名鉄揖斐線・廃線物語07
| メニューへ | | 前へ | | 次へ |

 □揖斐線における経営努力T直通運転1
 04/12/23作成  05/05/15追記加筆   
 揖斐線−市内線直通運転とは      04/12/23修正版(05/05/15追記加筆)   

 現在、揖斐線と岐阜市内線は忠節駅で接続し、両路線の直通運転がなされています。黒野駅を出発した新岐阜行きは、速い場合は、23分で忠節駅に到着し、市内を15分で通過して、38分後には新岐阜駅前に到着します。
 
 しかし、これは、大正・昭和初期の開業草創期から実現されていたわけではありません。
 市内線と揖斐線は、そもそも別の会社が営業を始めた路線です。
市内線は美濃電気軌道が、揖斐線は岐北軽便鉄道がつくりました。
 さらに、前前項の「木曽川橋梁」(こちらです)でも説明しましたが、
当時の鉄道は大きな河川が線路敷設のネックとなっている場合が普通でした。
 川の堤防までは線路が敷かれていても、川を渡るのは徒歩とか、渡船という場合が多かったのです。

 したがって、揖斐線・市内線の場合も、直通運転に至るまでは、車両の更新はもちろん、駅の変更、路線の変更、橋の架け替えなどなど、さまざまな物語が存在しました。
 ここでは、揖斐線と市内線の直通にまつわる歴史を紹介します。


 あわせて、これまであまり詳しく記述されてこず、誤解も多かった、「初代忠節駅」の位置について、正しく解説します。


 忠節橋上を忠節駅方面へ向かうモ780形。橋の北詰にあるのは、早田停留所。坂を下って、早田本通りの交差点から、専用軌道に入ります。(撮影日 04/10/26) 

 忠節駅を出発し、早田本通り交差点で専用軌道から路面軌道に入ろうとするモ780形。信号待ちです。(撮影日 04/12/12)


 橋、駅、路線の変遷1 地図と年表で                      | このページの先頭へ |

 下の地図A、B、Cは、忠節界隈の変遷を示したものです。
 橋の位置、駅の位置、そして路線の位置が変更されているのがおわかりですか。
 Aは昭和初期の地図。初代の忠節駅が示されています。
 Bは昭和22年の地図。2代目忠節駅が示されています。
 Cは現代の地図。3代目忠節駅です。  


 は、1928(昭和3)年3月に岐阜市が発行した初代『岐阜市史』P242にある「岐阜市現勢図」から複写。赤線が、美濃電気軌道の線路。当時の忠節橋上には線路はありません。

 
は、国土地理院発行の5万分の1地図「大垣」と「岐阜」(1947(昭和22)年測量、1960(昭和35)年発行。)の2枚を合成しました。つなぎ目は若干不正確です。忠節駅は、Aの時より、西側に移動しています。

 
現在の地図で、国土地理院のサイトの「ウォツちず 地図閲覧サービス」(試験公開)から、複写しました。 (サイトはこちらです。) 

 ここに掲載の地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)を使用した。(承認番号 平15総使、第523号)


 既に説明しましたが、美濃電気軌道は、1911(明治44)年に、市内線(岐阜停車場前−今小町)を開業した後、現在の揖斐線・市内線に関しては、次のように拡張していきました。

 そして、揖斐線と市内線の連絡の状況も変わっていったのです。

揖斐線と市内線の連絡の歴史説明資料1 市内線・郊外線路線拡張

 赤字は現在の揖斐線・市内線に関係する部分

 青字は2002年10月段階で、すでに廃線となっている路線。

年次

開業・合併等により拡張した路線

1911年

2月11日

市内線(岐阜停車場前−徹明町−今小町間)営業開始

10月7日

市内線延長、今小町−本町間営業開始

1912年

8月28日

市内線延長、本町−長良橋(長良橋南詰)間営業開始

1913年

12月25日

長良軽便鉄道、長良(長良橋北詰)−高富間(5.1km)営業開始

1914年

3月29日

岐北軽便鉄道、忠節−北方間(6.6km)営業開始

1915年

11月20日

市内線延長、長良橋南詰−長良橋北詰間開通。電車、長良橋を渡河。

1920年

9月10日

長良軽便鉄道を吸収合併。長良−高富線を継承。

1921年

11月20日

岐北軽便鉄道を吸収合併。忠節−北方線を継承。

1924年

4月21日

鏡島線(鏡島−千手堂間4.0km)営業開始。

1925年

6月1日

徹明町−千手堂間開通、徹明町−鏡島間直通運転開始。

12月1日

千手堂−忠節橋間(1.3km)営業開始。岐阜駅前から忠節橋(この場合の忠節橋は、現在の西野町のやや北、長良川の南側堤防下にあった)まで直通。

1926年

4月6日

北方−黒野間(6.4km)営業開始
谷汲鉄道、黒野−谷汲間(11.2km)営業開始

1928年

12月20日

黒野−本揖斐間(5.6km)営業開始

1930年

8月20日

美濃電気軌道、名古屋鉄道と合併。名岐鉄道発足。(のち名古屋鉄道に)

