その前に、教科書の確認です。
高校の日本史の教科書に、横須賀という固有名詞は2カ所だけ登場します。
ひとつは、江戸時代末期の部分です。
「幕府も末期には、代官江川太郎左衛門(坦庵)に命じて伊豆韮山に反射炉をきずかせたほか、フランス人技師の指導で横須賀に製鉄所を建設した。」
※石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本史B』(山川出版 2004年)P214
もうひとつは、明治以後の産業の発達の部分です。
「また、旧幕府の経営していた佐渡・生野などの鉱山や長崎造船所、旧藩営の高島・三池などの炭鉱や兵庫造船所を接収し、官営事業として経営した。軍備の近代化では、旧幕府の事業を母体とした東京・大阪の砲兵工廠や横須賀造船所の拡充に力を入れた。」
※山川出版同前 P244
つまり、知る人ぞ知る、横須賀発展の原点となった施設とは、幕末に建設がはじまった製鉄所(造船所)です。
実は、その当時のドックが現在も残っているのです。
その紹介の前に、もう少し歴史の勉強です。
建設をはじめたのは、当時幕府の要職にあった小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)でした。その時の地位は、勘定奉行兼海軍奉行です。
なぜ、小栗が製鉄所を作ろうとしたのか?作家司馬遼太郎は、その経緯を次のように書いています。
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「小乗は、雄大なものを興そうとしました。
そのためには、製鉄所や鉄工所や船台つまり造船所を持たねばなりません。持つからには、世界的なレベルのものを持たねばならない。(これは、さきにふれたように帝国主義などというものと関係はありません。小乗は、かれが設計しつつある新団家の規模を、ミミッチイものにしたくなかったのです)
かれは、その地を相模国横須賀村という無名の村にえらび、慶応元年(1865)3月から、6カ月かけて三つの入江を埋め立てました。」 |
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※司馬遼太郎著『明治という国家』(日本放送出版協会 1989年)P40 |
しかし、大きな問題がありました。
財政的に苦しかったのです。司馬遼太郎の説明の引用を続けます。
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「構想は大きいんですが、金なんかないんです。
日本の外貨は、生糸とわずかに茶でかせいでいます。物産といえば絹と茶だけ。
それに、開国でもって国際経済社会に入ってから、国内経済にいろいろな矛盾が生じて、物価高、あるいは人心不安といったように、病気でいえば高熱のさなかです。その不安を、長州人や脱藩浪士たちが煽っています。その煽る方の側に、勝もいる、と江戸幕府のほうでは見ていました。
その上、長州征伐という大きな出費で、幕府の財政は火の車でした。そういう大変な時期に、金なしで小栗はこの大構想をすすめはじめた。
むろん、財政にあかるい小乗のことですから、明快な成算は立っています。
げんにこの時期、小乗は勘定奉行−大蔵大臣と海軍奉行−海軍大臣を兼ねておりましたのは、この一大プロジェクトのためだったのでしょう。
それにしても、計画が大きすぎる。いまでいえば、スリランカのような国が、富士製鐵という大工場をいきなり興すというか、貧も底をついたような徳川国家にとつて、背負いきれない大荷物ですね。
なにしろ予算は220万ドルというべらぼうなもので、4カ年計画ですから、これをたった4カ年で払わなければならない。
ちょっと言いわすれましたが、この横須賀ドックとその付属設備 − 幕府はどういうわけだか、製鉄所といっていました − は、フランスの有名なツーロン軍港(Toulon。地中海にのぞむ。17世紀以来のフランス海軍の大根拠地)の規模に近い(3分の2とか3分の1とかいいますが)ものだったようです。時のフランス公使ロッシユと話しあったすえにうまれた計画です。とにかく、金がかかる。
結局、ロッシユと相談の上、日本の生糸をフランスのみに売る、それを1カ年60万ドルとして4×6=24、4カ年で皆済する、という計算をたてました。ところが、英国はじめ各国が、じや日本は生糸をわれわれに売らないのか、それじゃわれわれはなんのために日本と通商条約を結んだのだ、という騒ぎになって流れてしまい、あとは小栗が四苦八苦しました。
