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 長浦湾奥の護衛艦を見終わると、クルーズも最後の行程へ入ります。

 地図G
から長浦湾を外へ向かって出て行くと、やがて左手に、こんもりした貝山緑地が見えてきます。そのさらに先には、夏島が見えてきます。

 
貝山緑地より先は、地図の海岸線をご覧いただければわかりますが、当初は海だったところを埋め立てた地域です。

 明治時代、まだ孤島だった夏島に、1887年
伊藤博文が渡りました。彼は、井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎とともに、この地で、極秘裏に大日本帝国憲法草案を作成しました。この日は行くことが出来ませんでしたので、写真はありませんが、夏島には、その記念碑が建っています。
 
 貝山以北の
追浜の地は、大正年間からは、海軍にとって新たな重要な土地となりました。
 1914年第一次世界大戦がはじまり、飛行機が兵器として活躍しはじめると、日本も飛行機の開発と航空隊の創設にかかります。
 かくて、1916(大正5)年には、追浜の地に海軍航空隊が設置され、滑走路が建設されました。この部隊は、のち
横須賀海軍航空隊(横空)と呼ばれます。
 さらに、1932(昭和7)年には、その北側に、
海軍航空廠(のちに海軍航空技術廠)が開設されました。

 太平洋戦争時には、横空は、長さ1500m幅150mの滑走路をもち、通常の航空部隊であると同時に、海軍航空技術廠と共同して、海軍航空全体の各航空要員の養成、試作機や各種兵器の実験や研究、それらをもちいた用兵の研究にあたっていました。

 つまり、追浜の地は、海軍航空の中枢であったのです。
 現在は・・・、
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 地点ある、貝山緑地。 (05/08/28撮影)
 大正時代初頭、ここの海面で、旧帝国海軍の最初の複葉水上機が飛行しました。記念すべき海軍航空隊発祥の地です。
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 旧横須賀海軍航空隊の跡地にある、日産自動車追浜工場。 (05/08/28撮影)
 追浜にあった横空の施設は、戦後アメリカ軍に接収されましたが、昭和30年代になって返還されはじめました。
 この結果、1950年制定の旧軍港市転換法によって、これらの施設は、民間に払い下げられます。
 現在追浜の地には、いくつかの民間企業が創業しています。

 右手のこんもりした部分が
夏島です。地図地点です。
 写真は地図N地点の日産自動車追浜工場です。1961年に操業開始しました。
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  夏島のさらに外側、日産自動車追浜工場の先の地図地点には、住友重機横須賀造船所があり、赤い大きなガントリークレーンがそびえています。B地点から撮影。                         (05/08/28撮影)


 日産自動車追浜工場を出て、浦賀水道へ向かう自動車運搬専用船。輸出先は、北米でしょうか、それとも・・・。
                                           (05/08/06撮影) | 目次と地図へ |


 長浦湾をでたクルーズ船は、地図のIから吾妻島を沖を回って、先ほど来た航路を出港地へと戻っていきます。

 地図をあらためてみると、旧日本海軍の施設は、もちろん
海上自衛隊が使用している部分もありますが(地図のの部分)、割合からいうとそのほとんど、とりわけ横須賀湾の重要な部分は、依然としてアメリカ軍が使用(地図のの部分)していることが分かります。

 ということは、横須賀の「平和産業港湾都市」への真の移行は、言うまでもなく、
日米安全保障条約と日米軍事同盟の在り方にかかっているということです。

 しかし、21世紀に入ってからの状勢は、どうもそうはなっていないようです。
 
 クルーズ船は、無事三笠記念艦の隣に戻りました。 
 わずか1時間弱でしたが、いろいろ考えさせられた貴重な時間でした。1200円は、安い安い。


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