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 ※ パーキンソン病の結末については,「日記」のパーキンソン病DBS体験記2」に続きがあります。

47 Family history 祖父・祖母の記 大正・昭和時代 24/03/25
 一体,ネタが面白くない自分史ほど面白くないものはない。
 最近NHKのテレビで,「ファミリー・ヒストリー」と題して俳優の家系を解明する番組が高視聴率を上げていて,事実見ていてとても面白い。草刈正雄の父親(駐留していた進駐軍の兵士)探しの旅などは,涙を誘う名作になっていた。
 これは面白いネタをドラマ仕立てにしていくから面白いのであって,最初に面白そうなタレントを選ぶからこそ,面白い結果になるのであろう。
 私がこれから書こうとしている祖父・祖母・父母の記録は,それほどドラマティックかといえば,そうではない。面白しろい話はそうあちこちに転がっているものではない。ではなぜ書くのか。
 ただひたすら「祖先史」を自分の子・孫に伝えたいという思いだけからである。「君たち,その祖先はこんな人たちだったのだ。」
 文章だけの説明では平たんになってしまうので,できるだけ写真を入れて説明した。それについてはコピーされて悪用される危険性もあるが,そのリスクよりもリアリティの面白さを重視した。 

【出”多治見”】
 我が家の墓には,わが子・孫たちどころか私もあまり知らない名前が2柱刻まれている。
 そのうちの一人は私の曾祖父(ひい爺さん)にあたる人で別添系図上の最上位の人物Aである。Aは岐阜県多治見市の出生で生涯をその周辺で暮らした。没年は1931年2月28日


 系図を見ていただきた.。
 上述のように私の祖父方の親戚は多治見が中心であったが,祖父の妹にあたる二人の女性は岐阜へ嫁いできていた。
 また,祖母の兄弟は現在の可児市の二野に居住し,さらに姉が同じく可児市広見に嫁いでいて,祖母が帰るべき故郷(在所)はこの広見と二野であった。まだ私が小学校へ上がる前,祖母に連れられて夏のお盆に経験した国鉄高山本線と太多線を利用したこの「帰省」は,少年の冒険心を満たすちょっとした非日常的がそこにあった。

 この写真は,国土地理院の空中写真から入手した1962年ごろの岐阜市の岐阜駅とその東の地域の市街地の航空機からの撮影写真である。(以下特に説明がなければ同じ)点線囲いAは国鉄岐阜駅(現JR岐阜駅)の跨線橋より東の部分である。点線囲いBは岐阜駅の機関庫があった場所である。当時,単線未電化の高山本線は,特急列車・急行列車などにディーゼル車は使用されていたが,普通列車は当然ながら蒸気機関車が牽引した。岐阜駅の東端部にあった機関庫はその蒸気機関車が給水や石炭積み込みを行う「基地」であった。もちろん方向転換のためのターンテーブルもあった。(現在のコメダコーヒーがあるところ)
 祖父や父は機嫌が悪くなって泣き止まぬ私を,自転車に乗せてこの清住町の踏切まで連れて来て,蒸気機関紗や貨物列車を見せて機嫌を直したという。私の記憶にはそのほん断片しか残っていない。
 祖母との帰郷。それはそのわくわくする蒸気機関車に乗れるということであった。

 蒸気機関車が牽引する列車に乗っていて体験できるスリリングなことのひとつは,列車がトンネルに入ってしまった時のそれである。あのくさいにおい,息苦しさ。
 そんな体験ができた岐阜駅から一番近いところが、祖母の在所に行くまでにあったのです。上の地図と航空写真はその場所を示すものである。どこかわかるかな。
 正解は,高山本線の鵜沼・坂祝駅間にある3つの短いトンネルである。鵜沼の方から,166mの萱場山トンネル,次いで112mの第一岩屋トンネル,最後が第二96mの第二岩屋トンネルである。併せても350m程度の長さであるから大したことはないが,それでも初めて経験するトンネルであった。
 この航空写真は1964年の可児市二野付近のものである。祖母の在所はこの写真の中にあった。
 今は大きな団地がいくつもできて名古屋のベッドタウンとなっている可児市であるが,当時は可児川の支流久々利川(写真中央下から左下へ流れる)の下流に形成された田園地帯であり,これは高度経済成長前の日本のどこにでも見られた風景であった。
 しかし,日頃岐阜市中心部の「自然とは無縁」の所に住んでいる私にとっては,在所の少年たちとする川での水泳,ゴムを使った銛での小魚取り,茶の実をぶけあう戦争ごっこなどは,まさしく面白くて面白くて日が暮れるのも忘れるというスリルと興奮の体験であった。

