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43 熟年時代・老年時代2 病気の山 致し方なし1 23/09/10

 10年前に,「熟年時代・老年時代」と言う区分を作った 時は,,熟年・老年とは言いながら,スポーツをはじめとしていろいろな活動をまだまだ行うつもりでいた。その自信がなければ誰も50代に入って,スパイクを購入したりしない。
 ソフトバール,バレーボ「これがあなたの左膝です。右に比べるとかなり傷んでいます。何かスポーツで無理をしましたか?ール,陸上,サッカーと自分の力を発揮できるスポーツ種目は山ほどあり,60代の全てはこれらのスポーツを楽しむ時間に充てようと思っていた。
 ところが、そんな甘い計画は50歳代末に次々と発症した三つの病気によって大きく阻害されることになる。三つの病気とは.パーキンソン病脊柱管狭窄症変形性膝関節症である。
 以下あまり楽しい話しではないが,私を苦しめる三つの病気について経験を含めて説明をする。そもそも病気の話など楽しくはないし,最後には尾籠な話もある。内容から見て三つの病気が嫌だと思った人は読み飛ばしていただいてもOKである。興味を感じたら見てください。また,先日の復活第一弾の日記156は未来航路運営中断時の理由としては,パーキンソン病と脊柱管狭窄症の二つを挙げただけであったが,現在ではもう一つ,変形性膝関節症が加わった。このうち最も深刻なのはパーキンソン病である。それ故にその説明は最後にまわして,まずは変形性膝関節症から説明する。


①私の変形性膝関節症

 変形性膝関節症は老齢者の約2分の1が罹患すると言われているポピュラーな病気であり,薬や治療方法も色々考えられている。 私も50代前半のある日,ジョギングを始めようとしてズキッと来たのが最初である。
 発病から15年余り,いろいろな正式な薬,医薬部外品、整形外科外科クリニック、リハビリクリニックにお世話になったが,どの医師もどの薬もどの施術も有効には働かなかっ


「これがあなたの左膝です。右に比べるとかなり傷んでいます。何かスポーツで無理をしましたか? 下の写真は2023年の4月に撮影した私の右膝のレントゲン写真である 。
(人体画像写真シリーズ4)         
「はい。ソフトボールのピッチャーをやってちょっと無理をしました。」
「痛くなったのはいつ頃からですか?」
「ソフトボールをやってた頃は運藤に支障が出る痛みではなかったのですが,50歳過ぎてから本当に痛くなりました。医者に通い始めたのは,ここ10年のことです。」
「関節の軟骨の再生は難しい。このまま死ぬまでヒアルロン酸の注射を打ち続けながら,上手に左膝と付き合っていってもらわなければなりません。」
 「人工関節の移植手術という手もあると先輩の先生から窺いました。」
手術という手もありますが、リハビリも含めてなかなか大変です。それほど簡単な選択肢ではありません」
 私  「・・・・・・・・」

【私の他の人体画像】
             

写真01 頭部CTスキャン  →2004年10月24日医学的記念写真partⅡ父編(■身体画像シリーズⅠ)
写真02 腹部レントゲン写真 →2005年1月23日腸閉塞入院期(■身体画像シリーズⅡ)
写真03 心臓のCTスキャン →2010年6月19日また身体画像コレクションが増えました(■シリーズⅢ)


