2005-12
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087 2005年07月10日(日) 最近の映画「戦国自衛隊」「宇宙戦争」       

 2005年の6月、7月、楽しみにしていた映画が次々に封切られつつあります。
 そのうち、まず2本を、例によって家族と見ました。
 
「戦国自衛隊1549」「宇宙戦争」です。
 
 さてさて、どんな映画だったでしょうか。 


1 「戦国自衛隊1549」

 戦国自衛隊というと、我々の世代は、以前、半村良原作で1979年にブームとなった元祖「戦国自衛隊」をまず思い出します。
 あれは非常に面白い映画でした。その理由を私なりに分析すると、次の点があげられます。

  1. 自衛隊が戦国時代にタイムスリップするという発想がすごい。

  2. 千葉真一, 夏八木勲, 渡瀬恒彦, 竜雷太ら、個性的な男優人が起用された。

  3. 何より、それまで、映画「ゴジラ」などで、ひたすらゴジラの熱線に焼き尽くされる(溶かされる)だけだった自衛隊の部隊や戦車が、戦国武士相手とはいえ、ちゃんと戦った。つまり、自衛隊が主役の映画だった。

 思い出してみていかがでしょうか?

 今度の「戦国自衛隊1549」は、私としては、旧作に増して期待する作品となりました。その理由は次の点です。

  1. 原作者が今をときめく、かの福井晴敏。『終戦のローレライ』、『亡国のイージス』のあの福井晴敏です。(映画「ローレライ」についはこちらをどうぞ。

  2. 「消滅するのは、歴史か俺たちか?」、のコピーにあるように、歴史の偶然性・必然性といったとてつもなく大きなテーマに取り組んだ。

  3. 鈴木京香という女優が加わり、自衛隊の部隊内ドラマに厚みが増した。

  4. 予告編に出てくる、ヘリコプターへのミサイル命中撃墜シーンの様に、これまでにない迫力の映像が盛り込まれた。

 ストーリーです。
 3年前、実験中の自衛隊の1部隊(隊長は鹿賀丈が演じる)が1546年にタイムスリップしてしまい、その場で、歴史を変える活動(現代人の歴史への介入)をしはじめます。このため、現代の歴史が変わりはじめ、これに危機感を感じた実験の担当者鈴木京香やその上司が、タイムスリップした部隊を救出(実は抹殺)するために、江口洋介らの新しい部隊を3年後の1549年にタイムスリップさせるというものです。
 はたして、無事に歴史を復元して戻ってこられるかどうか・・・・、という映画です。

 さてわが家族4人の、映画お薦め度はというと・・。

 
お薦め人 お薦め度(3点満点) コメント
いくつもの内容がありすぎて、どれにも感動は今ひとつ。
妻N たくさん人が死んで怖い。((--;)この人に、戦闘映画は無理です)
次男Y(19歳) 戦闘シーンはいいけど・・。
 3男D(15歳) 富士山のそばになんで織田信長がいるの?

 ちょっとまあ、今ひとつ、今ふたつの結果になりました。
 
 もちろん、この映画はいい面もたくさんあり、決して駄作ではありません。

  1. タイムスリップした自衛隊の隊長(鹿賀丈の演じる)が織田信長になりすまし、それがまた「歴史の復元作用(自己修正作用)のなかで浄化されていく」というストーリーは、とても哲学的で、テーマ性は十分にあるものでした。

  2. やっぱり、鈴木京香は美しい。(^.^)

  3. 旧「戦国自衛隊」がガソリンがなくなって自滅したのに対して、今度の部隊は、なんと拠点の城の内部に、原油蒸留装置までつくってガソリンを精製し、永住を可能とした。(でも、ミサイルや弾丸はどうしたのだろう?)

 こういう点がよかったのでしょうか、6月11日には、日本の興行ランキング1位となり、また、7月1日には、“ハリウッド・リプロダクト・バージョン”の製作が決定しました。
 これは、
日本版「戦国自衛隊1549」の撮影済みフィルムをハリウッドがオリジナル編集し、効果音・音楽も新たに制作し直して、いわば「戦国自衛隊1549」のハリウッドエディションとするものです。タイトルも変更され、その名も「SAMURAI COMMANDO MISSION 1549」となるとか。

 では、なぜ、わが家の辛口評論家ども?が、お薦め度を低くしてしまったのでしょうか?
 批評内容が問題外の妻Nを除いて、詳しくその主張を述べると次の点となります。

  1. 前作の上杉謙信と川中島の戦いというのは、素直に受け入れることができるものでしたが、今回の、富士の裾野に織田信長と斎藤道三がいるというのは、「映画のストーリー」というのを割り引いても、わが岐阜県人には、乱暴すぎる、違和感のある設定と映りました。