 祖父の話に戻ろう。系図Aの子が私の祖父である。
 わが母によれば,祖父は1899年多治見の小作農家の子として生まれた。しかし,零細農家にて家業が成り立たず,己の才能を生かすべく,岐阜へ出た。高校の日本史の教科書的には,明治後半期の農村の状況として描写される,
「小作料の支払いに苦しむ小作農は,子女を工場に出稼ぎに出したり,副業を営んだりしてかろうじて家計をおぎなっていた。」(佐藤信ほか著『詳説日本史 日本史探求』山川出版,2023年,P286)
という状況であった。
 都会へ出てきた小作農民が落ち着くのは貧民街である。幸か不幸か祖父の特色として誰もが認める点は,頭がいいという点であった。もちろん尋常小学校しか出てはいないが,いわゆる記憶力がよく機転が利くという若者であった。

 私の祖父 見るからに神経質そうだが,実際にその通りだった。
 夫婦共稼ぎの我が家では私は祖父・祖母に養育された。

【要領よく生きる】
 この利点は裏を返せば,地道に努力することを嫌い要領よく世を渡るという欠点にもつながる。
 祖父はやがて現在の可児市二野出身の女性(わが祖母)と岐阜市内で入籍し,3人の女の子を授かる。その三女がわが母である。
 祖父の話を続ける。母に祖父のことを尋ねた時こんなことを言っていた。「頭がよくて地道な努力が嫌いだったので,一つの仕事を続けてやるということにはならず,色々な仕事をやっていた。市内電車の運転手をやったこともあった。」
 また,父が車に同乗している私に,何気なく言った言葉にどきりとしたこともあった。
「お前のじいちゃんな,この中におったこともあるんやで。」
 私が中学生の頃の話である。その時父の車は,現在の長良中学校前を走行中であった。私が中学生のころ現長良中学校の場所はなんであったかというと,長い高い塀を持つ岐阜刑務所であった。私は少しの希望を持って尋ねた。
「刑務官かなんかの職員?」
「いや違う。つかまって入っとった。」
「つかまったって,お爺ちゃん何をやったの?」
「盗品故買」(盗品と知って品物を売りさばいた罪)祖父から傷害や窃盗の罪は連想しづらいが,これならあり得ると変に納得した。
 私が知っている祖父の最後の生業は,50歳過ぎてからはじめた廃品回収業であった。昭和20年代の後半は今のように環境問題について配慮がなされている時代ではなく,繊維・新聞・ビンカンなどの廃棄物は自分で捨てるか業者に売るという時代であった。今ならそれなりの意義づけはできようが,当時は繊維廃棄物を「ボテ」と言い,それを扱う仕事はボテ屋と呼ばれ,生産・消費構造の最末端に位置付けられて蔑視される対象であった。
 祖父は今でいうリヤカーを少し細長くし前後に伸ばした大八車のような車を引いて朝家を出て,市中を歩き,夕方には帰ってきて集めた荷物を近くにあった廃棄物の「問屋」に持ち込み,買った以上のなにがしかの代価を得て,家へもどるといった生活であった。
 1945年以前,祖父たちがどのような家に暮らしていたかは今となっては想像しようもない。1945年7月10日未明のアメリカ軍の岐阜空襲でB29爆撃機の焼夷弾攻撃によって炎上してしまったからである。私が小学生のころ、祖父は真面目な顔してそぶいていた。
「B29はわしの家にわざわざ爆弾を落としに来た。これがその証拠だ」といって赤茶けて錆に
まみれた鉄の筒を見せてくれた。きっと廃品回収で手に入れた品物に違いない。でも爺ちゃん,この話を信じてしまった私は, ちょっとの間B29はわざわざ私の家を狙って焼夷弾を落としたと信じていた。
 真実は都市市民を対象とする無差別絨毯爆撃であったのだけれども・・・。

