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 □ 大観峰(だいかんぼう)・黒部平         | 目次へ戻る| 

 室堂のホテルの地下から、立山連峰の真下をくり貫いて、立山トンネルが通っています。トンネルを抜けた先が、立山連峰と後ろ立山連峰の間の谷、すなわち、黒部峡谷です。

 トンネルの出口は、大観峰(だいかんぼう)といい、立山連峰大汝山の中腹にくり貫かれた途方もない場所の展望台です。眼下には、今日の一番の目的地、黒部川第4ダムのダム湖を遠望することができます。

 但し、基本的に高所恐怖症の私には、こういうところの眺望を「いやーすごいですねぇ」と、満喫するゆとりはありません。情けないですが・・・。

 ここ大観峰(2316m)から、ロープウエイとケーブルカーを乗り継いで、黒部湖(1455m)まで降ります。



 大観峰からの眺望。後立山連峰と、手前が黒部峡谷。ここにダムができるまでは、ほとんど人が入らない秘境だった。

 大観峰からの眺望。黒4ダムのダム湖。赤沢岳の山腹を、かの有名な関電トンネルが貫く。

 ロープウエイの下の駅、黒部平(1828m)から、大観峰(2316m)を仰ぎ見る。崖の真ん中に人工のコンクリート構築物。 

 黒部湖駅(1455m)のケーブルカー。黒部平(1828m)とを結ぶ。私と次男Y、三男D。 


 □ 黒部ダム・扇沢           | 目次へ戻る| 

 

 黒部川第4ダム、この時期、水位は満水の状態からはかなり低く、放水もなし。水の色もご覧のように汚い色でした。(2枚の写真を合成)
 ダムは高さが186mで、1963(昭和38)年の完成以来、今でも日本一を誇っています。下流10キロにある、黒部川第4発電所は、最大出力335,000kwで、雪崩と自然景観維持のため、地下150bに建設されています。


 
 さて、黒部湖に到着です。
 ケーブルカーを降りると、眼前には、黒部ダムとダム湖が広がります。ダムの堰堤を歩いて、東側に渡ると、展望台と「くろよん記念室」等の施設があります。
 記念室には、このダムや発電所の建設にまつわる「物語」が説明され、ジオラマやビデオ上映もあります。

 今回の旅行の第一の目的は、このダムとその建設にまつわる話を息子たちにすることでした。
 
 黒部川第4ダム、通称クロヨンは、私たちや、もっと上の世代の方にとっては、やはり特別の意味を感じるところだと思います。

 石原裕次郎主演の『黒部の太陽』という映画を、学校の行事としてみんなで見に行ったのは、たぶん、昭和43年、中学2年生の時でした。それ以来、クロヨンは、私の心の世界では、男が自然に挑戦して、大事業を成し遂げるということがらの代名詞でした。
  ※三船プロ・石原プロ作品の映画『黒部の太陽』は、昭和43年2月封切り。
    詳しくは、石原プロのサイトへどうぞ。→

 今、プロジェクトXというNHKの番組が非常に好評ですが、私たちから思うと、その元祖の様な物語です。

  ダム湖のそばの犠牲者を追悼する慰霊碑の前で、父親、私の、息子たちへの講義が始まります。

「日本が戦争に負けたあと、必死で復興に努めるのだけれども、その時深刻だったのが電力不足。当時はまだ原子力作る発電所を技術はなく、また、火力発電も、変動する電力需要に素早い出力調整によって対応する技術はなかった。そこで、この秘境黒部の地に注目が集まった。黒部峡谷は、水量が豊かでしかも流れが速く、水力発電には適していた。しかし、立山連峰・後立山連峰に挟まれたこの地は、容易に人が近づけず、大きなダムを造るということは、技術的に大変難しいところだったのだ。苦労を重ねて、戦前にすでに、第3発電所までができていたが、大きな発電量をもつ発電所とそのためのダムの建設は、さらに上流の険峻な地になされなければならなかった。
 関西電力は、さらに大きな発電所の建設を目指して、昭和31年、社運をかけて、第4発電所とダムの建設に着手したのだ。