 またまた話しは,遙か遠く,あらぬ方向へ脱線していく。 こんなにすり減って歩くたびにゴリゴリと音が出るようになるまでには,もちろん左ひざを酷使する馬鹿げた歴史があったことはいうまでもない。その主たる舞台は地域で開催されていた草ソフトボールチームのリーグ戦だった。私はこの趣味の世界でチームのエースとして,いささか頑張りすぎてしまったのである。今の若者にとっては,ソフトボールを仕事と同じくらいの熱意を持って取り組むというのは想像しづらいことかもしれない。だがこの時代は違った。以下、遙か昔の昭和の頃の物語りである。
 私はチームー「ハーモニー」(地元にあったスナックの名前.店のオーナーが球団オーナー)のエースとして奮戦し.シュートボール駆使して30歳代の8年間に通算約80勝を挙げ,また打者としては32本の本塁打を打った。
 今時の大谷祥平が「二刀流」なんぞともてはやされるのは、ちゃんちゃらおかしいと感じる「昭和の二刀流であった。(もちろんレベルは違うが)
 ソフトボールの試合は平日・土曜の19時から21時と日曜早朝6時30分から8時30分の2つの時間帯で日程が組まれており,良い天気が続けば、週2試合ずつ消化して行く仕組みとなっていた。
 ところが,このスケジュールの中に最悪の組み合わせがあった。土曜日夜と日曜日朝に試合が連続する場合があることである。通常の日程でも先発投手が2日続けて投げるというのは,最近の甲子園でも見ることは少なくなってきた。だが草ソフトボールの試合では,しばしばあった。
 1チームに投手は数人しかいない。その同僚が「わし,ちょっと夜勤でして」,「明日は早朝勤務。だめだめ1」「MさんOK,?」などの理由が集約されていくと、安定した勤務の公務員たる私の出場機会は増えるのである。
「Mさん,来週,土・日と連投だけど頼むね」
 頼まれればやらにゃあならぬ。
 しかし,無防備で前夜21時半まで使った筋肉を,翌朝6時半に動かすのは,なかなか無理というものである。その無理を実現すため試行錯誤を繰り返した結果良い薬に出会った。「メンソレータムのラブ」である。疲れた筋肉をもう一度フル稼働させる方法は,土曜日の夜の試合が終わって深夜風呂に入った後,筋肉のけいれんを防止するため「ラブ」という塗り薬を体全身に塗るのである。するとハッカ成分等が適度に効いて筋肉を適度な状態に保ってくれた。この薬は私にとって魔法の薬であった。
 但し大きな問題が二つあった。一つは強烈なハッカ成分(サリチル酸メチル)の匂い・作用である。体がガタガタ震えがくるような寒さ克服する必要がある。もうひとつは、2試合を終えたところで襲ってくる,2試合分以上の疲れ(筋肉疲労・倦怠感)が襲ってくることである。
 1試合目終了時点で元気だった体は,2試合目終了時点では,もうヘロヘロの状態であった。「魔法に頼る」ということは,「どこかで反動が来る」ということであった。」
 ※「メンソレータムのラブ」現在は販売されていない。
大変失礼しました。ドラッグストアーを3軒回って売り棚に発見できなかったので,「販売されていない」と誤った情報を提供してしまいまいました。メンソレータム社のウェブサイトで確認したところ,販売されていました。誠に申し訳ありませんでした。   
 この左足の無理は,回り回って1994年6月の腰部椎間板ヘルニア除去手術を招く羽目になり,間接的には膝の軟骨の消耗につながった。因果応報である。  

 私のみならず他にもスポーツに打ち込んだ方で,深刻な膝関節症に悩んでいる方は多いと聞く。
どなたが話しておられた。「1週間か2週間おきに整形外科で膝にヒアルロン酸の注射を打ってもらう。そうやって死ぬまで痛い膝と付き合って生きていく。それしか方法はないに。」
そんな中で退職校長会の(元土岐時商業高校校長)のM先生は,『退職校長会会報61号』長会氏において,膝関節症の手術に関し次のように投稿されている。(要約)
①現役時代は根本的な治療はできなかったが,張りつめていて痛みも変形も進まなかった。
②ところが現役引退後、諸症状が悪化したため,2022年に左右に分けて手術をおこなった。人工関節として,金属やポリエチレンでできたものを埋め込んだ。
③リハビリは大変だったが,現在では現在好きなゴルフも楽しくできるようになった。
この手術の話を聞くと.人工関節の導入のことも考えたい今日この頃である。

 脱線のついでにもう一つ大脱線を聞いていただきたい。
 右の写真は(1982)昭和56年度の郡上八幡町(現・郡上市)職場対抗ソフトボール大会決勝戦でのヒトこまで,三塁を守る私である。
 投手はT先輩教諭が務めており,私はソフトボール部顧問として,まだ修行中であった。
 この当時,郡上高校では中間・期末考査
期間中の午後は,教師にとっては勉強・研修の時間であり,スポーツ等が盛んに行われた。