爆撃機B29の模型
機首の前に置いてあるのが20cm物差
模型でも翼長60cmはある。 

同機のプラモデルの機種部分の拡大写真
米軍は対独爆撃で使用したB17を,対独戦終了後に対日攻撃に回すことなく,B29のみで戦い切った. 

焼夷弾の残骸
わが家の「家宝」である

 岐阜空襲直後にアメリカ軍偵察機が撮影した岐阜空襲の「戦果」。赤い円は現在の金華橋通りと岐阜東西通りの交差点を中心とする半径1マイル(1.6q)を示す。中心部は丸焼けになっている。黄色い円が祖父母と母が住んでいた家の所在地。(ハートフルスクウェアーG 岐阜空襲資料室展示資料より作成)


【祖母の見栄っ張り】
 父母が共稼ぎで不在であったいわゆる共稼ぎの家庭であったので,祖父母の家庭における最重要の役割は,無論孫の養育である。よくあるように私はお祖母ちゃん子であった。
 祖母は近所のばあさん連中と比較すると断然背が高く,容貌もきりりとしていて,「私は武家の出身」と言い切ればそう信じてしまいそうな女性であった。事実は現在の可児市二野の農家の出であった。
 祖母のそういう事情はその性格を見栄っ張りなものとした。それが一番よく表れたのが娘と孫(私)への教育である。
 まず母であるが,母は女ばかりの三人姉妹の末娘であったが,上二人が他家への嫁となってしまったため,家名を遺す為に父を養子として迎えることになるが,そのくだりはのちに述べよう。まずは祖父母の教育である。
 祖父母は,尋常小学校を卒業した母を私立の高等女学校に入学させた。 当時(母は1930年生まれ,1940年代前半の状況)女子の高等女学校入学は次第に高まってきたとはいえ,母の記憶によれば小学校卒業生のうち数人が進学する程度のものであり(わが母子はともに岐阜市立白山小学校卒),廃品回収業を生業としていた家庭の娘には、授業料・諸費用もろもろのことも考えるとちょっと無茶な決断であった。母は世間的に分不相応なこの進路選択についてご近所はあまりよく見ていなかったと受け止めており,それが証拠に,「あのうちは娘の授業料がはらえずに夜逃げするぞと噂された」と言っていた。(ここで授業料等の金額が判明すると話が具体的になって面白い,しかし富田高等女学校の後身の学校法人に尋ねたが,あっさり「分からない」といわれてしまった)
 母の女学校時代はこの後で詳述するが,祖母の「高等女学校ぐらいは卒業させてやれ」という見栄はのち大成功につながるのである。

 祖母の二つ目の見栄は,孫の私を近くの保育所ではなく,遠くにある幼稚園に入学させたことである。わが家から西へ300mほど歩くとそこには岐阜市営の溝畑保育園があり,近隣の普通の子供たちはその保育園へ何の疑いもなく通った。
 しかし,祖母は私をその保育所に入れず,東へ1km以上を離れた,しゃれた制服を持つ幼稚園へ入園させた。この幼稚園には園児の多くが白山・梅林校下の東部の家庭から構成されていたが,写真にあるようにしゃれた制服とバスケットというのは,祖母のご近所への見栄を満足させるのに十分であった。 
 祖母は右端 背が高い


ゆりかご幼稚園へ
制服・市営バスで通学
この選択には一つ困難が伴った。どのように通学するかである。当時は今のように送迎の幼稚園バスというものはなく,自力で登園しなければならなかった。そこで祖母と祖父は考えた。孫を市バスで幼稚園に通わせる。つまり,市バスの東栄線を利用することに目を付けた。幼稚園と東栄町のバス停間は幼稚園の先生がバスの時間に合わせて送迎する。バスの中では東栄町ー鶴田町ー東金宝町と本人一人おとなしくいい子ですごす,東金宝町には祖父または祖母がバスの時刻に応じて送迎する。
これを2年間続けた。

