岐阜の原風景・現風景2
 写真を題材に、岐阜の「名所」を紹介します。
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 濃尾大震災その2 北方町の惨状と根尾水鳥断層 

 地震は、岐阜県の美濃地方に大きな被害をもたらしました。
 中でも、震源の根尾村を含む本巣郡地域は、甚大な被害を被りました。
 本巣郡の総戸数6,799戸のうち、全壊5,567戸、半壊1,224戸と、全半壊率99.88%という惨状でした。
  
 下の写真は、被害がひどかった本巣郡の北方村(現北方町)の様子です。


【写真5】 解説地図へ戻る
 
濃尾大地震(北方町)

この写真は、「長崎大学付属図書館 幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て複写・掲載しました。

この写真の入手先や方法の詳しい説明は、こちらのページです。

  

 北方は地震発生時の1891年当時、全戸数は712戸でしたが、全壊602戸、半壊・傾斜110戸と、被害率100%の惨憺たる状況を呈しました。

北方町編『北方町史』(1982年)P414
岐阜県編『岐阜県史 通史編近代下』({1972年)P1131


 上の写真は、岐阜方面(写真の奥の方)から西進してくる岐阜街道が町の中心部を通っている部分で、仲町から駒来町・新町方面を撮影したものです。街道の延長線上にぼやけて映っている山は、金華山です。街道のちょうど延長線上に頂上が位置しています。
 
 同じ所の現在の写真が、下の写真です。昔と同じく、延長線上に金華山が見えます。仲町からズームレンズで撮影した駒来町・新町方面です。)
 昔に比べて金華山が近くに引っ越してきているみたいですが、実は違います。ズームレンズのなせる錯覚です。

【写真6】 現在の北方町仲町 (撮影日 07/05/18)


 さてさて、濃尾大震災といえば、最も有名なのは、震源地の根尾村水鳥(みどり)にできた断層です。


【写真7】 解説地図へ戻る
 「濃尾大地震(根尾村水鳥の断層)
1893(明治26)年)ミルン・バートン撮影。

この写真は、「長崎大学付属図書館 幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て複写・掲載しました。

この写真の入手先や方法の詳しい説明は、こちらのページです。

 地震から2年後の根尾谷水鳥の断層です。
 濃尾地震では、地表に現れたものだけでも80kmにも及ぶ断層が確認されました。これがそのうちでも最も有名な根尾谷水鳥の断層です。断層崖は、地震直後はほぼ垂直だったとのことです。

 以下は、現在の根尾谷断層です。


【地図2】 解説地図へ戻る
航空写真を元に作成した根尾谷水鳥の断層です。

 黄色い線が断層、赤い
は根尾谷断層観察館、青いはは断層展望広場です。

 この航空写真そのものは、1975年のものを使っています。

航空写真は、国土交通省ウエブマッピングシステムの国土画像情報(カラー写真)から複写しました。こちらです。


 本巣市の中心部から国道157号線を北上すると、30分とかからず根尾谷断層に到着します。
 岐阜市の中心部からは1時間ほどです。


【写真8】 解説地図へ戻る    断層の手前に小さい丘があって、その頂部に断層展望広場があります。
 揖斐の山々がとてもきれいに展望できます。残念ながら山の名前までは分かりません。

 広場の中央の建物の中には・・・・。
(撮影日 07/05/21)
  



【写真9】 解説地図へ戻る
 建物のの中には、ちゃんと断層の写真があります。そして、その先は、現在の断層です。



【写真10】  解説地図へ戻る 
 左の写真の金網のすぐ向こうの部分が現在の断層です。


 

【写真11】 解説地図へ戻る
 現在の断層。
 乗用車が映っている部分が坂の部分。そこから左手へ断層が走っています。右手の四角錐の建物は断層観察館です。



【写真12】 解説地図へ戻る
 赤い文字の看板の所が断層です。
 何も案内がないと単なる堤防としか見えません。



【写真13】 解説地図へ戻る
 断層の手前からの撮影です。



【写真14】 解説地図へ戻る
 断層の正面からの撮影です。
 単なる河岸段丘か堤防のように見えます。

 以上、濃尾大震災の写真からアプローチしてみました。

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