岐阜の原風景・現風景5
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
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 JR岐阜駅北口前広場の織田信長像と岐阜の歴史 その2
 
 信長以後の岐阜城と岐阜町の歴史

 岐阜にとって織田信長とは何なのか?
 岐阜城在城は、1567年から1576年までの僅か9年に過ぎなかったにもかかわらず、信長はなぜ、岐阜駅の正面に金銅像姿で立つことになったのか?
 このページと次のページへかけては、それを考えていきます。
 
 まず最初は、信長が居城を岐阜城から安土城へ移したあとの、その後の岐阜城の様子です。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 織田信長は、琵琶湖畔の安土に壮麗な安土城を建設しました。
 左上 写真01 安土城大手門 (撮影日 01/05/06)
 右上 写真02 安土城復元天守 (撮影日 同上)
 左下 写真03 安土城天守跡  (撮影日 同上)
 

 写真04 安土城天守跡からの眺望。(撮影日 01/05/06)
 標高329mの岐阜城と違って、安土城は、標高180m余りの安土山の麓から頂にかけて築造されており、平山城となっています。北側には、琵琶湖が眺望できます。
 現代では、干拓によって琵琶湖岸までは水田となっていますが、当時は山麓まで湖が広がっており、琵琶湖水運によって移動できたと考えられます。
 


 岐阜城は、信長が去った後、25年目にして、破壊されました。つまり、江戸時代には、岐阜城は存在しなかったのです。この点は、現代の岐阜市を考える際のとても重要な歴史的事実です。
 
 では、江戸時代の岐阜はどうだったか?
 これに答える前に、もう一つクイズをします。岐阜城が存続した25人年の間に、岐阜城の城主となったのは何人だったでしょうか。

 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 写真05 岐阜城と岐阜シティー・タワー43、そして御嶽山です。(撮影日 08/02/01)
 冬の晴れた日には、岐阜市内からも標高3063mの御嶽山を遠望することができます。金華山のすぐ向こうに見えますが、金華山山頂から御岳山頂(岐阜県と長野県の県境)までは、直線距離にして81.4kmほどあります。新宿駅と富士山頂との直線距離が約95kmですから、それよりはちょっとだけ近い関係になります。 


 ここで、近世初期の岐阜城と岐阜町の歴史を簡単に年表にまとめます。

※参考文献

 横山住雄著『岐阜城』(濃尾歴史文化研究所 改訂版 2005年)

 岐阜市編『岐阜市史』(岐阜市 1928年)

   松田之利・谷口和人・筧?生・所史隆・上村惠宏・黒田隆志著『岐阜県の歴史』(2000年 山川出版) 


 岐阜城及び近世初期の岐阜の町の歴史

西 暦

元 号

 主な出来事

1539

天文8

 斎藤道三が金華山(当時は稲葉山)の北西の峰である丸山にあったを伊奈波神社を現在地に移し、稲葉山を居城とする。

1554 

天文23

 斎藤道三は、美濃の守護である土岐頼芸を追放する。家督を子どもの斎藤義龍に譲る。義龍、稲葉山城主となる。

1556 

弘治2

 道三は子の斎藤義龍と前年から敵対。この年、道三が敗れ討ち死に。

1561 

弘治2

 斎藤義龍急死、子の斎藤龍興が家督を相続。

1567 

永禄10

 織田信長が稲葉山城を攻略、斎藤龍興は逃亡。信長は、それまで井の口と呼ばれていた城下町を、岐阜と改称し、岐阜城主となる。

1569 

永禄12

 宣教師ルイス・フロイスが岐阜城へ来城。

1575 

天正3

 織田信長の長男の織田信忠が、信長から美濃・尾張両国を譲られ、岐阜城主となる。

1576 

天正4

 織田信長が安土城へ移る。

1582 

天正10

 本能寺の変起こる。織田信長、岐阜城主織田信忠、ともに明智光秀に討たれる。
 岐阜城は信長三男信孝の家臣、斎藤利堯が乗っ取る。
 羽柴秀吉が明智光秀を倒すと、斎藤利堯は信孝に降服。
 柴田勝家・羽柴秀吉ら信長の家臣が開いた清洲会議で、信忠の嫡子三法師(信長の孫、のち秀信)が信長後継者とされ、信孝が三法師を擁して岐阜城主となる。

1583 

天正11

 信孝が秀吉に離反、挙兵。柴田勝家を破った秀吉軍に岐阜城を包囲され、降服。
 代わって、信長の家臣で秀吉に臣従した池田恒興が西美濃を与えられ、大垣城主となる。岐阜城はその嫡子の池田元助が入城。

1584 

天正12

 秀吉と徳川家康との間に、小牧・長久手の戦いが起こり、池田恒興・元助父子は長久手で戦死。
 元助の弟、池田輝政が岐阜城主となる。

1591 

天正19

 豊臣秀勝(秀吉の姉の子で、関白秀次の弟)が、新たに岐阜城主となる。池田輝政は三河池田へ転封。

1592 

文禄元

 豊臣秀勝病没。代わって織田信長の孫、織田秀信(嫡子信忠の子、幼名三法師)が、美濃に15万石の所領を得て、岐阜城主となる。

1600

慶長5

 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し、西軍に参加。三成が最初大垣城に陣を構えたため、岐阜城は西軍の最前線の一つとなった。
 徳川家康本隊より先に清洲に到着した東軍の諸将、福島正則・池田輝政らの軍勢は、木曽川を渡河して岐阜城攻めを行い、僅か1日で秀信降服。

