各務原・川崎航空機・戦闘機03
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 □川崎航空機と土井技師 −川崎航空機の各務原進出− 

 川崎造船所飛行機部各務原分工場                         

 陸軍の各務原飛行場に最初の飛行機が着陸したのは、1917年6月11日です。
 その時は飛行機は、
フランス製のモーリス・ファルマンでした。

 この時点では、まだ、日本国内には、航空機を量産するいわゆる航空機メーカーというものは、存在していませんでした。
 川崎航空機の母体
、川崎造船所の松方幸次郎社長は、第一次世界大戦中のヨーロッパ戦線での航空機の活躍に注目し、自社での航空機生産を企図します。
 彼は1918年7月、川崎造船所兵庫工場に飛行機科を設けて航空機生産の研究を始め、この年には、フランスのサルムソン社から
サルムソン偵察機の製造権を獲得しました。
 これを知った陸軍は、1919年に川崎造船所にサルムソン偵察機2機の試作を発注します。

 一方で、川崎造船所は、航空機生産に本格的に乗り出すために、組立工場の適地の選定に入ります。この結果選ばれたのが各務原でした。
 各務原は、陸軍の飛行場と航空隊があり、試験飛行を実施するのに好都合であったことと、当時の蘇原村が工場誘致に熱心で、工場用地の一部を無償提供するという好条件があったからでした。川崎は、60,575坪(約20万平方メートル)の広大な工場用地を取得しました。
 ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P22 

 かくて、1921年稲葉郡蘇原村三柿野に川崎造船所の飛行機組立工場の建設が始まり、1923年4月に竣工しました。
 この間、1922年には川崎造船所は組織を変更し、工場は
川崎造船所飛行機部各務原分工場となっていました。
 ところで、試作していた
サルムソン偵察機の方は、22年11月になってようやく完成しました。なんと、試作機2機作るのに、3年4ヶ月もかかっています。
 ただし、このときはまだ、各務原分工場の方はできていませんから、完成したのは、兵庫工場です。したがって、一度完成した飛行機は、もう一度分解されて貨車で神戸から岐阜まで運ばれ、岐阜からは、なんと舗装されていない悪路を牛車で運ぶというのんびりした方法で各務原飛行場までやってきました。そして、ここで再び組み立てられて、初飛行となったのです。
 何とも能率の悪い話です。

 のち、
三菱重工業名古屋航空機製作所で作られた零戦の試作機も、各務原飛行場で初飛行しました。工場の近くには飛行場がなかったからです。この時も名古屋から牛車で運ばれたという話は有名です。
 ちょっと余談ですが、三菱の名古屋航空機製作所大江工場で作られた飛行機は、その後も、遠くの飛行場まで運ばれて飛ばされました。海軍機は三重県の鈴鹿飛行場、陸軍機はこの各務原飛行場です。
 太平洋戦争の後半期になって、飛行機の増産が叫ばれると、工場から各務原まで48kmを牛車で丸24時間もかかって機体を運ぶのは時間のロスだと言うわけで、陸軍からトラックとトレーラーが供与され、それによる輸送が試みられました。
 時間は大幅に改善されましたが、機体を調べてみると胴体の底部骨組みに細かい亀裂が生じているのが発見されました。実は、各務原までの道は未舗装のでこぼこ道でした。そこをトラックで猛然と走ったために揺れと振動で、機体を痛めてしまったのです。かくて、輸送方法は再び牛車に戻されました。
 ※柳田邦男著『ゼロ戦燃ゆ 熱闘編』(文藝春秋 1985年)P432−435参照

 これから考えると、川崎が各務原飛行場のすぐ隣に工場を造ったということは、これ以後の航空機の開発を能率よく行えるという点で、非常に優れた選択でした。

 さて試作機が期待どおりだったため、
サルムソン偵察機は陸軍の制式に採用されました。
 この結果、川崎造船所飛行機部各務原分工場が最初に大量生産した飛行機は、このサルムソン偵察機ということになりました。
 
サルムソン2A−2型機、陸軍の制式名称では、乙式1型偵察機は、1927年8月まで、300機が生産されたのでした。

 ここで、日本の他の航空機メーカーについて少々説明します。
 すでに上に登場した三菱は、明治前半以来の日本の財閥企業ですが、三菱造船から分離する形で1920年三菱内燃機製造が設立され、エンジン及び航空機の生産に乗り出します。
 1921年にはイギリス人スミスが設計した発の国産艦上戦闘機(航空母艦から発艦・着艦する海軍機)を作ります。1928(昭和3)年には、
三菱航空機となります。
 
