名鉄揖斐線・廃線物語08
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 □揖斐線における経営努力U 直通運転2
    
 直通運転開始                  

 1954(昭和29)年12月21日の岐阜市内線忠節駅と揖斐線忠節駅の統合によって、忠節駅での乗り換えは、大変便利になりました。
 ホームは3面あり、1番線と2番線は、揖斐線の発着用、3番線が岐阜市内線用でした。
 2番線と3番線は同一のホームですから、乗り換えは瞬時にできるようになりました。


現在の忠節駅。深夜。(撮影日04/12/09)

 西側(揖斐線側)から見た忠節駅。中央のレールら右へ1本、左へ2本のレールが分岐しています。
 一番右が1番線、中央が2番線、左から2つ目が3番線です。2番線・3番線のホームは、右は揖斐線用に高く、左は市内線用に低くつくってあります。
 一番左の電車が停車しているところは4番線です。後述するように、揖斐線=市内線直通電車が大増発されてから建設されました 


 しかし、この時点では、まだ直通運転は考えられていませんでした。
 
 直通運転が始まるには、もう少し危機的な状況が生じる必要がありました。
 右は、昭和35年から昭和42年にかけての揖斐線・美濃町線・岐阜市内線の年間利用者数の推移を示したグラフです。
 美濃町線・揖斐線の利用者数に大きな変化はありませんが、市内線の利用者数は、昭和37年をピークに年間100万人ぐらいずつ減少し始めました。
 この時点で市内線の運賃は大人15円、他の物価と比較しても運賃はむしろ安めでした。
 しかし、昭和35年の池田内閣の所得倍増計画の発表以来、高度経済成長が続き、日本にもようやく一般大衆が自家用車に乗る時代がやってきました。このモータリゼーションが、市内線の利用客の減少の原因でした。
 この結果、名鉄は、美濃町線と揖斐線のそれぞれの電車を新岐阜駅に直接運ぶ計画を実行します。
 それが、
1967(昭和42)年12月17日の揖斐線と市内線の直通運転の開始であり、また、1970(昭和45)年6月25日の田神線経由の美濃町線電車の各務原線新岐阜駅乗り入れでした。
      (後者については、すでに、説明しています。こちらです。

 
 それまでの揖斐線の電車は、当然ながら鉄道法に基づく専用軌道上を走る電車でした。市内線はもちろん軌道法の適用を受ける路面電車ですから、同じ600V電圧でも、法律上(電車のサイズ上)揖斐線電車をそのまま市内線に走らすわけにはいきません。

 そこで、それまで美濃町線を走っていたモ510形の登場となりました。 
 

 モ510形による揖斐線−市内線直通運転記念乗車券 名鉄資料館にて撮影(撮影日 04/11/26)
 最初は、本揖斐駅−新岐阜駅の間に7往復の直通急行が運行されました。所要時間は、47分でした。


 旧美濃駅に展示されているモ512とモ601。
 旧美濃駅は美濃電気軌道が最初に開業した駅の一つですが、廃止されました。現在の「美濃町線」は、実は「美濃町」(美濃市)へ通じる路線をもっていません。1999(平成11)年4月1日、新関−美濃町間は廃線となりました。
 旧美濃駅は、現在は資料館となっています。
 写真は「展示」されているモ512とモ601です。
 モ601は、1970(昭和45)年田神線経由各務原線新岐阜駅直通用の車両として導入されました。それ以後、次々と新型車両が導入され、現在は、モ606のみが現役です。

 1967年12月に揖斐線に導入されたモ510形は、美濃電気軌道が1926(大正15)年に製造した車両です。長い間美濃町線で活躍してきましたが、直通運転用に揖斐線に「転勤」しました。
 現在は、モ513と514のみが予備車両として、黒野駅に「常駐」しています。普通は走りませんが、時々「復活」します。
 モ510形については、項をあらためて説明します。   


 新型導入                                         | このページの先頭へ |

 直通運転は、いくぶんかの効果はあったかもしれませんが、結果的には、3線利用客の減少に歯止めをかけることはできませんでした。  

 利用者数は、昭和40年代から50年代60年代と確実に減少しました。上のグラフの緑色の□内は、揖斐線のみの利用者数です。
  ※名古屋鉄道広報宣伝部編『名古屋鉄道百年史』(1994年)P449などより作成。 


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 危機的な状況に対応するため、名鉄は、揖斐線に対して思い切った、改善を図りました。揖斐線初の新型車両の導入です。
 1987(昭和62)年5月3日、現在も活躍中の連接電車
モ770形が2編制導入されました。今まで揖斐線の車両は、名鉄の各線で活躍した「中古車」が回されてきていましたが、この車両は、揖斐線初めての新型車両でしかも、これまた初めての冷房車でした。
 この車両が翌年も2編制導入(合計4編制)されることにより、黒野発の急行列車は、すべて岐阜市内への直通となりました。
 