1601 

慶長6

 徳川家康は、関ヶ原戦後の大名配置の中で、家康の娘(亀姫)婿、奥平信昌を中山道の宿場町加納の10万石の領主とし、加納城を建設させる。
 家康の信任厚い信昌は、この時点での美濃国最大の石高を与えられ、関ヶ原戦直後の徳川方の西の最前線である近江彦根の井伊直政18万石の後詰めとしての役割を与えられた。
 同時に、隣の尾張清洲には、家康の4男松平忠吉が52万石で封じられており、東近江(彦根)・美濃(加納)・尾張(清洲)と、西の豊臣勢力に対抗するための徳川勢力の重層な配置であった。(松平忠吉が病没すると、家康9男の義直が封じられ、居城を名古屋に移して、以後幕末まで続く尾張徳川家となる。)
 そして、この
加納城建設のために、岐阜城は破壊され、石垣等の資材が利用された。 

 まとめて言います。
 岐阜城は、斎藤道三の以降、信長も含めて、10年に満たない短い期間で城主が次々と代わっていくという、後の時代の人間からすれば、何とも特色を示しにくい、「キャッチーフレーズを作りにくい」城ということになります。
 そして、金華山の頂上の岐阜城は、1601年を最後に解体され、江戸時代は、金華山の頂上には城はありませんでした。代わって、中山道の宿場町の加納に、加納城が築造されたわけです。
 
 ちなみに、金華山の麓には、岐阜の町そのものは残りました。
 廃城直後には、開設された江戸幕府の直轄領となり、美濃国奉行となった大久保長安の支配を受けました。城がなくなったため、岐阜町内の靱屋(うつぼや)町の東側、金華山の西麓に陣屋を構築しました。
 1612年、美濃の国には初めて尾張徳川藩の領地が設定され、以後数度加増されて、総合計13万3000石の石高となりました。尾張藩領全体の石高が、61万1000石でしたから、美濃の国領内にはその21.8%があったことになります。
 実は、江戸時代の美濃国は、
尾張のような一つの国全体を支配する国持ち大名は存在せず、小大名や旗本領が入り組む領地的には複雑な国となりましたが、その中では、石高としては尾張藩領が最大のものでした。
 1619(元和5)年には、
岐阜町そのものが尾張藩領となり、尾張藩の代官が支配しました。この代官職は、1695(元禄8)年からは、尾張藩岐阜奉行と改められ、最初に幕府の陣屋が置かれた場所が、奉行所となりました。 

 近世には、
岐阜町民が見上げる城はなく、また、支配を受ける殿様も実態としては、尾張徳川家という身近には感じることはないものでした。 


 加納城

 関ヶ原の戦いの翌年、加納城が作られました。城主となった奥平信昌の名は、現在も加納の地内に加納奥平町として残っています。加納と岐阜はどのような位置関係にあるのでしょうか? 


 写真06 岐阜駅と加納城                                  (撮影日 09/10/31)
 写真左隅がJR岐阜駅のホーム、中央の緑は加納天満宮の社叢です。その右上少し離れたところの緑が、加納城跡です。
 岐阜シティ・タワー43の43階展望室からの撮影です。


写真07 加納城跡 アップ (撮影日 09/10/31) 

写真08 加納城大手門跡 (撮影日 09/10/31)
 中山道は、手前の路から交差点で右に曲がって、宿場の中心部へ続いていました。
 

写真09 加納城石垣 (撮影日 09/10/31)
 周囲の石垣は昔の名残をとどめています。
 

 写真10 加納城跡内部 (撮影日 09/10/31)
 内部は市民公園です。


 旧中山道加納宿と同時に奥平加納藩の城下町であった加納は、現在は岐阜市加納です。しかし、中山道は岐阜駅から見て南側を通っており、北の金華山山麓の岐阜町とは、2km以上の隔たりがありました。


上の地図は、グーグル・アース(Google Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。


 上の地図は明治も半ばの1892年の公刊地図を使って作成したものですが、この時代になっても、まだ岐阜町加納町との一体化は実現していません。
 現在のJR岐阜駅は、地理的には加納町内に建設するのが妥当でしたが、宿場町加納町の反対があり、その北側、人家もまばらな上加納村と加納町との境目に建設されました。

 また、江戸時代における加納の重要性は、当初から軍事的な理由からの大名配置であったが故に、泰平の世の中では次第に低下していきました。城主も奥平家が最後まで居城したわけではなく、数家が入封しまた移っていきました。1756(宝暦6)年に
永井直陳が武蔵岩槻から転封した時は、石高は3万2000石となり、そのまま幕末まで続きます。

 岐阜駅前に信長像がある理由、次回最後のページでは、岐阜の位置づけとアイデンティティについて考えます。


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