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 027 生徒による授業評価1          

 あらためて、「生徒による授業評価」について意見を述べたいと思います。

 実は、この「教育について思うこと」のはじめの方、「004教員としての自己評価の方法」に、今までの経験と、実際に使った「授業評価シート」を掲載しています。
 ※こちらです。

 しかし、それを書いた2001年1月の時点では、各学校で個人的に、授業評価を実施している教師はいても、学校全体として組織的に実施しているところは、ありませんでした。

 それから、4年。
 今、ようやく、「生徒による授業評価」が岐阜県の高校でもようやく広がりつつあります。
 2004(平成16)年12月の岐阜県議会における議員の質問に対する教育長の答弁によれば、実施している高等学校は、
46.5%だそうです。
 もっとも、この数字は、これも各学校の先生方からの情報によると、教育委員会から緊急の調査があったが、学校しては組織的に実施してはいなかったけれど、一部の先生方が実施しているので、「実施している」と答えておいた、という代物で、組織的本格実施の高校から、先生方が自主的にやっているだけの学校まで、レベルは様々です。
 しかし、広がっていることは事実です。

 この状況を踏まえて、あらためて、「生徒による授業評価が何故必要で、どのような効果があるか」、また、
「今後どうしていくべきか」を、2回にわたって意見を述べます。

 今回は、その前半、
「何故必要か、どのような効果があるか」です。
 
1 勘違いはしてはいけない、どういう評価項目が重要か
 「生徒による授業評価」というと、どんな内容、項目で評価を受けるかが問題となります。私がかつて実際に使った「授業評価シート」では、次のような項目を設けました。

A授業のわかりやすさ
B黒板の書き方
Cしゃべり方
D質問の仕方

評価シート全体はこちらにあります。
科目は、今でいう学校設定科目「日本の文化」という科目です。

 
 これは、教師の教授技術の基本の基本に対する評価です。
 もちろん、こういう内容も重要です。特に、1・2・3・4・5などの数値で評価させれば、平均とか前回との比較とか、いろいろ把握しやすい方法になります。
 しかし、これらは、あくまで、表面的な教授方法についての評価で、これでいい評価が出ても、実施した本人の「
エネルギー」にはなりません。

 私は、生徒による授業評価は、教師自身が、自分の過去を振り返り、次に向かってのエネルギーを充填する機会と思っています。その為には、上記のような数値評価ではなく、生徒に自由記述で書かせる項目が必要です。
 「授業が良かった悪かったのは何故か、授業に対する意見・感想」についての自由記述です。
 私の評価シートの最後には、さらに発展?して、必ず、次の項目を設けました。

その他 「最近思っていること・意見・感想・懺悔(ざんげ)・恨み言・別れの言葉」何でもあったら書きなさい。

 
 これを設けると、本当に、何でも登場します。
 それは、いわば、「生徒の教師に対する思い」です。また、生徒が「対教師との人間関係」をどう捉えているの本音です。
 だから、これを書かせると、
読む方には、ずいぶんと「痛み」が生じます。しかし、その中から、本当の「エネルギー」が生まれるのです。

2 A高校B教諭の例
 実際に、A高校のB先生の例を紹介しましょう。
 
 A高校は、いわゆる進学校ではありません。しかも、3年生の数学を教えるB先生の授業は、いわば、生徒にとってはあまり実利のない、目標を見いだせない授業です。 
 生徒の学力はあまり高くなく、中には、ろっく(6×9)=49と、かけ算さえもおぼつかない生徒もいます。
 したがって、ただ黒板の前でしゃべっているだけで授業が成り立つという状況ではありません。
 つねに、生徒の席を巡回し、質問に答え、生徒の相手をし、いわゆる私たちの業界用語で、「机間指導」に時間を費やさなければならない学校です。
 いや、こういうクラスでは、「机間指導」どころか、ちょっと気を緩めると、携帯電話・マンガ・私語・居眠りがはびこってしまうことになり、「机間制圧、机間鎮圧」が必要となります。
 そして、こういうクラスでは、生徒と対話をしない、一方通行の授業をしていると、確実に無政府状態となってしまいます。
 B先生は、こういうクラスで、生徒による授業評価を実施しました。
 以下はその結果の自由記述の部分の中からの抜粋です。

