2013-05
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151 2013年11月03日(日) ついに観念、愛車アリオン神頼み、『ヒトはなぜ神を信じるのか』  (13/11/04修正)  

 はじめは、我が愛車、トヨタ・アリオン1800ccに関する物語です。
 この自動車を購入したのは、2007年2月で、現在7年目です。
 購入時は、そろそろ私の職場での転勤も予想される頃で、気分一新のつもりでナビ等も搭載した総価格220万円ほどの買い物に踏み切りました。とは言っても、「いつかクラウン」のキャッチ・コピーのように、もっと高級な自動車にお乗りの同僚も多くおられますから、52歳の壮年のおじさんが購入した車としては、豪勢とは言えず、むしろささやかでひかえめな車でした。


 写真151-01 まだ無傷の新車のアリオン(撮影日 07/03/08)

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 しかし、もうこの次に自動車を買うときは、自分は定年を迎えていて、買うことができるのはせいぜい軽自動車と思っていましたから、このアリオンは「自分が運転できる一番高価な車」として大事に扱うつもりでした。まあ、どんな年齢の方でも、新車を購入してそれを粗末に扱う人はいないと思いますから、私の決意も人並みにといってしまえばそれまでです。

 自動車を購入した方のうちのどれぐらい割合の方がなさるのでしょうか?
神社でのお祓い
 私は、これまで新車を購入したのはこれで2回目ですが、最初の時は神社でお祓いをしてもらいましたが、このアリオンの時は、「まあ、いっか」という感じで、
何千円も支出してお祓いをしてもらうということは、敢えてやりはしませんでした。日頃から信心深いとは言えない私ですが、愛車に関しても、何もしなかったのです。
 
 その
無信心の祟りか、その後のmy Alionは、悲惨な経歴をたどりました。まとめると次のようになります。




 なんとこれまで9回目もの「被害」を受けました。
 分類すると、そのうち
交通事故高速道路走行中の跳ね石によるもの、は職場に駐車中に他人の過失によって2階から割れた窓ガラスが降ってきたという珍しい「災害」は自分の不注意でフェンスや橋の欄干や敷石などに勝手にぶつけてしまった、「自損」です。

 購入以来、最初の3年の
の被害で、修理総額は、100万円ほどになりました。特にウインドウガラスを前も後も交換したのと屋根の部分の補修と全塗装は、高くつきました。もちろん、支払いには相手の保険も相当な割合で使われていますので、実際に私が支払った分は、総額100万円のうちの2割ほどと、それほど多くはありません。それにしても、修理総額としては相当な金額です。購入後2年で、購入価格の4割上の修理代がかかってしまったことになります。

 この時点で、「この車は運の悪い車かな」かなと、やな予感はしました。しかし、次からは気をつけようと、自分に言い聞かせはしましたが、神社でのお祓いはせずに、そのまま運転を続けました。

 ところが、この車の不運は、そのあとも続々と発生しました。

 購入3年目・4年目は、自分の不注意による「小破」が続いてしまうのです。
 それが、です。それぞれ修理すれば2~3万円程度のものですが、4回の自損事故で見事に自動車の4隅をすべてぶつけてしまったことになります。あほらしいと言うべきか、運転が下手と言うべきか、困ったものです。
 この自損「事故」が1年余の間に立て続けに起こった結果、運転には慎重になりました。しかし、立て続け「事故」の結果、被害部分を修理する気にはならず、3年間ほど放置したままにしていました。

 そして、またまた、2013年6月に事故が起きます。
の交通事故です。
 私は優先道路の県道へ入る信号のある交差点の脇道側にいました。交差点の見通しは悪くて信号のみが頼りでしたので、私は信号が青に変わるのを確認してから、慎重にゆっくりスタートをしました。ところが、優先道路の歩道を走っていた相手自転車が、私の前方を横切ったため、よけることもできず、ジャストのタイミングでぶつかってしまいました。
 ここまで来ると、運転が上手とか下手とか、運がいいとか悪いとかという問題を越えて、なんというか、ちょっと気持ち悪いものを感じました。

 ここの時点でついに、無信心な私の心にも、さすがに信心が生じました。

 まず、放置していた
に加えての損害を、20万円というそう安くない金額を投入して完全に修理しました。そして、ついに、神社にご祈祷とお祓いに行ったのです。


 写真-01・02 南宮大社 (撮影日 13/09/21)