  2. 歴史を変えてしまおうという信長になりすました鹿賀丈の主張・行為(悪者)と、歴史を元に戻そうとする江口洋介・鈴木京香らの主張・行為(正義)とのからみが、最初から大前提となっていて、味の薄いものとなりました。江口・鈴木の守るべき現代がちょっと弱くて、アメリカ映画のように、家族愛とかもっとヒューマンなものを絡ませたら、感動的でした。

  3. 自衛隊が主役となったのはいいですが、ここでもまた、名前もわからないまま死んでいく自衛隊員ばかりとなってしまいました。おかげで、ミッション成功後、現代に戻ってきた自衛隊員らが祝福されるのですが、江口・鈴木以外の名もない隊員達に対しては、見ている側からは、敬礼やハイタッチの祝福に、共感が今ひとつです。救出部隊の自衛隊員らの個人像をもう少し描いて、ここにおいても、ヒューマンな要素を加えるべきでした。同じ意味で女優鈴木京香はなんだったのか、についても??です。(女性自衛官である必然性が今ひとつ)


結果的に、わくわくするようなシーン、ジーンと来るようなシーンはない映画となってしまいました。初めての戦国自衛隊は、タイムスリップ自体が面白い発想でしたからそれだけでよかったのですが、今回は、歴史の復元という新しい要素を盛り込んだ意図が、不消化だったというのが、わが家の評価でした。

 ちょっと辛すぎますか?


2 「宇宙戦争」

 「戦国自衛隊1549」が今ひとつだったので、次に期待をかけたのが、スピルバーグ監督の「宇宙戦争」です。

 これは、「戦国自衛隊」よりももっと有名な、イギリスの作家H・G・ウェルズ原作の『The War of the world』(1898年、つまり107年前に出版)を映画化したものです。

 小説としても有名です。私は、30数年前、中学生の時初めて読みました。原作者はイギリス人ですから、宇宙人襲来の舞台は、もちろん、イギリスはロンドンです。
 19世紀末、「イギリスの世紀」を現出して繁栄したロンドンが、火星人によって廃墟となるという、ちょっとした文明批判も盛り込んだ作品です。

 1953年には、ハリウッドで映画化されました。パラマウント映画がアメリカに舞台に移して、小説を比較的忠実に再現しました。白黒映画でした。もちろん、科学技術は1898年ののそれではなく、1953年のそれとなっていました。
 火星人は、地球側の50年の進歩をものともせず(?)、アメリカを破壊しました。

 さて、今回の映画です。
 期待は、いうまでもなく、
スティーブン・スピルバーグです。
 しかも、総制作費は、
1億3300万ドル(約138億円)です。上記の「戦国自衛隊1549」は、日本映画としては破格の14億円でしたが、こちらは、その10倍です。

 話題づくりにも熱心なこの映画は、なんと、6月29日(水)に世界同時公開という、まさしく鳴り物入りの作品となりました。 

 わが家は、7月2日に見ました。いつもの、AMCリバーサイドモールです。
 
 いやはやすごいすごい。

  1. 最初に登場の宇宙人の侵略機械、原作に忠実なかの3本足のマシン、この破壊力がすごいすごい。ニューヨークから川を渡ったニュージャージ州の街をこわすこわす、光線を浴びた人間なんか、一瞬に肉の粉末となってしまいます。(なぜか、着ている服は粉末にならず空をひらひら舞います。)自動車はとびます。橋も壊れます。CGの巧みさは制作費の効果でしょうか。

  2. フェリーボートも沈みます。このシーンもタイタニック並です。

 つまり、全編すごいスペクタクルです。これは大成功です。

 では、わが家の評価は・・・・・。

お薦め人 お薦め度(3点満点) コメント
「人類は試される。愛と勇気を」って、何のこと?
 3男D(15歳) 宇宙人の死に方があっけない。

 おっと、またまた辛口です。(今回は、次男Yは都合で欠席、パニックものが大嫌いな妻Nは拒否権発動です。)
 辛口の理由です。
<その1> 
 「人類は試される。愛と勇気を。」と訴えかけていますが、これは、映画のどの辺をさしていっているのでしょう。
 確かに、主人公トム・クルーズは、別れた妻との間の子ども、兄・妹の二人を、宇宙人の破壊を避けて勇気と愛情をもって元妻の元へ連れて行きます。離婚された夫らしく、娘が生まれつきピーナッツアレルギーであることを、この大事な日まで知らなかったという間抜けものですが、とにかく、必死で娘を守ります。(兄の方は途中で勝手にいなくなり、しらないうちに自力で元妻の所へ行き着きます。)娘を助けるために、途中で、かくまってくれたおじさんを殺害するという勇断をします。
 しかし、ただ娘を守って頑張った以外、特にこれといったことはしていません。
 これのどこが、 「人類は試される。愛と勇気を。」というキャッチコピーにつながるのでしょうか?

