名鉄揖斐線・廃線物語12
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 □最後の日
    
 コネックス社                                        

 2004年7月22日に細江茂光岐阜市長が「名鉄3線存続断念」を決断した段階で、岐阜市など沿線自治体による存続の可能性はなくなりました。
 ところが、10月になって、市民を喜ばせる報道がありました。
 なんと、フランスのコネックス社という大手交通会社が名鉄3路線の継承を検討しているというニュースが報じられたのです。
 ※『朝日新聞』2004年10月5日朝刊
 
 このコネックス社というのは、専門家はともかく、私たち岐阜市民にとっては、これまでまったく聞いたこともない会社でした。
 したがって、新聞に掲載された市民の声も、「外資名乗りに歓迎と驚き」という見出しどおり、「存続すればどこの会社でもいい」という意見から、「残せるのなら日本の会社でやってほしい。」という意見まで、受け止め方は様々でした。
 しかし、私たちは、「ひょっとすると、3路線は残る可能性もあるかもしれない」という期待も抱きました。
 

コネックス社のウエブサイトはこちらです。(ただし英語とフランス語です。)

本社はパリ市にあり、東欧を中心に世界23カ国に鉄道・地下鉄・バスなどの運営受託している会社です。2003年度の売上高は、約5000億円。

 
 11月以降、コネックス社の継承計画の概要が明らかとなりました。

  1. 2006年4月の開業を目指す。

  2. 沿線自治体と10年間の長期契約を締結する。

  3. 自治体は路面電車とバスの独占的営業権を保証する。

  4. 3路線そのままの継承ではなく、既存のバス路線も含めて再編成する。

 これによれば、単に名鉄の3路線を継承するだけではなく、沿線自治体と電車・バスの運行の独占契約を結んで、交通体系を大幅に再編成するという計画です。
 これに対して、岐阜市は、「あくまで1民間企業の進出で行政は事業案を受ける立場」との見解を表明し、コネックス社の自治体に営業独占を保証させる計画に難色を示しました。
 その後、12月には追加提案が示されました。

  1. 2006年4月にはまず路線バス事業に進出する。

  2. その後条件がよければ路面電車の導入を検討する。

 現在、岐阜市とその周辺には、名鉄系列の岐阜バスの路線が張り巡らされており、コネックス社の提案は、現状ではまったく実現不可能な提案でした。

 12月15日にはコネックス社主催の意見交換会が開かれ、沿線自治体などが参加しました。
 この時点は、揖斐線廃止にともなう代替路線として、岐阜バスによる新規路線設置や既製路線の増便も発表されていました。このため、2005年4月以降の代替手段がひとまず確保されたことから、自治体側からは積極的な反応は見られませんでした。
 以後、コネックス社の動きについては、目立った報道はなされておらず、残念ながら名鉄の3路線廃止については、なんら影響を及ぼしませんでした。


 3月、廃線へ向けて                                      | このページの先頭へ |

 2005年3月、廃線まで秒読み段階となると、廃線へ向けていろいろな動き目に付くようになりました。
 まずは、踏切の廃止です。

 3月15日に一斉に踏み切り廃止の予告が掲示されました。
 廃止になる3路線には、合計147もの踏切がありますが、そのすべてに、2枚ずつの看板が掲げられました。  


 左の写真は、黒野駅から100mほど東にある自動車は通れない農道にある踏切ですが、こんな小さな踏切にも、廃止予告の看板が掲示されました。

 右は、そのアップですが、ちょっと見づらいかもしれませんが、「廃止になります。」の「
す。」の文字の右側に縦に線が入っているのが見えますでしょうか。右下はその部分拡大です。









  この看板は、鉄板の上にペンキで文字が書かれているのですが、この線は、実は、この部分だけ、薄い磁石の板で、鉄板の上に「す。」の文字が貼り付けてありました。
 その磁石の薄板をはがすと、下から何が現れるのか、わかりますか?
 もちろん、「廃止になりま
した。」となるようにしてあるのです。 


