跨線橋が西側でした。
 この時の線路
は跨線橋を越えた北側で90度西へカーブし、新岐阜(現名鉄岐阜)駅は、今の河合塾ビルの西側にありました。
 1948年、名鉄線路は、跨線橋を渡ってそのまま直進するように付け替えられ、新岐阜駅は現在地に移転しました。
 1956年、道路橋は、名鉄の跨線橋西側、
の位置に新しく建設されました。
 1998年のJR線の高架完成後、東陸橋が撤去され、現在の国道157号線
の状況となりました。 


  写真15−04                                     (撮影日 08/03/03)

 地図28のエリアを、駅前通を跨ぐ歩行者デッキの上から、東方向を撮影しました。
 手前が駅前通、その先は国道157号線が右(南)に90度カーブしてJR高架の下をくぐります。
 奥の土手上は名鉄岐阜駅です。赤と白の電車が停車しています。右端はJR高架で、上り電車が通過中です。
 中央の河合塾の前の道が高くなっている部分が旧東陸橋取り付け道路の遺構部分です。陸橋のあった時は、現在の157号線の一番南の車線部分が陸橋への取り付け道路でした。
 最初の名鉄線もその取り付け道路の南側半分と重なっており、写真中央右の解体中のビルの手前の空き地部分(最近まで2階建てのビルがありましたが解体されました)が初代の新岐阜駅(美濃電気軌道岐阜駅)でした。
 


 現在の東陸橋

 現在では、岐阜駅周辺高架事業(駅舎の完成は1998年3月完成)によって、周辺は高架となっています。
 高架事業の計画の際、従来の東海道線をまたいでいた名鉄本線をそのまま残す、「
名鉄2階国鉄(現JR)3階」案が採用されたため、線路はかなり高い位置を通っています。
 
JR線と名鉄線のクロス部分の現況です。 

  写真15−05                                     (撮影日 06/11/05)

 上の写真15−02とほぼ同じアングルのJRと名鉄のクロス部分の現在の状況です。名鉄線は2階をJR線は3階を走ります。
 この段階では、この地域の
道路(国道157号線)の付け替え工事も完成し、名鉄線路の西側に1956年に建設された新東陸橋は完全に撤去されて姿を消しています。
 このため、大正時代と同じアングルの写真の撮影が可能となりました。


  写真15−06                                     (撮影日 08/03/15)

 JRと名鉄のクロス。上の写真とは反対の、高架橋の南側、国道157号線の西側の歩道からの撮影。


  写真15−07                                     (撮影日 08/03/15)

 上の写真と同じ、クロスの南側、国道の東側の歩道からの撮影。歩道右手の土留めブロックの上の枯れ草のあたりが、旧東陸橋の歩道部分の端にあたります。


  写真15−08                                     (撮影日 06/11/05)

 国道157号線のJRの高架橋の真下から東方向を撮影したものです。高架橋の下は何もありません。


  写真15−09                                     (撮影日 06/11/05)

 名鉄の線路橋の南端のアップです。この橋の名称は、いまでも「JR東海跨線橋」です。もちろん、今では跨ぐ線路はありません。煉瓦積みがこの高架部分の歴史を物語っています。


  写真15−10                                     (撮影日 06/11/05)

 「名鉄跨線橋」の北端部分。同じく煉瓦積みです。


  写真15−11                                     (撮影日 08/03/15)

 名鉄岐阜駅を出て、跨線橋に入ろうとする上り普通電車。中央の高架土盛りをくぐるトンネルもまた、大正時代からの貴重な遺物です。岐阜シティ・タワー43の展望室からの撮影です。


  写真15−12                                     (撮影日 05/01/22)

 この写真は名鉄岐阜駅とそれを跨ぐJR高架橋の全貌を示したものです。駅の4番線には、往年のスター電車、パノラマカーが停車しています。JR高架橋上は、高山発名古屋行き特急ひだ号です。岐阜駅を出たところです。
 この写真の撮影場所は、各務原線名鉄岐阜駅の隣にある、Loftの駐車場の最上階です。


  写真15−13                                     (撮影日 05/01/22)

 上と同じ場所から撮影したクロス部分のアップです。写真15−08で紹介した名鉄の跨線橋は、実は現在に至るまで単線です。


 このページでは、1913年の3代目駅への移転と、その時点から存在していた、東陸橋及びその直後に作られた名鉄の跨線橋について紹介しました。
 次は、高架事業そのものについて紹介します。


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