 まずは、授業の手法に対する記述です。

  1. 1,2年の時と違って、ノートを書くのを後回しにして話を聞くようにしたら、数学がわかるようになった。

 これは、授業の基本的な矛盾をうまく克服した事例です。一般的な工夫のない授業では、教師が黒板にだらだらと書いて、適当に説明していき、生徒もそれをだらだらと書き写すだけとなります。通常は、生徒諸君は、教師の説明箇所の何分か前の部分を写していますから、いくら説明しても生徒の頭には入らないという結果となります。
 このだらだら書き写し授業に陥らない方策の一つが、「説明を聞きなさい。後で書き写す時間は作るから。」です。
 これを徹底させる力があるB先生は、それだけで、「わかる授業」の実践者といえます。
 漠然とした自由記述の中に、さらに、驚くべき反応が示されます。(漢字で書くべきところでひらがなになっている所がかなりあります。これは、原文のままです。)

  1. 質問すると教えてくれた。

  2. 授業では数学の勉強を今まで全くしていなくて3年生になってはじめて勉強しました。理解すると本当に楽しくてうれしかった。

  3. わからない子がいたらずっと説明してくれていました。

  4. わからないと言えば「例えば」で教えてくれて理解することができた。

  5. わからなかった問題でもわかるまで説明してくれたのでよかったと思います。

  6. 1,2年の頃は、何もやらなくてもあんま怒られんかったけど3年はちゃんとやらないと先生に怒られたのでまじめにノートが書くようになったからよかったと思いました。

  7. 4月の頃は、チャイムがなっても席を立っていて、先生が来ているのに全然進まなかったけど意識して体育のときも次数学だからダッシュで教室に来て早く着替えたりして、ちゃんとした授業ができたと自分では思う。

  8. 初めてのときはダラダラとしていた私達をしかってもらって、今までと違っていたから時間は守らなければいけないと気がつく事ができました。

  9. いっぱいおしえてくれてありがとうございました。

  10. 3年生にはいる前まではずっとしゃべるとかねるとかやったけど、きけるようになりました。

  11. >数学のじかんは、とくべつ楽しいわけぢゃなくて、ねむいときしゃべりたいときもあったけど、先生はいろんな子にきかれればちゃんとせつめいしていてすごいなあ〜と思いました。私ももっときいとけばよかったです。

 これを読んで、「来年もがんばるぞー」と思わない教員はいません。これが私の言う、「エネルギー」です。 

3 もっと大切なこと
 この11人の意見からは大切なことが読み取れます。彼らのB先生に対する高い評価は、何か特別な教授法かなにかが素晴らしいというものではありません。
 ただ、生徒の質問にちゃんと答え、「例えば」と生徒の力に合わせた説明に労を惜しまず、そして、正しいことをちゃんとしなさい教えたことに対する、高い評価なのです。

 B先生に対するこの11人の評価は、B先生の力量と人柄を示すと同時に、恥ずかしながら、それ以上に重大なことに、そうではない「非常識」な教員が存在していることを暴露しています。

 この生徒達をこれまで教えてきた先生方のうち、少なからざる先生方が、お世辞にも勉学に熱心とは言えず学力も低い生徒達を見て、あきらめたか自信がなかったか、はたまたふまじめだったのか、結果的に誠実に教えなかったことは明らかです。

 残念ながら、ちょっと非常識になってしまった先生の例をいくつか知っています。

学力が低い女生徒に、自習課題として、色鉛筆でいろ塗りばかりさせる先生がいました。その先生は「この課題だとみんな黙々と熱心にやっているから」が口癖でしたが、実は、生徒達は、「バカにされている」と思っていました。

英語のライティングの定期考査に、なんと、英文の書き写し(ひたすら50分書き写し)を「出題」した先生がいました。まさしく、「ライティング」になってしまいました。


 この2例は、「人は誰でも、分かることは楽しいことなのだ」という、教師としての基本的な発想と心が欠けています。

 
「生徒による授業評価」の基本は、生徒から逃げないで、ちゃんと誠実に向き合っている先生であることを、生徒に「証明」してもらうことなのです。そしてその「証明」が、明日のエネルギーになるのです。

 勇気を持って、証明してもらってください。


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