各務原・川崎航空機・戦闘機11
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 □結論 −工場破壊時の飛燕と五式戦の生産−
     
 工場破壊             

 この「各務原・川崎航空機・戦闘機」も、ずいぶん長いお話になってしまいましたが、ここが本論の結論部分です。
 
 最初の項の問題提起では、

  • この「各務原・川崎航空機・戦闘機」では、戦時中に、川崎航空機各務原工場がどのような航空機をつくっていたか、とりわけ、1945年6月のB29による空襲でこの工場が壊滅したとき、どのような航空機が生産されていたか、を焦点に説明をしていきます。

というふうにスタートしました。この項では、その結論を、答えを示したいと思います。

 その前に、まず、空襲による工場破壊の様子です。 
 
 前項で説明したように、川崎航空機岐阜工場をはじめ、各務原飛行場の周辺の川崎・三菱・陸軍航空廠の施設は、
1945年6月22日と26日の空襲で徹底的に破壊されました。


 左と下の3枚の写真は、いずれも、かかみがはら航空写真博物館にディスプレイされているものを複写したものです。 
 同博物館では、各務原と航空機生産の発達を、戦前・戦中・戦後の各期において、学習することができます。
 ※同博物館の説明はこちらです。


 左は、下の地図の概ね地点(陸軍航空整備学校)に投下された大型爆弾の爆発の瞬間の写真(B29爆撃機より撮影された)です。
 方位は写真の上が北で、写真の上部に、国道・名鉄各務原線線路・国鉄高山線線路が確認できます。

 下の2枚は、地図の
地点の破壊された川崎航空機岐阜工場の写真。屋根が吹き飛び、鉄骨の骨組みが崩れてしまっています。
 右下の写真に見える航空機は、本来は三菱航空機の設計で、当時川崎で転換生産されていた、4式重爆撃機飛龍(キ67)の機種の部分です。1944年と45年に川崎岐阜工場で合計91機が生産されています。




 工場が破壊された時、生産されていた航空機は?          | このページの先頭へ | 

 さて、本題です。
 空襲で工場が破壊された時、主に生産されていた飛行機はなんでしょうか?
 これは、破壊された工場を説明する場合、「
○○を生産していた川崎航空機の岐阜工場は、空襲によって破壊された」という表現が使われるわけですが、その○○に何を書くのが最もふさわしいかということになります。
 
 このシリーズの第1項では、この記述に関して、次の二つを例としてあげました。

 各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P203

「6月26日の大空襲 6月22日の空襲は破壊力の大きい最大級の爆弾を主目標に向かって投下したものであったが、これに対し、4日後の26日の第二次攻撃は、主に前回より小型の爆弾を多数搭載した、より多数(東海軍管区発表で90機、『鵜沼の歴史』では70機)のB29による高密度の執拗な破壊であった(各務原空襲)。このときの爆撃の効果について、米軍戦略爆撃調査団報告書には、「6月26日9時10分から10時49分までの空襲では500ポンドの高性能爆弾が用いられ、キ−61の最終組立工場・実験工場・工作事務室・小組立工場・労務者の宿舎・学校の建物・圧延工場などに命中弾を受けた。(中略)製作活動がすっかり止まってしまった。」
 ※引用文中の、
キ−61とは、飛燕のことです。

 岐阜県編『わかりやすい岐阜県史』(2001年3月)の「第5章近代」の「第4節恐慌から戦争へ」の「E空襲」の掲載写真の説明

各務原空襲 1945年(昭和20)年6月22日、B29によって各務原が空襲された。県内においては初めての本格的な爆撃であった。各務原の川崎航空機岐阜工場では、新鋭戦闘機といわれた「飛燕」が製造されていたが、その機能はほとんど失われた。

 では、検証です。

 川崎重工業が編集した『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』のP42には、川崎航空機が生産した各航空機の生産実績が掲載されています。
 そのうち、太平洋戦争に入ってからの分を抜粋して掲載すると次のようになります。



 これを見ると、結論は、明らかです。
 飛燕は、川崎重工業の公式記録上、1945年には生産されていないことになっています。

 ところが、これをそのまま信じてはいけない別の事実があります。

 同じ『川崎重工業 岐阜工場50年の歩み』の別のページには、次のようにも書かれています。

P36(本文の説明)

「 この機は、短期間での設計試作にもかかわらず、翌20年2月の試験飛行で極めて優秀な成績を示し、5式1型戦闘機として制式機に採用された。そして直ちに「キ−61」2型として組み立てられていた機体は、全面的に「キ−100」に改修されたのである。結局、「キ−61」2型は374機製作されたのであるが、そのうち275機は「キー100」に改修され、99機の生産に終わっている。また、この機は岐阜工場が爆撃を受けた際にその約3分の1が破壊され、僅かに納入された60機も、B−29迎撃に数度出動しただけという悲運な飛行機でもあった。
 他方、5式1型戦闘機「キ−100」は終戦までに395機製作(うち275機は「キ−61」の改修)されたが、その取り扱いの容易さと性能の優秀さから養用され20年7月、陸軍大臣より感謝状を授与されている。さらに20年5月、米軍B−29による高々度爆撃対策として、「キー100」に排気タービン過給機を装着し、高々度(約1万m)における性能を改良した「キ−100」2型の試作機がを完成したが、制式機を出すまでに至らず、終戦を迎えた。」

   
 

P432(機種別の説明の項目) 

 