【孫を連れて】
 その頃の祖母の趣味が何だったかと問われても,残念ながら「覚えていない」というしかない。当時,明日の生活にも苦しむという貧乏所帯では,趣味などという発想はなかったかもしれない。
 しかしながら,貧しい家計の中からやり繰りしたお金であちこち旅に行くことは多くあり,これが趣味といえばそうであった。
 但し写真などの記録はあまり残っておらず,右の写真は残された珍しい一枚である。 

 
 この写真は讃岐の金毘羅神社の本宮に登る「駕籠」である。この時聞いた説明では,本宮は785の階段を登った上にあり,「駕籠」は足腰の弱い老人用に営業しているとのことだった。私は一緒に行かなかったのかもしれない。 →2011年讃岐香川・備前岡山旅行

 もうひとつ,自分の記憶に明快に残っていることとして,京都比叡山延暦寺へのバス旅行がある。祖母と私は,おそらくは岐阜乗合バスの募集したツアーに参加し,比叡山へ向かった。私が幼稚園の時の多分5歳の時のことであるがこの旅行には印象に残っていることが二つもある。
 ひとつは京都市内をバスが走行している時のことである。バスが信号で止まり,その直前を電車が横切り,路上に敷かれている京都市電の線路と交差する際に,通常とは異なる大きな音が聞こえた。それが私には,「ふたたん,ふたたん」と聞こえた。私は得意がって祖母に,「ふたたん,ふたたんの電車」と大きな声で報告し,祖母は「ほうかね。ふたたん・ふたたん電車かね」と言ってその表現を褒めてくれた。
 祖母と私の座席がバスの運転手のすぐ後ろだったことから,二人のやり取りがバスガイドにも聞こえたらしく,ガイドが
「そうですかボク,ふたたんふたたん、ですか」とガイドの車内マイクを握ったまま会話に参入してきた。「面白い聞こえ方ですね,ボク」と率直に褒めてくれたのであるが,これに乗客が反応し車内は大笑いとなった。これはおそらくは,
「坊主,なかなか面白いことを言うやつだな」という,褒める意味での大笑いであっただろうと今なら理解できる。しかし,その時の私にはそういう理解はできなかった。ただ「笑われた」という気持ちのみが残り,その屈辱と寂しさに,私はそこで大泣きをしてしまった。
 最前列の席で大泣きする子供,なだめるばあさん,慌てるバスガイド,しらけるほかの乗客・・・。
 このような心境で人は泣くか?私には自分の作ってきた世界が外力によって破られ,予想外の評価を受けた時,その評価が仮にプラスでも,大泣きに泣いてしまうという性癖がしばしば噴出し,面倒をみていた祖母を困らせた。
 小学校1年生の時,書道(習字)の塾に通った。家からやや遠い華陽小学校の校区の塾だったため,この時も祖母が塾まで私を送り,そのまま練習中も部屋の隅で待っているという,わがままを通してもらっていた。
「M君,今回のは大変いきおい良く字が書けましたので,市展に出品しようと思いますが,よろしいですか?」
 これで大泣きされては,習字の先生もさぞ困っただろう。うまい字が書きたいと練習を重ねてきて未だ練習不足と思っている私と,字の勢いを大切にする書道教師と,大人の視点で考えれば解決は容易なのだが,泣くというコミュニケーション手段しか持たない私は,本当に厄介なこどもであった。
 またまた未来航路ならではのくどい説明である。
 私が大泣きする原因となった上記の鉄道の交差はどの鉄道のことを指しているのだろう。これは長い間まるで滓のように私の記憶に沈殿することになる。よく考えれば,鉄道の交差というのがそもそも路面電車などの場合を除いてはそれほど多くあるわけではなく,しかも,ガタゴトとかゴトゴトとかではなく,フタタンという軽い音を立てて線路の交わりを越えていかなければならない。
 これらの疑問は,私が1973年4月に京都の大学に進学し左京区一乗寺清水町に下宿することによって,簡単に氷解した。下宿から大学までの自転車通学路にその場所が存在したからである。
 現在の京都市を南北に貫く広い道のうち一番東にある道を東王路と呼ぶが,私の入学時には,京都市電の停留所が南から熊野・東一条・百万遍・元田中とあり,その元田中こそが京福電鉄(現叡山電鉄)叡山線が旧京都市電の軌道をy小切る場所であり,「フタタン」の現場であった。(上の地図の青いの部分)
 但し,大学生になった私の耳には,「フタタン」とは聞こえなかった。もちろん,「ガタゴト」などという無粋な音ではなかったが・・・・。(上の写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧情報の空中写真・京都市左京区CKK7415・コース番号C4から作成) 