一時は、フランスから600万ドルの借款をしようということになりましたが、借款はフランスのほうでもうまくゆかない、日本も、外国から大きな借金をするのはまずいということがあったりして、これも流れた。このあと、小乗は脂汗を流して支払ってゆき、あと50万ドルというところで、幕府が瓦解した。ドックは、フランスの会社の抵当に入った。
新政府はそれをひきつぎ、維新早々、大隈重信がかけまわって、横浜の英国系のオリエンタル・バンクという銀行から、英国公使の口ききで、55万ドル借りてやっと抵当をとりはずすさわぎになった。英国系のオリエンタル・バンクのこのときの利子が15%という大変な高利でした。きついものですな。このサラ金なみの高利は、日本に抵当がなかったこと、新政府が − つまり明治国家が − いつまでつづくかという点で信用がなかったことをあらわしています。
金の話が出たついでに申しますと、明治国家は、貧の極から出発しました。旧幕府が背負った外債もむろんひきつぎました。あらたに明治国家は借金もしました。それらを、貧乏を質に置いても、げんに明治・大正・昭和の国民は、世界じゅうの貧乏神をこの日本列島によびあつめて共にくらしているほどに貧乏をしましたが、外国から借りた金はすべて返しました。
「国家の信用」
というのが、大事だったのです。
私は1987年の春はロンドンにいって、そこで、ラテン・アメリカのある国が、先進国から借りた金、これは返せません、ということをわざわざ記者会見して言明した、ということをきき、明治国家を思って、涙がこぼれる思いでした。律義なものでした。」 |
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※司馬前掲書 P41−43 |
長い引用になってしまいました。
最後に司馬氏は、「小栗のこのことばを言いたくて、えんえんとここまでしゃべってきた」といってつぎの一節を記述します。
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「あのドッグが出来あがった上は、たとえ幕府が亡んでも”土蔵付き売り家”という名誉を残すでしょう。」 |
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※司馬前掲書 P50 |
ペリーの来航によって海軍の建設の必要を感じた江戸幕府は、ペリー来航の翌年の1854年、江戸湾口の浦賀に造船所を建設しました。(浦賀造船所)
ついで、1856年には江戸石川島に造船所を開設しました。(石川島造船所、現在の石川島播磨重工業のルーツです。)
しかし、これらの規模は、これから建設を予定している「大幕府海軍」の造船所としては規模が小さいため、外国の援助による大規模な造船所を建設することにしたのです。幕府はこれを実現するため、フランスの援助を受けることを決定しました。
幕府から依頼を受けたフランス公使ロッシュは、1864年フランス軍艦を率いて、三浦半島を視察しました。江戸幕府は当初、横須賀湾の隣の長浦湾を候補地としていたようですが、水深が浅いことが判明し、南隣の横須賀湾に移動しました。この湾を調査した公使ロッシュは、「湾形は曲折し海底は深く、またこの地の形勝要害(自然の砦)はフランス軍港ツーロン湾を彷彿とさせるものがあると判断し」、造船所設立の地と定めたそうです。
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西成田豊著『経営と労働の明治維新 −横須賀製鉄所・造船所を中心に−』(吉川弘文館 2004年)P26−29 |
製鉄所は、フランスから招いた技師ヴェルニーの指導によって、1865年に建設が開始されました。
4000トンの船が建造できる全長122mの第1船渠(1号ドック)が完成したのは、1871年のことです。
建造中の1868年、明治新政府が樹立され、横須賀製鉄所も新政府に接収され、横須賀造船所と改名されていました。
さて、そのドックは、今どうなっているでしょうか。 | 目次と地図へ |
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