名鉄揖斐線・廃線物語13
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 □断章 その1
    
 語り鉄                                            

 4月1日から名鉄揖斐線が走らなくなって1週間と少し。
 「揖斐線がない日常」は次第に、定着しつつあります。
 4月8日は、この地域の多くの高校で始業式・入学式がありました。9日の朝刊各紙には、高校生が多く利用する揖斐線代替バスが、さほどの遅れも混雑もなく運行されたことを報道しました。
 この「廃線物語13」は、これまでの写真集A・Bにもれてしまった、テーマ性はないけれど、私のオリジナル要素の強い写真と、廃線から今日(平成17年4月9日)までに撮影した写真とで、在りし日の揖斐線と廃線後の様子を説明します。
 今回は、その1です。

「オリジナル要素の強い写真」という表現の意味について説明します。
 鉄道ファンには、「撮り鉄」と「乗り鉄」の二つのタイプがあるといわれています。鉄道を撮影することが好きな人と、鉄道に乗ることが好きな人の二つです。
 何事にも、人と同じことをするのが嫌いな私は、同じ鉄道ファンでも、さしずめ第3の存在、「語り鉄」です。つまり、鉄道を語るのが好きなファンという存在です。
 「プロ」の「撮り鉄」ではありませんから、カメラ使いもへたですし、誰かの撮った写真とよく似た写真というのも、当然この「廃線物語」には多く登場します。普通に常人が考える場所から普通の方法で写真を撮ると、だいたい同じような写真になってしまうのが、むしろ普通です。

 しかし、鉄道を語るという発想に基づいて、ちょっと奇抜な視点や方法を考えだし、挑戦回数を増やして努力すると、他人の写真集には見られない「作品」ができます。
 これがオリジナル要素が強い写真です。
 「廃線物語」に掲載してあるうちで、オリジナル要素の強いベスト3は、次のものになるでしょう。

虹のアーチの下を走る電車

春分の頃の太陽を背にした一番電車

観覧車と電車

 
 以下の写真は、テーマはバラバラですが、「語り鉄」の特色を生かした、写真というわけです。


 忠節橋は、尻毛橋・薮川橋とならんで、揖斐線電車撮影の3大人気ポイントでした。
 ただし、尻毛橋・薮川橋が周りの自然豊かな情景とのセットで写真になるのに対して、忠節橋は、橋そのもの形状が美しくまたダイナミックで「絵」になる橋です。

 左の写真は、黒野行きが忠節橋を渡りきって、橋の北詰の早田停留所に着く直前のモ770形です。

 橋の鉄骨の構造がとてもダイナミックです。
 (撮影日 05/02/27)


 上の写真と同じく、忠節橋の中程ですれ違うモ571とモ780形。
 橋を渡る電車の写真は、橋の両サイドの歩道から、銀色塗装の橋の鉄骨の脇から身を乗り出して撮影するというのが定番です。
 しかし、これだと朝早くにでも撮影しない限り、自動車が邪魔になって電車がうまく撮れません。
 そこで考えたのが、自分の車の中からの撮影です。
 上の写真も右の写真も自家用車の中からの撮影です。

            (撮影日 05/02/27)


 営業最終日、根尾川橋梁を渡るモ780形。 (撮影日05/03/31)

 10日後、錆びた線路にかぶさるように、桜は満開に。 (撮影日 05/04/10)

 私が「名鉄揖斐線廃線物語」の取材を始めたのは、2004年の9月です。
 したがって、それまで偶然撮影していた写真以外は、春と夏の季節の写真はありません。
 揖斐線最後の日に、撮影したかったのが、左上の根尾川橋梁の桜並木を背景とした写真です。
 しかし、今年は昨年や一昨年とは違って桜の開花は早くなく、花は廃線に間に合いませんでした。
 普通ならこれで説明は終わりですが、ここからが「語り鉄」の本領発揮です。
 この岐阜市又丸地内の根尾川は、左図にあるように、現在の根尾川本流(揖斐線の鉄橋としては、薮川橋梁)の古い川道の一つです。
 本巣市の山口で山地の谷を出た川は、古くは舟木山の東を通って又丸地内へ流れていました。
 私の家は、舟木山の中央部の東麓にあります。この地図によれば、旧根尾川の河川敷の端だったようです。
 


 北方町の中心部、北方千歳町駅東のマンションから北方を撮影。
 中央の建物は、ずっと前はボーリング場として作られたもので、今は、倉庫になっています。
 この写真の意図はというと、実は、私の家と揖斐線との位置関係の説明用です。
 旧ボーリング場の向こう、写真中央にNTTのアンテナが映っています。その左遠くに見える低い丘が、上の地図の舟木山です。
 私の家から、この揖斐線沿線まで約3.5km。宴会の時などは、又丸駅まで自転車で来て、電車に乗りました。
 バスでは、そうもいきません。柳ヶ瀬まで自転車で行くことになりそうです。

        (撮影日 04/11/14)

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 美濃北方を出て、北方千歳町へ向かうモ780形。
 美濃北方駅は電車の後ろの白い建物の向こうにあり、北方千歳町は、写真左下にあります。
 美濃北方と北方千歳町間駅間距離は僅か500mで、揖斐線中最短の距離になっていました。

 電車に乗っていると、ちょっとモーターを回した後は、すぐに惰性運転にして到着という感じでした。


    近ノ島−旦ノ島間(撮影日 05/01/21)

  近ノ島−旦ノ島間(撮影日 04/12/31)

 では、揖斐線電車の最高時速がどのくらいであったかというと、これは、ちゃんとしたところへ聞けばわかるのでしょうが、私のやり方はあくまで経験的手法です。
 黒野行き急行電車の場合、通常は、忠節を出て近ノ島・旦ノ島を跳ばして尻毛まで停車しませんが、この3.2kmのノンストップ区間で最高時速が記録されます。
 それは、左のスピードメーターが示しているように、60km代後半から、70kmに届くか届かないかという範囲です。
 しかし、一度だけ、右の写真のように、スピードメーターが73kmを表示したことがありました。しかも、モ780形単行ではなく、モ770形です。

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 4月1日の0時過ぎ、黒野からの最終回送電車が忠節を経て市ノ坪へ向かった後、揖斐線の各踏切は、作業員によって「廃線処理」が施されました。
 遮断機の棒がはずされ、信号機は黒いビニールがかぶせられ、交通標識の踏切マークははずされ、そして、踏切廃止のお知らせと、「段差あり」の警告表示が掲げられました。
 道路交通法上、4月1日以降、もう揖斐線踏切は踏切ではなくなったわけですから、自動車は一旦停止する必要はありません。
 しかし、長い間の習慣とは恐ろしいもので、そう簡単には人間の意識は変わりません。
 


 この写真の踏切は、又丸駅西にあって、この11年間ずっと通勤の時に通過した踏切です。
 この10日間、ここを通る時は、毎回毎回無意識にブレーキに足がかかりました。

 速度をゆるめたあとで、「そうだ、もう止まる必要はないんだ。」と気が付くという毎日です。
 私だけではなく、通過する車の半分以上は、同じ行動をとっているようです。
 右は踏切から、忠節方面の線路を写した写真です。廃線から数日のうちに、線路内に入らないように、全踏切に工事用のトラ柵が設置されました。
(上下写真とも又丸駅西 撮影日 05/04/09)


 断章その1はこれで終わりです。
 その2では、この続きと、市ノ坪の車庫にいる揖斐線電車群の写真を紹介します。


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