 左:楼門前・石輪橋前の正面駐車場の愛車アリオン
 右:ご祈祷所です。ここで交通安全のご祈祷をしていただきました。
 


 出かけたのは、岐阜県垂井町にある南宮大社です。
 この神社は大垣市の西、垂井町の南宮山の北麗の閑静な場所にある神社です。岐阜市の我が家からは、30kmほど離れています。
 なぜ、この神社を選んだのかというと、岐阜市内にも他に由緒ある神社はありますが、なんといっても、この南宮大社は、崇神天皇の時代に現在の場所にまつられたという、古代律令制で言う
美濃一の宮です。つまり美濃を守護する第一の神社というわけです。
 昔の美濃の国の中心、美濃国府は、現在の県都岐阜市の場所とは違って、西方の垂井町にありました。岐阜や大垣の地域は、長良川・揖斐川などの河川が洪水のたびに川道を変えて流れる不安定な場所でした。垂井町は西の近江から来ると美濃の入り口部分にあたり、標高も30m以上ありますから、古代の地方政府が拠点を構える場所としては、都合がよかったと思われます。
  ※垂井駅については次のシリーズで紹介しています。
   →岐阜・美濃・飛騨の話「岐阜県の東海道線あれこれ 垂井線の謎 一見右側通行電車」
 
 ついでにいうと、南宮大社の主祭神である
金山彦神(かなやまひこのかみ)は、全国の鉱山の神様です。かの有名なイザナミ命が、火の神カグツチを生んで火傷をして苦しんでいるときの嘔吐物から化生した神様です。
 まあ、自動車は、ほとんどが金属ですから、こじつけですが、守っていただけるかもしれません。


 写真-03・04 ご祈祷料は、7000円 (撮影日 13/09/21)

 左:「車祓 撤饌」(くるまばらい てっせん)というのは、「お祓いの際のお供え物のお下がり」です。いろいろなものを頂けました。まあ、7,000円払っていますから、それなりのグッズはいただいてしかるべきです。
 右:「お下がり品」の中から、車のリアには、定番のシールを貼りました。
 


 さてさて、人間はどういう時に、信仰心を持つのでしょうか。
 今回の私のような場合は、自分にだけ起こる普通では想像できない不幸の連続を経験し、自分の何かが神の摂理やデザインに反していて、怒りを買っていると考え、その怒りを静めるために神の加護にすがると言った心境です。
 この時、神の加護を受ける資格(条件)はといったら、もちろん、7,000円の祈祷料と、「身を清廉潔白に保ち、よこしまな行動は決していたしません。よこしまな思いは決していたりません」という、私の覚悟でしょう。
 日頃あまり信心のない私でも、日本の八百万の神々が、「清浄」を第一に好まれることは知っていますから。


 本を一つ紹介します。
 
ジェシー・ベリング著鈴木光太郎訳『ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』(化学同人 2012年 2,300円)は、そのタイトルのごとく、人間がなぜ神を信じるのかという疑問に、進化心理学の分野から答えを出した面白い本です。
 もっとも、アメリカ人が書いた本ですから、その神は、日本的多神教の神ではなく、
キリスト教的一神教の神です。そして、著者のような進化論者から見て、創造論者(「世界はすべて神が創りたまい、現在もそのデザインに従って動いている」と信じる人々)がそのような信仰を持つ理由を、進化心理学の理論から考察しているのです。

 その考察を進めていく基本は、人類だけが固有にもっている
心の理論です。
  ※心の理論の簡単な解説は、次のページにあります。
   →教育について思うこと:「夏雑感3 心の理論と人間の悩み」 
 
  人間は、心の理論を持つおかげで、自然界のいろいろな出来事や社会的な事象に「意味」を持たせます。 

「ことあるごとに私たちは、自然の造形のなかに刻み込まれた微妙なメッセージ、微妙なサインや手がかりがあるように思い、神や超自然的な行為者がそれらを介して私たちに(多くの場合、私たちだけに)教えや考えを伝えているように思う。通常それは私たちがどう振る舞うべきかというメッセージである。こうして、私たちは耳を澄まして聴き、自然の出来事を聖なる、あるいは超自然的なメッセージへと難なく翻訳する。」
  ※ベリング前掲書 P97
  これが、まず信心が生じる基本的な背景です。
 
 では、ヒトはなぜ積極的に神を創造し、戒律のような掟まで作るのか。
 動物園にいる類人猿のチンパンジーは、知能は他の哺乳動物に比べ高いですが、心の理論を持たないため、自分の欲望のままに生活しています。
 しかし、人間はそうではありません。コミュニケーション力がある社会集団を構成している以上、欲望のままに生きることは、返ってその人間の社会的な評価を落としめ、ひいては、その人間の生物学的な子孫繁栄の実現を阻むことになる危険性が大です。そのため、欲望の自己規制を、「
戒律」という形で実現したものが宗教という考察です。

 この本については、またどこかで、もう少し詳しくレポートするつもりです。少々お待ちください。


 【信心 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

ジェシー・ベリング著鈴木光太郎訳『ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』(化学同人 2012年 2,300円)


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