「早速5式戦闘機として採用され、キ−61−2改の生産ラインを本機に切り替えるとともに、すでに首なし機として完成していた機体にもハ−112−U(注 空冷エンジンのこと)を装備した。生産は20年2月から岐阜工場で行われ、3月 36機、4月 89機、5月 131機と上昇したが、6月22日、26日の岐阜工場空襲により、7月は23機と低下、終戦までに岐阜工場で378機(ほかに都城工場で17機)完成した。」

 この記述は、明らかに、上の「生産実績」と矛盾しています。

 また、これらの記載事項や他の文献などを参考にすると、すでに、このシリーズの第8項、「5式戦誕生」で示したように、飛燕から5式戦への改造の経緯は次のようになります。

1944年

4月 飛燕2型用ハ−140エンジン試作型、故障が完治できず。

6月

飛燕2型用ハ−140エンジン量産型、機体工場へ納入され始める。しかし、最初から完成台数が予定を大幅に下回る。

8月

陸軍、飛燕2型用ハ−140の生産予定台数を減らす。

9月

飛燕2型の組立生産、本格的に開始。

10月

飛燕2型の空冷エンジン換装型の設計開始命令。

1945年

1月 飛燕首なし機体合計364機に。(1型134機 2型230機)この月、飛燕1型の生産終了。

2月

1日、飛燕2型を改良し空冷エンジンを搭載した試作機、初飛行。5式戦として制式採用決定。飛燕2型首なし機の改造に着手。
一方、飛燕2型の生産も継続。

 
 上の矛盾した記述から、問題点をあげます。

  1. 3式戦2型は、少なくとも、’45年も生産されています。別の記述では、’45年8月まで生産とあります。

  2. 3式戦2型が「6月の爆撃の際に、約3分の1が破壊され」という記述は、何を意味するのでしょうか。3分の1というのは、99機の3分の1なのでしょうか?つまり、完成機体が納入前に3分の1壊れたという意味でしょうか?

  3. 3式戦2型の首なし機体は、’45年1月に230機ありました。5式戦の生産分のうち、275機が飛燕2型からの改造分ですから、この差45機は、その時点で、生産ラインの上にあった飛燕2型も、改造されたことを意味します。

  4. 5式戦は、5月には、131機完成していますが、6月の爆撃で破壊されたものは何機だったでしょうか?

  5. ’45年1月の段階で、134機あった3式戦1型首なし機は、どうなったのでしょうか?当然、1型用のハ−40エンジンの到着を待って、飛燕1型として完成されたのでしょうか?

  6. 「生産実績」表では、5式戦が、’44年に37機つくられていますが、これは明らかに間違いです。(試作機の機数も合計3機)こういうカウントをするということは、飛燕2型として’44年につくられ始めた機体を、本当の完成は’45年でも、44年生産としているのでしょうか?

 これだけ、いろいろわからないことがあると、今となっては、全貌の解明は、ちょっと無理ですね。


 結論                                         | このページの先頭へ | 

 それでも、このシリーズの結論だけは何とか示さなければなりません。
 
 
6月のB29爆撃機の空襲の時点で、工場ではどの機種が主力生産機種だったかということです。

 まず、3式戦飛燕1型です。
 これは、1月の時点で、首なし機が134機ありましたが、公式記録では3式戦飛燕1型はこの1月で生産終了となっていますから、この134機にその後に順次、ハ−40エンジンが取り付けられ、完成していったと推定されます。
 ハ−40エンジンは、生産にはそれほど困難ではなく、6月の空襲の時点で、そう多くは残っていなかったと言うべきでしょう。
 ただし、エンジンを生産する兵庫県の川崎航空機明石工場は、すでに、’45年1月にB29爆撃機の空襲を受けて被害が出ていますから、「順調」ではなかったでしょう。

 次に、3式戦飛燕2型です。 
 この機は、実戦部隊の記録から、部隊配備は’45年4月から始まっており、完成機99機のうちの何割か(部隊配備と言うから、何10機)は、すでに、工場を出ていたことは確実です。
 もし、『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』(P46)の記述が正しく、爆撃時に、99機の3分の1が工場内にあって被害を受け、それ以外にも、首なし機として何機かが周辺にあったとかもしれません。しかし、3式戦飛燕2型の総生産機数は、12ヶ月で、99機です。1ヶ月当たりにすれば、その生産機数は多くはありません。

 次に5式戦です。
 5月の生産機数は、131機でした。
 4月が、89機でしたから、次第に増産中です。工場が爆撃を受けなければ、月別生産期指数はもっと上昇したでしょう。仮に、6月は150機が生産できたとしましょう。これは、1日5機の割合です。

 ということは、生産機数から考えて、’45年6月の空襲時点では、5式戦が主要生産機種であったと結論できます。

「 1945年の時点で、動員学徒を含め3万人以上が日夜働き、航空機の生産拠点の一つとなっていた各務原。
 それ故に、市政も施行されていない一地方の町村であった各務原が、B29爆撃機やP51ムスタング戦闘機や艦載機グラマンF6Fによって何度も襲撃され、たくさんの犠牲者を出しました。

 特に大きな被害を受けた1945年の6月22日と26日の空襲の時、各務原の航空機生産の中心的施設であった川崎航空機岐阜工場では、主に陸軍の五式戦闘機が生産されていました。」
 
 こう叙述するのが、正しいと言えるのではないでしょうか。

 シリーズを組んでずいぶん回り道をした割には、とても、簡単な結論になってしまいました。
 シリーズ全体としては、各務原と川崎航空機と戦闘機飛燕について、かなり多面的に調査し考察できたのではないかと思っています。

 ずっとつきあってお読みいただいた皆さん、どうもありがとうございました。


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