戦場における父の幸運、戦地における運命は紙一重
父は、1926(大正15)年生まれでしたから、北黒馬劉の岐阜開拓団からは、1945年5月に出征しました。
入隊したのは、北部の満ソ国境に隣接する黒河の砲兵部隊でした。15センチ榴弾砲という比較的大型の砲の弾込め係として訓練を受けました。
しかし、入隊2か月にも満たない時期に、部隊が国境地帯から後方のハルピンに移動となりました。
幸運のその1は、この部隊の移動にありました。
この地域の部隊は、8月9日のソ連の侵入後、ソ連戦車隊と激戦を演じ、中には部隊丸ごとほとんど全滅という不運な部隊もありました。もし最初の配置のままでいたら、父親の生還率はきわめて低かったと思われます。
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黒河の東、国境の町(あいぐん、世界史の教科書にも登場する、帝政ロシアと清との国境線を確定した条約の締結地)では、独立混成第135旅団が終戦の日を過ぎても徹底抗戦を続け、多大の犠牲を払ってソ連軍の侵攻を阻止しました。 |
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余談ですが、黒河からチチハルまでは、直線でおよそ400kmあります。途中には小興安嶺という山地を越える難路です。この時の移動は、全行程徒歩で行われました。いかにも日本陸軍らしいやり方です。15センチ榴弾砲は馬6頭に引かせるのです。
小興安嶺を進む際、野営(荒野でよるテントを張って宿営すること)する場合は、馬を中央にし、その次に大砲を並べ、その外に兵隊がテントを張り、さらに一番外側に四方八方にかがり火をたいて、警戒して夜を過ごしました。
何に警戒するかというと、匪賊(満州現地人武装勢力)はもちろんですが、現実的に一番怖いのは、狼でした。 |
父 |
「火に驚いたのかどうか知らんが、何十匹何百匹もの狼が、ウォンウォンと一晩中鳴いていた。生きた心地がしなんだ。」 |
チチハルについた父は、砲兵部隊から選抜されて、挺身隊へ配属になりました。
この挺身隊というのは、このころ関東軍各地で編成された、ソ連軍の対戦車攻撃用の特別部隊です。本来、戦車の進撃を防ぐには、同じく自軍の戦車で対決するか、対戦車砲という大砲で反撃するのが常道です。
ところが、日本にはソ連軍戦車に対抗できる戦車も大砲もありませんでした。性能的にも量的にもなかったのです。
そこで、挺身攻撃が考案されました。
歩兵が対戦車豪という穴に潜んで、箱爆雷という対戦車爆雷を手に持ち、敵戦車が近づくと自ら身を乗り出して爆雷を破裂させ、自分の命もろとも戦車を破壊するという攻撃でした。(詳しくは下の写真の説明をご覧ください。)
この部隊がソ連軍戦車隊と遭遇したら、父はほぼ戦死となる運命でした。ところが現実はまたもやラッキーなことが起こるのです。 |