 三菱と並ぶのちの日本の2大航空機メーカー、
中島飛行機は、退役した元海軍機関大尉中島知久平が、1917年に群馬県太田町(現太田市)に創設した飛行機研究所に始まります。
 1919年中島は、民間製作最初の軍用機「中島式4型」を納入し、これを機に、
中島飛行機製作所を設立します。

 こうして、
三菱中島川崎、日本の有力航空機メーカーは、いずれも第一次世界大戦直後に発足し、発展の道を歩みはじめます。

上、昭和初期の各務原飛行場。宙返りの訓練がおこなわれている。
下、現在の航空自衛隊岐阜基地の滑走路。金華山展望台から撮影。(撮影日 04/12/30)


 かかみがはら航空宇宙博物館に復元展示されているサルムソン2A−2型機(乙式1型偵察機)。川崎重工を中心とするボランティアグループの手によって復元されました。
 川崎のみならず、日本の航空機産業として初めて量産化に成功した記念すべき飛行機です。最高速度は186km/hでした。

 このページには、かかみがはら航空宇宙博物館で撮影した写真をいろいろ使っています。
「展示物の写真をインターネットで公開することに著作権上等の問題はありますか」「いいえ、まったく問題ありません。」とのことでしたので、せっかくの「郷土の宝」ですから、いろいろお話をします。
 ※同博物館の紹介は、このテーマのNo1にあります。


 土井武夫・堀越二郎               | このページの先頭へ | 

 1927(昭和2)年2月、川崎造船所飛行機部各務原分工場は、川崎造船所飛行機工場となり、本社直属の工場となりました。
 この年、川崎が初めて自社製作した
KDA2型が陸軍の八八式偵察機として制式になりました。
 
 そして、この春に東京帝国大学を卒業した若者が、川崎に入社します。その人は土井武夫さん、のちの飛燕など軍用機や戦後のYS11などを設計した偉大な飛行機設計士です。
 
 このときの、東京帝国大学航空学科の同期生には、堀越二郎さんなどのちの日本の航空機技術界をになう若者が多くいました。
 堀越さんは、当時の
三菱内燃機株式会社(のちの三菱航空機、三菱重工業)に就職し、のちにかの有名な零戦を設計します。(この時点で、航空学科は、日本では東京帝国大学にしかありませんでした。)
 

 川崎の土井技師は、当初は、川崎に招かれていたフォークトのもとで「修行」を積みます。リヒャルト・フォークト博士は、飛行機技術の先進国ドイツから招かれて、川崎の航空機製造を指導していました。
 やがて、土井技師は川崎の飛行機設計の中心人物となりす。特に、1938年から1945年までの8年間には、試作機段階で終わったものも含めて、なんと22機種の飛行機の設計にかかわりました。

 

川崎 八八式偵察機

中島 甲式4型戦闘機

 土井技師が川崎に入社した1927(昭和2)年に陸軍の制式となった八八式偵察機。これを改良した爆撃機も制式となり、7年間にわたり、合計890機が生産されました。
  □水冷式エンジン、最高速度220km/h
 満州事変で活躍した飛行機です。

碇義朗著『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』
(光人社NF文庫1996年)P36

 こちらは、中島飛行機が生産した甲式四型戦闘機。ただし、もともとは、1922年に就役したニューポール・ドラージュ29というフランス製の戦闘機です。
  □水冷式800馬力エンジン、最高時速232km/h
 中島がライセンス生産し、大正時代末から満州事変にかけて使われます。

野原茂著『図解世界のレシプロ軍用機集1909-1945』(グリーンアロー出版社)P100

  ※写真は、両機ともかかみがはら航空宇宙博物館の展示品の写真です。


  川崎の戦闘機                                | このページの先頭へ | 

 土井技師が川崎に入社した頃、陸軍の戦闘機は、右上の写真の中島飛行機製造のフランス製甲式四型でした。
 しかし、第一次世界大戦直後に開発された飛行機とあって、昭和にはいると次の戦闘機を開発する必要が生じてきました。

 ここで陸軍は、航空機開発において、はじめて、航空機メーカー数社による競争開発(競争設計)方式を実施しました。
 これは、最初に陸軍から計画要求(性能の要求、たとえば、最高時速は○○km/h以上とか)を行い、各メーカーが設計図を書いて提出し、書類審査に受かったものが、さらに実機(実物の試作機)を作って、その中からよいものを制式とするという方式です。
 これは、のちには、普通に行われる方式となりますが、土井技師が入社した1927年に、初めて行われました。