 この時のバス旅行では,初めてもう一つ経験をした。それまで祖母にあちこち旅行に連れて行ってもらって楽しい思い出を作ることができたが,今回は午前中の大泣きに続いて,午後もひどい目にあった。比叡山に上るドライブウエイの曲がりくねった道に耐えられず,生まれて初めてバスに酔ったのである。午前中の大泣きの影響もあったかもしれないが,これも今でもはっきりと覚えているが,半べそをかきながらバスガイドの渡すバケツに「オエー」とやりまくっていた。以後,伊吹山ドライブウェー,日光イロハ坂,乗鞍ドライブウェーなど,高い所へ行く道路は必ず酔った。

 またこんなこともあった。
 祖母は何を思ったのか近所のおばあさん連中とつるんで私を西柳ヶ瀬にある劇場,真砂(まさご)座へ連れて行った。この劇場は岐阜界隈の人は知る人は知る,有名なストリップ劇場である。私が幼稚園年長組の時のことである。
 記憶違いではないかと思われる方もいるかもしれないので,細かいところを説明する。
 中学校の時まで岐阜にはストリップ劇場が二つあってもう一つを「セントラル劇場」といった。これは我が中学校校区に直に隣接する場所(神田町通りの現在の岐阜信用金庫本店の北西の角)にあり,小中学生も十分意識する存在であり,次のざれ歌は誰でも知っていた。
「私はね セントラルの踊り子よ 綺麗でしょ三角パンツに身を包み
あっという間に まる裸」
 一部違っているかもしれないが趣旨はこのようなものであった。
 三角パンツとはまた直接的な表現であるが,踊り子の女性が舞台登場時につけている赤や青のキラキラスパンコールのついた極小の衣装のことである。それを最後に身から剥がせば,手で隠す以外は完全に裸となるという意味であろうか。
 祖母が連れて行ってくれたまさご座では何人かの踊り子がダンスとストリップを繰り返し,3・4人目ぐらいにぱっと見いかにも若い踊り子が登場した。すると,隣にいたおばあさんがしたり顔に解説した。
「この子,若いから全部見せんかもしれん」 案の定,その踊り子は最後は衣装の上から手で股を抑えたままポーズをとって踊りを終えた。
「ほら,わしの言う通りやがね」
 ばあさんは予言があったといわんばかりで得意顔である。
 私はこのやり取りもはもちろん,踊り子の白い手,紫色のスパンコール,そして無意識か計算づくか,パンツの端からこぼれ見える陰毛の黒,これらの光景を鮮明に覚えている。 
 今も昔もこの場所にある真砂座 
 柳ヶ瀬をずっと西に向かうとやがてアーケードが途切れ明るい五差路がある そこから斜めに真砂町通りに向かうと劇場の前にでる 
 岐阜市春日町1の15 これが正しい住所である
 これまであまり深く考えてこなかったが,何故祖母や近所のばあ様たちは,孫を連れてまさご座に来たのだろう。
 若い兄貴ならともかく,60歳前後のばあ様がストリップショウを観る積極的な理由はない。また,私をはじめ孫たちも女性の裸といってもきれいな衣装を除いては,母と行く銭湯の女湯と変わりはない。それなのに何故まさご座なのか?
 この疑問はまさご座の歴史を調べることによって氷解した。まさご座は終戦後間もない1947 年にこの地域の有力者玉木喜平によって創立された。しかし,設立当初は普通の芝居小屋であり,大衆演劇・落語・浪曲・歌謡ショウ・ストリップ等なんでもありの劇場,まさご座であった。三波春夫やコント55号(坂上二郎・萩本欣一)も出演したことがあるという。
 ところが1960年ごろからストリップ専門の劇場へ衣替えした。つまり,私が連れられてまさご座に来た頃はまさしくその過渡期であり,ばあ様たちはそのことを知らずに来てしまったか,あるいは私の記憶が間違っていて,ストリップ以外の興行も見たのかもしれない。残念ながらその辺の記憶は曖昧である。
 一方でまさご座は2022年に創立70周年を祝っており(これだと創立は1952年,まだ私は生まれていない),多少のズレはある。
 ばあ様たちの名誉のためにまとめれば,今と違って情報に乏しい時代,劇場まさご座へ孫を連れてきたら,ストリップもやっていたという所だろうか。
 ところで,もちろんこの時代のストリップは,小さな子どもや婆さんが見ても害はないような健全なストリップ・ショウだった。
 どういうことかといえば,舞台の上で客に性的なサービスを提供するという昭和の後半から平成バブル期にかけての猥褻・淫靡なものではなかったということである。
 さてストリップ劇場の現状はご存じだろうか。昔は全国に100を優に超える劇場があったが,現在では僅か17劇場に減少し,これまた絶滅危惧種である。興行は各館10日単位で構成されており,1興行に5〜6人の踊り子さんが出場し、1日に5回ほどステージに上がる。一人30分ほどのステージである。
 現在のストリップ劇場にはかつての淫靡・猥褻な要素は少なく,「お客様にお願いします。公演最中に踊り子さんの身体や衣装には決してお触れにならないようにお願い申し上げます。」の世界であり,健全なストリップといえる。
 しかし,舞台は直径3m程のセリがついていて,1ステージ30分の最後の部分にはopen show と呼ばれる文字通り御開帳の時間が設定されていて,踊り子はここぞとばかりにセリの端にやってきてサービスする。
 もし「かぶり付き」の席に座ったとすると,「ご本尊」との距離は30〜50p程の至近距離となり.踊り子の化粧の臭いや生物体としての香りも嗅ぐことになる。 