1938年

8月4日

長良川河川改修工事のため、揖斐線忠節−尻毛間運転休止。(1941年12月20日営業再開。

1944年

3月1日

谷汲鉄道を吸収合併

1948年

8月1日

現忠節橋完成。橋上に新線が延長され、現在の早田停留所の位置に、市内線の終点忠節橋駅開業。この時点ですでに揖斐線忠節駅は、100メートル弱短縮されて、地図の位置、つまり新忠節橋の右岸西側に移されており、橋の続きの堤上の市内線忠節橋駅とは、至近距離の徒歩連絡となる。

1953年

7月1日

市内線を早田停留所から北へ0.3km延長。現忠節駅の位置に、新忠節駅開業。旧忠節橋駅は、現在と同じ早田駅に改称。

1954年

9月10日

鏡島線延長、鏡島−合渡橋間(0.9km)営業開始。合渡橋駅は、1957年西鏡島駅と改称。

12月21日

揖斐線の路線を変更。揖斐線忠節駅を市内線の忠節駅と統合し、両線は同じ駅内で同一ホームでの連絡となる。


左は、大正後半期の神田町通り、場所は今のところ特定できません。(現在捜査中、ポイントがある場所ですから、限定できるはず何ですが・・)
 ※銀婚式奉祝国産共進会協賛会編『岐阜市案内大正14年』(1925年)より複写

右は、昭和初めの神田町通り。中央の屋上に小さい塔のある建物は、当時の中央郵便局。現在の市役所南庁舎のある場所です。
 ※岐阜市役所編『岐阜市案内昭和5年』(1930年)より


  橋、駅、路線の変遷2 まとめると                       | このページの先頭へ |

 上の年表にはあまりにたくさんのことを書いてしまいましたので、予備知識のない方は却ってこんがらがってしまったかもしれません。
 もう少しわかりやすいように、変遷図でまとめて示します。  


美濃電気鉄道最初の開業路線。

岐北軽便鉄道の忠節−北方線開通。

旧忠節橋の南の堤防下に初代忠節橋駅開業。

市内線が延長され、旧忠節橋を徒歩で渡橋して連絡。

新忠節橋上を路線が延長され、堤防の上と下で連絡。

市内線が堤防北まで延長され、忠節駅が開業。

揖斐線・市内線忠節駅が統合される。


 かくて、1954年には、揖斐線と市内線は、現在の位置にある忠節駅で結ばれました。それまでは、両路線の乗り換えには、歩いて数分はかかったのですが、これで、降りた同じホームでの乗り換えになりました。

 こうなると、次は、車両を変更するなどして、両線に直通の電車を走らすとさらに便利になります。
 しかし、それが実現するには、まだ少し時間がかかりました。その話は、次回、「経営努力U 直通運転2」で説明します。


忠節橋上を早田へ向かうモ770形。(撮影日 04/11/21)

早田停留所を西側から撮影した写真。堤防したの白い壁の家当たりに2代目忠節駅がありました。(撮影日04/12/19) 

1975年の忠節駅付近の航空写真です。線路の変更の痕跡がわかりますか。(写真は国土交通省Webマッピングシステムより)

左の航空写真の解説です。赤が現路線、黄色が1954年に廃線になった路線跡です。西側半分は、道路として残っています。は現近ノ島駅、は旧近ノ島駅の場所。は2代目忠節駅の、は現忠節駅位置です。


左、1954年に廃線となった揖斐線線路跡の道。東から西を見て撮影。 
 近所の方に聞きました。「おばあさん、この道って、昔電車の線路でしたか?」「あれまー、ほんに懐かしい話やね。ここは、昔電車が走とんさった。そこらが、駅で、忠節を出た電車と向かう電車がすれ違うところじゃった。」
 もっとも、その時代のこのあたりは、今とはずいぶん様子が違っていました。上の地図Bをご覧下さい。近ノ島駅の南あたりは集落がありますが、揖斐線線路から北は、ほとんど人家はなく、旧河川敷でした。左上の写真の右側の部分。(撮影日 04/11/21)