 この時は、三菱、中島、川崎の他に、石川島(のちの石川島播磨重工業)に対して競争設計が命じられ、設計図審査をパスした三菱、中島、川崎が実機を作りました。

 当時は、川崎の設計部門は、神戸工場にありました。そこで、KDA3型を試作しましたが、最終的には、中島製が勝ち残り、1931年に九一式戦闘機として制式となりました。この飛行機は、1934年まで4年間に全部で320機が製造されました。

 敗れた川崎も、それにくじけず、新しい試作機を作り、巻き返しを図りました。試作機KDA5型は、九一式戦闘機を上回る高性能を発揮し、1932年に
九二式戦闘機として制式になりました。
  □水冷式500馬力エンジン、最高時速320km/h
 九一式を上回る380機が生産されました。

 しかし、製品開発というのは、いつの時代でもどんな製品でも、日進月歩、競争の世界です。
 陸軍からは、1933年早くも九二式戦闘機の次の機体開発の指示が出ます。
 川崎と中島の争いとなりました。
 この時、おりしも長年川崎の航空機の設計を指導してきたフォークト博士は、ドイツに帰国することになりました。
 陸軍から、試作機番号としてキ5をもらった川崎の次期戦闘機は、土井技師が初めて主任設計士として担当する機体となりました。
 (陸軍は、1933(昭和3)年以降、試作機番号としてキ○○という表現を使いました。これは、終戦まで続きます。)

 しかし、試作機の性能は、中島製のキ6が上でした。川崎キ5は、速度が計算したほどには出なかったのです。
 土井技師は、最初の仕事で敗北の苦さを味わいます。
 試作機競争に敗れたと言うことは、単に技術競争に負けたと言うことだけではなく、会社として注文がもらえないということを意味します。キ5の不採用によって、川崎はたちまち会社の業績が悪化します。
 しかし、土井技師の挽回の機会は、すぐにやってきます。1934年、陸軍から次の試作機作製の指示がありました。川崎に与えられた試作機番号はキ10。
 土井技師は、中島飛行機に勝つために、あえて、実績のある
九二式戦闘機をベースとした複葉(翼が2枚)機を試作機としました。
 ライバル中島のキ11は、単葉機(翼が1枚)で、時代の先端を行くものでした。最高速度は当然中島キ11の方が上回ります。

 ところが、結果は、川崎キ10が採用となったのです。
 陸軍のパイロットたちは、スピード以外の要素、つまり戦闘機に必要な小回りなどの格闘性能を重視したのです。
 1935(昭和10)年、キ10は
九五式戦闘機として制式になりました。この飛行機は1938年まで製造され、合計588機が作られました。
 川崎の組立工場は再び活気づきます。これまでの生産体制を拡大しなければなりません。
 ところが、主力工場であった神戸工場は、手狭となりこれ以上の拡張はできない状態でした。
 
 この結果、川崎は生産体制を変更します。
 これまで、神戸の工場は機体と発動機(エンジン)の両方を生産していましたが、これ以降は発動機専用工場とし、一方各務原の機体組立工場を大拡充して神戸の機体工場も各務原への移転させたのです。
 1937年4月、各務原分工場は、各務原工場に昇格しました。
 各務原工場は、小型機に換算して月産60機の体制となり、神戸からも1200名もの職員・工員が移転してしました。社員用の住宅や独身寮も新たに多数作られました。
 この結果、それまでそう大きな人口を有していなかった那加村や蘇原村も、俄然活気を帯びることになります。
  ※各務原市戦時記録編集委員会編『各務原市民の戦時記録』(各務原市教育委員会 1999年)P24

 1937(昭和12)年、日中戦争が始まりますが、この11月、川崎造船所は、神戸と各務原の飛行機工場を分離独立させ、
川崎航空機工業株式会社を設立させました。
 日中戦争が始まったことにより、陸軍が川崎の計画を上回る規模の工場拡大を要望してきた結果、海軍と関係の深い川崎の艦船部門との分離を図り、両部門ともより積極的な活動を可能とするためでした。
 ※川崎重工業編『90年の歩み−川崎重工業小史−』(ダイヤモンド社 1986年)P83

 各務原工場は、
川崎航空機各務原工場となったのです。こののち、1939年には、岐阜工場と改称されます。 
 

川崎 九五式戦闘機
 □水冷式V型12気筒850馬力エンジン搭載
  最高時速400km/h


 格闘性能がよく、採用となったものの、この当時の世界水準としては、すでに時代遅れとなった、複葉機・固定脚の戦闘機でした。
 同じタイプの戦闘機の中では抜群でしたが、1939年のノモンハン事件では、ソ連軍のポリカルポフI−16戦闘機(単葉引き込み脚、最高時速520km/h)に追いつくことができず、限界が明白となりました。 かかみがはら航空宇宙博物館の展示品の写真です。


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