名鉄揖斐線・廃線物語09 |
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□揖斐線における経営努力V 期待空しく |
05/01/01作成 05/05/15修正 |
利用客減少 |
1987年・88年のモ770形合計8両4編制、1997年・98年のモ780形合計7両の導入による、昼間時間帯岐阜市内線−揖斐線全列車直通運転という、揖斐線の歴史始まって以来の画期的な試みは、揖斐線利用客増加を実現する、名鉄としては最後の起死回生の策でした。 |
左上 雪の忠節駅。 |
しかし、積極策にもかかわらず、利用者の減少は止まりませんでした。 |
上手の緑色の□の中の数字は、揖斐線の利用者を示しています。 |
高校生の利用 | このページの先頭へ | |
この減少の要因には、全般的なものとしては、もちろん、モータリゼーションのより一層の進化が考えられます。 |
もちろん、名鉄もこの状況をよく把握しています。そのため、高校生の通学にはいろいろ便宜を図っています。 |
左、朝の西野町電停。(撮影日 04/11/22) |
左上、尻毛橋梁東の土手を通過する朝の輸送力増強3両連結電車。 |
左、北方東口に着いた黒野発新岐阜駅モ770形。(撮影日 04/11/12) |
上、揖斐線発祥の地美濃北方駅の朝。 |
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下、美濃北方駅は、上下線が待ち合わせをして行き違いをする駅の一つです。先に到着していた下り黒野行き電車は、上り新岐阜行き対向電車の到着後すぐに発車します。 |
しかし、そもそも、岐阜市の人口が、すでに昭和60年がピークで、それ以降、しだいに減少しており、高校生の数も激減している今日の状況では、いくら利用者を増やす条件を整えても、限界があります。 |
下の表は、沿線の高校の一つ、本巣松陽高校の揖斐線利用者数の推移です。
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岐阜県全体の高校生の数が15年間に約3分の2になりました。本巣松陽高校の生徒も減少し、そして、揖斐線利用者については、3分の1以下になってしまいました。 |
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