祖父が教えてくれたこと
 祖母違って祖父から学んだことはそう多くはない。普通おばあちゃんっ子というのはよく聞くが,お爺ちゃんっ子というのはあまり聞かない。そして我が祖父は努力の人ではなかったので,より影響は少なくならざるを得なかった。
 先に祖母が1963年5月22日急性心不全により64歳で亡くなり,祖父はそれより遅れて1965年3月30日老衰により68歳で亡くなった。

 祖母が亡くなってから自分の死までの2年間病弱だった祖父は廃品回収業を続けるとともに孫の私の面倒を見たが,その熱心度は祖母の比ではなかった。
 祖母は私に勉強を教え、あまつさえ時々見るに見かねて私の宿題を代わりにやってくれた。そのまま先生に提出し,「こらM君,これは誰の字?」と突き返され,泣きながらやり直した。その祖母が亡くなったときは本当に悲しくて,通夜から葬式までわんわんと泣き明かした。
 それで何か気持ちがすっとして,「祖母がいなくなったのだから,自分でやらないかん」と覚悟が固まり,少し自立した小学校3年生となった。
 祖父の所業で印象に残ってることが二つある。
 ひとつは,競輪場通いである。

 岐阜市の競輪場は今も昔も梅林中学校校区の東端にある。わが家からは子どもの足でも歩いて1時間弱ぐらいの距離である。「祖父は孫を連れて競輪」が趣味となった。バスで行った記憶もあるし,自転車の後ろに乗って,それを祖父が引いていったという記憶もある。
 競輪はどのくらいの勝ち負けになっているかは知らなかったが,うるさい母親が怒ったり愚痴を言ったりしなかったから,そこそこは稼いで自立した生計となっていたのであろう。
 「競馬はいかん。動物は予想できん。その点競輪はよい。人がやることだから予想がつきやすい。」これが名言なのか迷言なのか,その奥義を聞く前に,祖父は亡くなくなってしまった。
 わが家の墓は市営の上加納墓地の坂の上にあった。上加納も梅林中学校の校区であるが,こちらはわが家から歩いて1時間以上はかかる。  祖母が亡くなる時点では,墓は石碑ではなく木の墓標であった。祖父はこれが我慢ならなかった。
「これでは安心して眠れん」
 祖父の金か父母の金かいずれかのお金で,すぐに石の墓が作られた。しかし,その墓は資金不足のせいか,お骨を収める「石室」の機能が十分ではなく,祖父はそれが気に入らなかった。自分で簡単な図面を引き,通常のブロック材を使ってその石室を作り始めた。
 家でブロック・セメント・鉄筋を使ってパーツを作り,いくつかのパーツを自転車に積んで墓まで運び,そこで組み立てるのである。
 4年生の夏休み,この半年後に亡くなる祖父としてはもう残された時間が少ないことは自覚できていたのであろう。孫に手伝わせて石室の完成を急いだ。
 わが家の墓は上加納墓地のかなり坂を上った場所にあり,そこまでブロックを運ぶことは相当難儀なことであった。