 この職場対抗ソフトボール大会もその一つとして参加したものであった。郡上高校教員チームは優勝候補であり,特に野球部監督であり4番バッターであったY氏に対するマークは厳しく,今の大谷選手のようにまともに勝負してもらえなかった。そのあとの5番に坐っていたのが,実は無名のソフトボール部顧問の私だった。結果は・・・・ 私のバットは当りにあたり,3試合3本塁打9打点と大活躍でき,チームを優勝へ導いた。こういう活動が本舞台とは違うところで,職場の中のチームワーク,団結力の形成につながった。この時の光景は今でも鮮明に覚えている。
 一方2023年9月最終週,文部科学省の中央教育審議会は,「教員の多忙さが十分に是正されず危機的な状況だとして,改善策を盛り込んだ緊急提言を永岡文科省に提出した。
【業務適正化の内容】
 〇教員業務支援員の全公立小中学校への配置
 〇主任・管理職の手当増額 などなど  『朝日新聞』(2023年8月23日)
 教員も厳しい職になった。 

 ② 私の脊柱管狭窄症 

 脊柱管狭窄症という病名までは頭に思い浮かばなかったが,居間に寝転んでいて右足の裏に違和感・微妙な引っ掛かりを感じいたのは,58歳のころだった。ほぼ変形性膝関節症を発病した時期と同じころであった。 数か月して痛み・痺れが強くなってから当時通院していた整形外科の医師に病状を伝えると早速MRIの検査ということになった。右図は背骨の第3・第4・第5腰椎の模式図である。右側が腹部で突起のあるほうが背中側である。中心部に神経のj束が脊柱管の中を通っている。脊柱管は,その断面は三角形となっている。
腰椎と腰椎の間に白く描かれているのが腰椎と腰椎とのクッションをなす椎間板である。
 私のMRI画像によれば,30年前に実施した腰部第五腰椎・仙骨間の椎間板ヘルニアは問題なく処理されており,今回の痛みは第3もしくは第4腰椎の脊柱管狭窄に原因がある,という診断であった。
この場合,保存的治療としては,投薬(血行改善や痛み止め)や注射による治療が考えられる。注射は硬膜外ブロック注射が用いられる。(脊髄を包む硬膜の外側に局所麻酔薬を注入する。これでその背中の 痛い部位とそことつながる坐骨神経痛から痛みが治まれば,治療は成功である。ところがこれでおしまいとそう簡単にはいかない。

 
 まず硬膜外ブロック注射の効き目の長さである。38歳の椎間板ヘルニア痛の時はずいぶん長い間痛みが止まって注射の効果はあった。 
 ところが残念ながらその効き目のある時期にさらに部活動等の無理を重ね,結局ダメになるというパターンを繰り返し,効き目も短くなってしまった。
 
 今回の場合はどうか?残念ながら,効き目はなんと二日と持たなかったのである。 
 しばらくたって主治医は告げた。
「今度は神経根ブロック注射をやります。ちょっと痛いです。」
 痛みを麻酔薬で局所ブロックするという点で使うは,ブロック注射というのはたくさんある。神経根ブロック注射のほうは医師がレントゲン画像を見ながら,私の神経に触れながら注射の場所を確認するという注射なのだ。医師の操作する注射の先端が神経に触れるたびに激痛が走る。しかし我慢して自分が痛いところと同じところに注射針が来るまで待たなければならないのである。「神経を逆なでする」という表現があるが,言い得て妙である。
 私にこれだけの描写ができる余裕があるのは,腰椎のヘルニアの時の「経験」があるからである。 私はこの注射を通算4度経験した。(威張ってどうする)
 そして4回目は効き目があったのか?
 残念ながら,No であった。
 しかし手術についても私を診察した整形外科医5人が(現在の主治医M医師も含む)パーキンソン病との関係で,手術には否定的な意見だった。この方向はどうも突破できそうもない。
 結果,2023年10月6日現在,目覚めている時間のうち薬の効いている朝・昼・晩の合計6時間ほどはまずまずであるが,残りの時間は「苦痛」・「激痛」・「激しびれ」に耐える日々となった。寝っ転がっていたり直立姿勢であればまだ緩和されるが,坐位の場合は本当に膝から下が痛い。例えれば,巨大なペンチで挟まれているような,重い痛みと付き合っている。

 変形性膝関節症と脊柱管狭窄症の話はこれぐらいにして,ページを替えて三つ目に私のパーキンソン病の話をしよう。

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