 ダムの建設の成功の鍵は、本体の着工より前に、まず、資材や機械を現地に運ぶためのトンネルを、長野県大町から後立山連峰の真ん中をぶちに抜いて、黒部峡谷まで掘ることにあった。それが、これから通るこのトンネル、今の言い方をすると関電トンネルなのだ。予定されていたその長さは、6100b。

 このトンネルは、昭和31年10月から掘削が始まった。最初は順調だったが、半年あまりたった昭和32年5月、入り口から2600bのところで、毎秒660gもの水と土砂が吹き出す破砕帯にぶち当たってしまったのだ。破砕帯というのは、岩盤の中で岩が細かく割れていて、大量の水を含んでいる軟弱な地層のことを言う。
 この結果、作業が中断し、ここでもしこの破砕帯が乗り越えなければ、ダム本体の工事そのものも中止せざるをえないというピンチにたたされたのだよ。

 しかし、会社の経営陣はもとより、全社員が一丸となって工事を支援し、現場の人たちの努力と尊い犠牲のおかげで、7ヶ月後に結果的に80bに及んだ破砕帯を突破し、ついに、昭和33年2月にトンネルは開通したのだ。結果的に1年半ほどの工期であったわけだから、80bの破砕帯に7ヶ月もの日時を費やしたその苦労は大変だったわけだ。
 この後、ダム・発電所本体の完成は、昭和38年6月になるが、それまでに、ここの慰霊碑にあるように、合計171人もの人が犠牲になったのだ。
 171人といえば、中型の旅客機が落っこちて乗客全員死亡ぐらいの事故だぞ。6年8ヶ月の工事期間から考えれば、平均すると2週間に一人ぐらいの割合で、工事現場で犠牲者が出たことになる。これはすごい人数だ。
 そういう努力のおかげで、このダムはできたのだ。」

 こういう話は、話し手が、いくら感動していても、聞き手には同じ感動は伝えにくいもんです。息子たちは、「へーえ」という顔をするばかりで、どうということは、ないと言った感じでした。

「父ちゃん、黒四ダムといったって、発電量はせいぜい、33万`ワットちょっとだろ。今は、それよりもっと桁が違う発電量の原子力発電所もあるよ。」

 そーゆー問題ではないのだよ。なんてったって、『黒部の太陽』なんだから。わかんねーかな。わかんねーな。

 私が、ひととおり説明を終えると、私と同じぐらいの世代の父親が、うちの息子たちより少しずつ年が若い娘さん3人を連れてきて、私と同じように説明に入りました。しかし、娘たちには、困難な努力に命がけでたちむかう男のアドレナリンは、もっと理解し難いようです。

「パパ、後ろ見て、ダムの水、きたなーい。気持ち悪い。」
「あんな高いところ(展望台のこと)へ昇るの。えらそー。」

 パパの苦労は、報われそうにありません。

 単独行動をしていた我が妻が戻ってきました。
「ねーねー、ここは黒部ダムでしょ。じゃ、この川って何川」
「えー???」
おまえなー、どういう頭の構造しとんじゃ。私とは二つ違いだろうが、『黒部の太陽』、見とらんのかいな。

 いろいろあった、1日でした。 

 黒部川第4ダムの本体です。


 ダムの水深は142mです。

 ダム堰堤横のわき水、解説の看板には、「あの破砕帯と同じ湧き水」と書かれている。  


 工事の犠牲者を悼む、レリーフ。


 
  ダムの下流のV字谷です。
 

 関電トンネルをとおって、黒部ダムと扇沢を結ぶ、トロリーバス。トロリーバスは日本では、立山黒部アルペンルートの両トンネルにしか運航していません。  


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