 それより先、3月7日には、すでに12月に決定されていた、代替輸送手段となる岐阜バスの新路線が、新聞各紙を通して盛大に発表されました。
 揖斐線に関しては、終点黒野駅がある大野町から各地を結ぶ新しい路線が3本(大野穂積線〔大野町−JR穂積駅〕、大野真正北方線〔大野町−新岐阜駅〕、大野北高線〔大野町−岐阜北高校〕設定され、また、旧揖斐線に沿って走る政田忠節線も開設されました。  

 いろいろお話を聞いた、政田駅前のお菓子屋さんの奥さんに、バスの時刻表についても、聞いてみました。

政田駅前の政田菓子店は、こちらでもレポートしています。

「一応バス停ができるわけですから、足は確保されるわけですね。」

奥さん

「ダメダメ本数少ないから。大野北高線は、朝夕の通学時間帯の往復4本だけ。大野真正北方線は昼間はほんの数本、一番多い政田忠節線でも、1時間に1本なんですから。
 このあたりから、北方や岐阜の病院に通っているお年寄りがたくさんいるでしょう。朝は、息子さんなんかに送って行ってもらえるけど、帰りは自分でしょ。とても不便になったわ。」

 

 政田バス停は、旧政田駅の西200mに設置されました。写真の道路の先が踏切で、モ770形が通過中です。
 踏切の手前右側が政田菓子店です。

 基本的には、政田から岐阜市内へは、昼間は、1時間に1本、時々2本というダイヤです。
 揖斐線は昼間でも15分に1本でしたから、その不便さは比較になりません。


 奥さんの怒りはまだ続きます。

奥さん

「それからね、4月から新しくバスが動くっていうのに、この地区はちょうど下水工事の期間とぶつかってしまって、最初の1ヶ月あまりは、ここの前はバスは通らないのよ。」

「え、そんな事始めからわかっているのに、なぜ、この大事な4月に下水工事なんですか?」

奥さん

「予定では3月中に完成するはずだったのに、遅れたのよ。おかげで、電車なくなるは、バスは通らないはで、うちの店は、大ピンチですよ。」


 揖斐線廃止は、政田駅前の菓子店には激震となって襲いかかっています。
 おいしい手作りサンドイッチの店、頑張ってください。時々買いに行きますから。


 廃線2週前の黒野駅に、廃止路線関連グッズを売る売店がお目見えしました。

写真上左 黒野駅の構内に開店した廃止3路線関連グッズの売店。 

写真上左 黒野駅の構内に開店した廃止3路線関連グッズの売店。 


写真下左
 代わりに、美濃町線を走っていたモ593号の模型を購入しました。
 この電車は、9月までは名鉄カラーの赤色に塗装されていましたが、廃線記念に、昔の塗装に塗り直されました。リバイバルカラー版です。 


 最後の日                                             | このページの先頭へ |

 最後の日がやってきました。
 もうどこへ行っても、電車撮影のカメラマンで一杯です。

 私が撮影した写真で、揖斐線の最後の1日を追ってみます。  


 2005年3月31日、最後の日、時刻表通り05時42分に忠節駅を出発した新岐阜駅前行きモ780形。
 05時44分、忠節橋を渡ったところです。
 この電車は、揖斐線のすべての電車の中で一番早く動き出します。