 黒野駅では、盛大な出発式が行われ、小学校の鼓笛隊が音楽を演奏し、「祝770形運転開始」のくす玉が割られました。黒野駅のある大野町あげての行事でした。
 ※伊藤正・伊藤利春・清水武・渡利正彦編『保存版 岐阜のチンチン電車 』(郷土出版社 1997年)P175の写真より 


 1987年に登場し現在も活躍中のモ770形。
 2両分で、台車は3つしかありません。右の写真のように、真ん中は一つの台車になっています。連接台車と呼ばれます。
 現在、770+771、772+773、774+775、776+777の4編制8両が活躍しています。
(下方駅に停車中のモ772+773、撮影日 04/12/18 下方駅はこのようにホーム反対側の真横から障害物にさえぎられことなく撮影できます。このような条件の駅は、揖斐線の13駅中、ここだけです。)


 モ770形の内部。右は中央の連接部分。

 これにともなって、左の写真にあるように、忠節駅に4番ホームが新設され、3番線と4番線が直通電車のホームとなりました。
 (このページの一番上の写真とは反対方向にあたる、駅の東側から撮影した写真です。)
 ただし、もともと用地がなかったところへ増設されたホームですから、幅の狭いささやかなホームです。黒野方面から到着した電車から降りた乗客は写真の手前に移っている構内踏切を渡って改札口に向かいます。
 この写真は改札口を出たところから駅北側の自転車置き場に向かうために架けられた跨線橋の上から撮影しています。
(撮影日 04/10/16)


 そして、さらに、画期的な努力が行われました。
 1997(平成9)年から98年にかけて
モ780形が7両導入されたのです。
 このモ780形は名古屋本線の車両等と比較しても劣らない最新式の性能をもった電車でした。
 これによって、揖斐線と市内線の電車は朝夕の一部を除いては、急行・普通を問わず、
モ770形4編制とモ780形7両によって直通運転されることにになったのです。 


 1997(平成9)年に初めて導入されたモ780形
 両端の扉は折り戸。中央の扉は左右への引き戸。運転台の後ろに料金投入箱と両替機。ワンマン運転に都合のいい構造となっています。
 性能そのものについては、名鉄のサイトの車両博物館のページには、「
制御装置は誘導電動機を駆動させる回生ブレーキ付VVVF方式、補助電源装置は新しいIPMを使った静止形インバータを採用し低騒音化を図った。 ATS・保安ブレーキ・戸閉保安装置・列車無線を装備し運転の保安を図るとともに、空気笛の他軌道で使用する優しい音色の電気笛も設けている。ワンマン運転に対応した音声合成放送装置、LED方式の駅名表示付運賃表示器を備え、整理券発行器なども設定器に入力するだけの集中制御方式とし、乗務員の作業量を少くさせ安全運転に集中できるようにしている。 」とあります。
 
 赤字の部分は専門過ぎてわかりませんが、とにかくすごいんです。(^_^)
 ※名古屋鉄道車両博物館のページはこちらです。


 期待                                                | このページの先頭へ |

 つまり、名鉄は、利用客の減少という事態について、決して手をこまねいて見ていたわけではありませんでした。むしろ、積極的に利用者拡大策をとったのです。

 これについて、次のような評価がなされました。
「かくして本年(平成9年)4月5日、本線の最新鋭車にも負けないメカを装備した、新形式車モ780形4両が登場した。これにより、昼間帯の黒野・美濃北方−忠節間の全列車が岐阜市内まで直通することとなった。同時に、スピードアップと冷房化率のアップも実現し、揖斐線は面目を一新したのである。
 岐阜線が開業してまもなく100年。路面電車は、クリーンで便利な都市近郊輸送機関として、世界的に見直しが進んでいる。 この時期に最新鋭車が登場したことは、単に名鉄岐阜線の将来だけでなく、軽快電車の日本での将来を占う試金石でもある。
 駆け足で岐阜線の歴史をたどってきたが、最後を明るい話題で締めくくることができ、私にとってもうれしい限りである。コンパクトにはなったが、岐阜市内の快適でクリーンな交通機関として、21世紀にも活躍を続けることを切望する。」

 ※伊藤正・伊藤利春・清水武・渡利正彦編『保存版 岐阜のチンチン電車 』(郷土出版社 1997年)P26 

 しかし、ことは期待どおりには進まなかったのです。


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