右、線路がカーブしている部分から先が、まっすぐになっていて、旧忠節駅へ向かっていました。写真の真ん中の踏切は、よく渋滞する県道77号線、つまりあの環状線の踏切です。(撮影日 04/12/12)


 これまでの定説の訂正1 初代忠節駅はどこにあったか?     | このページの先頭へ |

 このページの記述に当たっては、次の文献を参考にしました。
  ※@徳田耕一著『まるごと 名鉄ぶらり沿線の旅 名古屋鉄道』(河出書房新社 2004年)
  ※A徳田耕一著『名鉄の廃線を歩く 愛執の30路線徹底調査』(JTB 2001年)
  ※B伊藤正・伊藤利春・清水武・渡利正彦編『保存版 岐阜のチンチン電車 』(郷土出版社 1997年)
  ※C名古屋鉄道広報宣伝部『名古屋鉄道百年史』(名古屋鉄道 1994年) 

 ところが、これらの文献を見ていくと、「定説」となっていることが、実は間違っていることに気が付きました。
 ここでは、定説の訂正を試みます。

 その1は、
初代忠節駅の位置です。

 上記の参考文献中、駅の位置の変遷について詳述しているのは、Aです。
  ※徳田耕一前掲書P99
 
 左の地図にそれを示しました。図の意味するところは次のとおりです。

  1. 最初の忠節駅は、先代の忠節橋の北詰にあった。

  2. 現忠節橋は、先代のおよそ100mほど下流に架橋され、その際に、駅も現忠節橋の北詰に移された。

 図には、現忠節橋が示されています。図にはありませんが、先代忠節橋がその上流およそ100mにあり、その北詰に初代駅があったとすると、図にすればこのようになると思うのが、普通の発想です。したがって、これが、定説となっています。
 
 ところが、これは実は誤りです。

 考えるヒントを提供します。 

 <2005年3月6日追記>

 名古屋市在住の交通ライターの徳田耕一氏は、この地方の交通網の歴史と現状について、豊富な知識を持ておられ、この「名鉄廃線物語」の作成にも、氏の著書から多くのことを勉強させていただきました。感謝申し上げます。
 しかし、以下に説明する「初代忠節駅の位置」については、氏の最新の著書、『惜別の”岐阜線”と空港線誕生 名鉄600V線の廃線を歩く』(JTB 2005年2月)のP92−3においても、「旧説」のままの説明となっています。
 再度の検証を期待するところです。


 左の地図は、このページの最初にも示した、1947(昭和22)年測量の地図です。
 昭和22年と言えば、現忠節橋が完成する前年です。地図にはすでに両端の取り付け道路もできていて、橋は工事中でした。(地図には、工事中とは書けません。)
 地図に示されている橋は、先代忠節橋です。途中で二つに分かれています。
 ここに大きな意味があります。
 さらに、ヒントとして、上述の年表に何気なく書いておいた、次の記事を一つだけ取り出して再掲します。
 さて、初代の駅は、どこにあったでしょうか?

年次

開業・合併等により拡張した路線

1938年

8月4日

長良川河川改修工事のため、揖斐線忠節−尻毛間運転休止。(1941年12月20日営業再開。


 「単なる一駅があった場所について、何をこだわっているのか?」と思われるかもしれませんが、この問題には、岐阜市の歴史上是非とも語る必要がある、重要な物語が関係しているのです。

 それは、
長良川の改修の問題です。

 実は、長良川は、ほんの70年前まで、いまの長良橋のすぐ西で、3本の川に分かれていました。そうなったのは、1614(慶長19)年(大坂冬の陣の年!!)のことといわれています。

 つまり、長良川はかの有名な金華山の北嶺を過ぎて平野部に出たところで、暴れ川となって、いくつもの流路をもっていたのです。当然ながら、近代になっても川の水の制御は人力の及ぶところではありませんでした。
 このため、岐阜市民にとっては、近代的な堤防によって長良川の流路を確定し、洪水の危険を防ぐことが長年の悲願でした。

 改修前の長良川。金華山から写した写真です。
 中央の橋は2代目長良橋、現在の橋の30m上流にありました。
 橋の下流で流れは3本に分かれています。現在の流路は1です。2は古川。3は古々川と呼ばれていました。 
 ※写真は、岐阜市役所編『岐阜市案内昭和5年』(1930年)より複写。


 その工事が、1933(昭和8)年から始まりました。
 上の写真の、2・3への流路をさえぎる堤防つくられ、
1の現在の流路は、洪水に備えるため、新しく堤防が作り替えられて、川幅・河原の幅は大幅に広げられました。