 この写真を撮影した時刻の直後、黒野駅では、05時45分発の新岐阜前行き一番電車が発車します。
  ※撮影場所 忠節橋南の坂


 05時45分に黒野駅を出発した黒野発の1番電車が、6時5分過ぎに尻毛橋梁を渡り終え、坂を下って、旦ノ島駅へ向かいます。

 この電車が通過するほんの少し前まではきれいな朝日が金華山の左手にあったのですが、一瞬遅く、雲の中に隠れてしまいました。
  ※撮影場所 尻毛橋南土手の踏切


 黒野駅、発車を待つ07時00分発のモ780形。先に止まっていた同形と連結して2両で出発です。
  ※撮影場所 黒野駅東
 


 07時15分発のお馴染みのモ780形の3両連結。
 これが最後の3両連結です。
  ※撮影場所 黒野駅東 


 この日、名鉄や沿線自治体は、「最後の日」に関するセレモニーをまったく開催しませんでした。
 その為、「そんなみずくさいことを」というわけで、各地域の団体が、自主的に揖斐線に感謝するイベントを行いました。
 これは、13時から美濃北方駅で開催された揖斐線感謝セレモニーです。
 写真の中のパネルは、名鉄揖斐線の前身、北方軽便鉄道の開業の頃の写真です。
 美濃北方駅がある地区の自治会長さんが、説明されました。
 1914年3月29日の営業開始から、2005年3月31日の営業終了まで、なんと
33,240日の営業でした。
  ※撮影場所 美濃北方駅駅舎前


 近くの幼稚園や保育園の園児の鼓笛隊に歓迎されて美濃北方駅に入る黒野行きモ780形。運転手さんに花束が贈呈されました。
 この日は木曜日でしたから、私は通常の勤務でした。したがって、この写真は、大学合格を決めて毎日遊んでいる次男Yに撮影を頼みました。
 この日の揖斐線は、あちこちで歓迎会が開催され、運転手への花束贈呈などが行われた結果、ひどい時は、通常ダイヤから20分以上遅れました。
 沿線の皆さんの思いを載せて走った1日でした。
 
  ※撮影場所 美濃北方駅


 黒野発新岐阜駅行の最終電車は、22時00分です。
 この日は、歓迎式等のため、20分ほど遅れて出発しました。
 政田駅に入ってきたところです。政田駅東の踏切からの撮影です。
  ※撮影場所 政田駅 


 たくさんの人に見守られて、黒野駅に入る忠節23時00分発黒野行きの最終電車。この日は、乗客も多くなることを見越して、最終電車まで、モ780形は2両連結で活躍しました。
 最後部の運転台の上には、この電車が新岐阜駅で出発した時に贈呈された花束が映っています。

 今日の黒野駅は、遠くから来た人、近所の方、たくさんの人が詰めかけて、深夜まで大にぎわいで揖斐線の労をねぎらいました。 
  ※撮影場所 黒野駅東
 


 最後の日の深夜                                        | このページの先頭へ |

 かくて、最終営業電車が無事黒野駅に到着して、揖斐線はその幕を閉じました。
 通常は、23時23分の到着ですが、この日は、1日中ダイヤが遅れていたため、23時31分の到着となりました。

 さて、営業はこれで終わりましたが、職員の方は、それからが大変でした。
 まず、電車はすべて市ノ坪の岐阜工場へ回送されました。
 すでに黒野に到着していて、本来なら黒野駅で夜を過ごすはずの電車は、20時台から次々と回送電車となって、忠節−徹明町−市ノ坪へと回送されました。

 最終電車の回送は、23時38分から行われました。
  


写真左
 黒野駅に到着した最終電車は、すぐに、表示を「回送」と切り替えました。
 見守る人の注視振り切って、僅か7分ほどの停車で、モ780形は数年間毎晩ねぐらにした黒野を後にしました。

写真下左
 市ノ坪で最終回送電車の到着を待つ揖斐線の電車群。



 

写真下右
 先に待っていたモ770形高橋尚子デザイン電車の横に、最後まで活躍したモ780形の2両連結が並んで停留しました。
 電気が消えました。
 次にこの電車が動くのは、いつのことでしょうか。
  


 最後の回送電車が市ノ坪に入ると、「撤収」の作業が始められました。
 
 市内にあった、電停の標識はすぐに回収されました。
 踏切にあった、「廃止になります。」は、磁石の薄板をはがして、「廃止になりました。」に変えられました。
 踏切の竿は撤去されました。
 踏切の信号機には黒いビニールシートがかぶせられ、グロテスクな造形物に変えられました。・・・・・・

 かくして、揖斐線は廃線となりました。


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