<その2>
 宇宙人のマシンが突如、自滅します。
 これは、H・G・ウェルズの原作どおりの理由です。
 原作を知っている人は、すでに、一番冒頭の、「細胞のシーン」を見ればピンと来てしまいます。
 
 原作では、火星人の終末のシーンをこう説明しています。
 ※○○○、○○は、私が伏せ字にしました。でもわかりますね。

 丘の頂あたりに大きな塚が盛りあがっており、巨大な角面壁を形作っていた −火星人が築いた最後にして最大の拠点である − そしてこの盛り土の陰から、細い煙が空に立ち昇っていた。丘の稜線を背に、一匹の犬が猛然と走っていって姿を消した。脳裡をかすめた考えが現実となり、信頼できるものとなった。恐怖ではなく、体が震えるはどの強烈な歓喜だけを感じながら、わたしは動かない怪物に向かって丘を駆けあがった。フードからはひょろ長い褐色の肉片が垂れさがっており、餓えた鳥がそれをついばんだり、引き裂いたりしていた。
 つぎの瞬間、わたしは土塁をよじ登り、そのてっペんに立っていた。角面壁の内部が眼下
に広がっていた。それは広大な空間であり、巨大な機械類がそこかしこに置かれた内部には、金属の大きな山や異様な避難所がいくつもあった。そしてあたり一面に、ある者はひっくり返った戦闘機械に乗ったまま、またある者はいまや凍りついたように動かない作業機械に乗ったまま、また別の十数体はこわばって、ひっそりと列になって横たわったまま、火星人が散らばっていた1死体となって! − 彼らの体組織が予期せざる腐敗性の○○○に冒されて死んでいたのである。赤い草が殺されつつあるように殺され、人間の対抗策がことごとく失敗に終わったあと、神がその叡智でこの大地に置いておかれた最もつつましいものに殺されたのである。
 じつは、これは起こるべくして起こることだった。わたしにしても、ほかの多くの人にしても、恐怖と災厄で心の目がつぶれていなかったならば、予見してしかるべきだったのである。これらの○○○は、この世のはじまり以来、人の命を数かぎりなく奪ってきた。それどころか、この地球に生命が芽生えて以来、人間以前の祖先の命を数かぎりなく奪ってきた。
 しかし、われわれの種は自然淘汰のおかげで、抵抗力をつけてきた。いかなる○○○が相手でも戦わずして屈服することはなく、多くの○○○−死体を腐敗させる菌がその一例である−に対しては、われわれの生体組織は完全に免疫ができている。しかし、火星には○○がおらず、この侵略者たちが到着するや否や、彼らが飲み食いするや否や、われらが顕微鏡サイズの同盟者たちは、侵略者を打倒する仕事に取りかかったのである。わたしが見守っていたとき、すでに彼らは取り返しのつかない運命を宣告され、活発に動きまわっているときでさえ、死病にむしばまれ、腐りかけていたのである。それは避けられないことだった。何十億という犠牲を払って人間は地球に住む生得権をあがなってきたのであり、その権利はすべての新来者に対して有効なのである。火星人がいまの十倍強力であったとしても、それは人間の権利でありつづけるであろう。なぜなら、人間は無駄に生きたり死んだりしているわけではないからである。
 

 ※H・G・ウェルズ著中村融訳『宇宙戦争』(創元SF文庫 2005年)P286

 これに忠実に従ったばかりに、あっけない最後となりました。「愛と勇気」と「勝利」はまったく結びつかないものとなりました。
 ストーリーとしては教訓的ではありますが、期待してみていた人には、肩すかしです。

 かくて、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」、さらには、「インディペンデンス・デイ」などと比較して、「家族と愛」というアメリカ映画に必須の中心的テーマにおいて、非常に、薄っぺらな作品となりました。
 残念です。


3 「亡国のイージス」

 これまで、この日記欄の映画鑑賞記は、ほとんど、いい作品、感動した作品を読者の皆さんに勧めるという目的で書きました。
 しかし、今回は、残念ながら、いまいちだった作品を通しての、私の映画観をお話しするはめになってしまいました。
 それだけでは、面白くありません。
 残る7月の3作目への期待を書きたいと思います。
 その映画は、「亡国のイージス」です。
 福井晴敏原作のこの小説への思い入れは、すでに、日記の2002年12月22日の部分で説明しています。(こちらです。
 「亡国のイージス」のキャッチコピーは、「生きろ。絶対に生きろ。」です。
 7月30日(土)、公開です。
 今度は、当たりますように・・・。 


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