西 暦
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元 号 |
主な出来事
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1539 |
天文8 |
斎藤道三が金華山(当時は稲葉山)の北西の峰である丸山にあったを伊奈波神社を現在地に移し、稲葉山を居城とする。
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1554 |
天文23 |
斎藤道三は、美濃の守護である土岐頼芸を追放する。家督を子どもの斎藤義龍に譲る。義龍、稲葉山城主となる。 |
1556 |
弘治2 |
道三は子の斎藤義龍と前年から敵対。この年、道三が敗れ討ち死に。 |
1561 |
弘治2 |
斎藤義龍急死、子の斎藤龍興が家督を相続。 |
1567 |
永禄10 |
織田信長が稲葉山城を攻略、斎藤龍興は逃亡。信長は、それまで井の口と呼ばれていた城下町を、岐阜と改称し、岐阜城主となる。 |
1569 |
永禄12 |
宣教師ルイス・フロイスが岐阜城へ来城。 |
1575 |
天正3 |
織田信長の長男の織田信忠が、信長から美濃・尾張両国を譲られ、岐阜城主となる。 |
1576 |
天正4 |
織田信長が安土城へ移る。 |
1582 |
天正10 |
本能寺の変起こる。織田信長、岐阜城主織田信忠、ともに明智光秀に討たれる。
岐阜城は信長三男信孝の家臣、斎藤利堯が乗っ取る。
羽柴秀吉が明智光秀を倒すと、斎藤利堯は信孝に降服。
柴田勝家・羽柴秀吉ら信長の家臣が開いた清洲会議で、信忠の嫡子三法師(信長の孫、のち秀信)が信長後継者とされ、信孝が三法師を擁して岐阜城主となる。 |
1583 |
天正11 |
信孝が秀吉に離反、挙兵。柴田勝家を破った秀吉軍に岐阜城を包囲され、降服。
代わって、信長の家臣で秀吉に臣従した池田恒興が西美濃を与えられ、大垣城主となる。岐阜城はその嫡子の池田元助が入城。 |
1584 |
天正12 |
秀吉と徳川家康との間に、小牧・長久手の戦いが起こり、池田恒興・元助父子は長久手で戦死。
元助の弟、池田輝政が岐阜城主となる。 |
1591 |
天正19 |
豊臣秀勝(秀吉の姉の子で、関白秀次の弟)が、新たに岐阜城主となる。池田輝政は三河池田へ転封。 |
1592 |
文禄元 |
豊臣秀勝病没。代わって織田信長の孫、織田秀信(嫡子信忠の子、幼名三法師)が、美濃に15万石の所領を得て、岐阜城主となる。 |
1600 |
慶長5 |
織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し、西軍に参加。三成が最初大垣城に陣を構えたため、岐阜城は西軍の最前線の一つとなった。
徳川家康本隊より先に清洲に到着した東軍の諸将、福島正則・池田輝政らの軍勢は、木曽川を渡河して岐阜城攻めを行い、僅か1日で秀信降服。 |
1601 |
慶長6 |
徳川家康は、関ヶ原戦後の大名配置の中で、家康の娘(亀姫)婿、奥平信昌を中山道の宿場町加納の10万石の領主とし、加納城を建設させる。
家康の信任厚い信昌は、この時点での美濃国最大の石高を与えられ、関ヶ原戦直後の徳川方の西の最前線である近江彦根の井伊直政18万石の後詰めとしての役割を与えられた。
同時に、隣の尾張清洲には、家康の4男松平忠吉が52万石で封じられており、東近江(彦根)・美濃(加納)・尾張(清洲)と、西の豊臣勢力に対抗するための徳川勢力の重層な配置であった。(松平忠吉が病没すると、家康9男の義直が封じられ、居城を名古屋に移して、以後幕末まで続く尾張徳川家となる。)
そして、この加納城建設のために、岐阜城は破壊され、石垣等の資材が利用された。 |