 大粒の汗をかきながら,必死にブロックを運ぶ祖父を見ていて,「自分の墓を作る」執念のようなものを感じた。権力者がピラミッド・古墳を作るのと同じ執念なのかもしれない。
 小4の子どもにはちょっと難しい心持ちだったが,この夏ブロックを運ぶ祖父の背中は,盗品故売や競輪とは全く異なるイメージを孫に残した。 
 上加納墓地の坂のかなり上の方にあったわが家の石の墓(写真中央の背が高い墓)

 
 墓そのものは台座の上に墓石3段の作りで,決して他に遜色のあるものではなかったが,祖父は写真の墓石の3段目にある骨壺を納める石室が,「雨水が入って溜まる」と言って,それとは異なる外部の石室の造営を始めた。
 そしてできたのが墓の前に3段のブロックを積んである構造物である。
 当時は今と違って近くにホームセンターなどない時代であったから,ブロック一つ買うのも手間がかかったろう。どこで買ったか祖父はそれを自転車の荷台にヒモで括り付けて運んできた。もちろんこの時の我が家には自動車はなく,普通の家は自転車が移動もの運びの主役であった。
 そして新しい石室ができると,ほどなくして祖母と並んで祖父もそこへ入ることになる。
 この写真は皮肉にも祖父の一回忌に親族が墓前に集まったときに撮影されたもの。中央の黒衣はわが家の菩提寺(臨済宗瑞龍寺天澤院)の先々代の僧侶。その向こうの子どもが私である。当時小5の春休みであった。
 読経の後,私は得意気にこの石室について説明した。造営の苦労は,父母も知らない,私だけが知っている秘事であった。

 なお,わが家のこの上加納の墓は,住居が白山小校区から中西郷へ移る,とそれに伴って譲渡・売却された。
 父母が,「墓は家の近くにないとお参りに行かなくなる」と主張し,新しく分譲した墓地を購入して,そこへ移してしまった。この墓は,東海環状自動車道の御母山トンネルの西郷側出口の東の山裾に今も残っている。
 今,2度目の転居をして西岐阜駅にほど近い,市橋に住んでいるが.墓までは車で25分ほどかかる。
 墓から遠くなったからと言って墓を現在地近くへ移転するつもりはない。費用の関係からその発想は無理があることがわかった。
 菩提寺の住職は,「人と墓の移動をセットにしては大変ですから,いっそ墓じまいして,寺の敷地内にある墓地に移りませんか」と言ってくる。菩提寺はこれまた梅林中学校校区にあり,柳瀬の東口から徒歩10分の町中心部にあって,交通の便はよい。
 悩むところである。
 一応,長男夫婦がわが家の後継ぎということになっており,さらにその夫婦には長男があり,その世代までも墓守は大丈夫そうである。
 しかし,いずれは・・・・。  

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