 先代忠節橋は、
長さ162mでしたが、この地域で川幅は100mほど広げられました。

 上の1947(昭和22年)の地図に先代忠節橋は、大きな橋と小さな橋と、二つ描かれています。川幅の変更によって、先代の橋の長さが足らなくなり、臨時に小さな橋がかけられましたが、その大小の橋が示されているのです。

 ここまで説明すれば、初代忠節駅の位置が、現在のどこに当たるかはもうおわかりですね。
 実は、
現在の忠節橋の北詰=早田交差点の南東およそ85m程の、河原の真ん中です。

 以下に、より詳細な地図を掲載します。
 
 

 
 この3枚の地図は、岐阜県図書館作成『地図で見る岐阜の変遷』(1995年)にある、1920年・1947年・1970年の地図をできるだけ詳しくトレースしたものです。
 揖斐線の旧線路と忠節駅は、それぞれ、赤で示しました。
 つまり、1947年の地図の赤線は、1920年に記載されているもの。1970年の地図の赤線は、1920年及び1947年の地図に記載されている路線です。
 
 こうして1枚の地図にまとめてみると、旧路線と旧忠節駅がはっきりします。

 もちろん、トレースの際の若干の誤差はお許しください。


 


 
 写真で示すと、左のようになります。

 1・2・3は、それぞれ、初代、2代目、現在の忠節駅を示しています。 フリーハンドでトレースしていますので、ちょっと誤差があります。
 (写真は国土交通省Webマッピングシステムより。1975年の航空写真です。)

 推定ですが、上の左右の写真の、の位置あたりが、初代忠節駅のあった場所でしょう。(撮影日 04/12/23) 
 
先代忠節橋が長さ162mであったのに対して、現忠節橋は、長さ266mです。 

 このように、「初代忠節駅は現在の河原の中」と記述したり図示した文献はあまりありません。多くは、通説にしたがっているか、もしくは曖昧にしています。
 
 しかし、正確に表現したものもあります。
 
早田郷土誌編纂委員会編『ぎふ早田郷土誌』(1970年)です。
 さすが、地元の方々にぬかりはありません。まずは、現地の人の説明に耳を傾ける、これこそが真実への王道です。


 これまでの定説の訂正2 2代目忠節駅の開業はいつか?    | このページの先頭へ |

 二つ目の定説訂正です。

 上記の参考文献、A・Cには、揖斐線の2代目忠節駅の開業の日を、現忠節橋が完成し、路線が忠節橋の北詰まで延長されて営業を開始した1948年8月1日としています。(AのP101、CのP881)

 しかし、これは間違っていると思います。

○理由1

上の地図B(1947年測量)では、まだ新忠節橋が記されていない(完成していない)のに、すでに駅は初代の位置から2代目の位置に移っています。新橋完成の前の年です。

○理由2

1948年の忠節橋は、現在の忠節橋と同じですから、橋の建設が始まった時点で、橋の北詰から北側に大きなスロープが造られたはずです。ということは、その時点で、すでに、初代の駅は使えなくなっており、2代目駅がつくられていたと考えられます。


 BのP118には、名鉄資料館所蔵の写真として、1953(昭和28)年の忠節駅駅舎の写真が掲載されています。その説明に「揖斐線の忠節駅 戦時中に新築移転された2代目駅舎。」とあります。
 さらに、巻末の「駅・電停の変遷」には、「昭和16年12月20日移転・再開」とあります。
  
 当の名鉄の『名古屋鉄道百年史』よりも、この説明の方が、真実または、より真実に近いと思われます。


<追記>05/05/15
 上記の疑問1・2に関して、このページと同じ考えに立つ書物が発行されていることを発見しました。著者の大島一朗さんから、直接掲示板に、挨拶がありました。(05/05/08書き込み)
 大島一朗著『谷汲線 その歴史とレール ローカル線からかいま見る激動の日本と世界』
 (岐阜新聞社 2005年2月)です。

 大島さんも、1の初代忠節駅の位置については、私と同じ考えです。(同書P72、ただし、地図上の表記については、このページと地図とは若干異なり、旧忠節橋と現忠節橋との位置関係において、旧忠節橋がほんの僅かですが、上流方向にずれていると思われます。)
 また、2の2代目忠節駅の開業については、堤防の改修工事が完成した、1941(昭和16)年12月20日とされています。
 
 また、大島さんの著書の第2章では、レールの製造場所から世界の製鉄所の状況まで説明がなされており、谷汲線から見た世界の鉄鋼業の盛衰が語られています。とても、勉強になる本です。
 掲示板への書き込みありがとうございました。


| メニューへ | | 前へ | | 次へ |