それでも、最初の頃は、遺体発見数はそう多くはありませんでした。
右の表は、全国自殺者数と青木ヶ原樹海を管轄下に置く富士吉田署が発表した発見遺体数の年度別推移です。
バブル前はまだまだそう多くはありません。
ところが、バブル経済が終わり、しかも、橋本内閣以降の「大不況時代」(消費税が5%になったとき以降の大不況)になると事情が変わります。
右の表は、全国の自殺者も一気に3万人を越え、青木ヶ原樹海遺体発見数も、50体を越えるのが普通となります。
以前は、青木ヶ原樹海合同一斉大捜索というのがありました。
合同一斉大捜索とは、毎年毎年、富士山麓に雪が降る前の10月20日前後、警察署員や消防団や防犯協会の方々が総勢300人から400人ほど出て、朝から、樹海で自殺した方の遺体の大捜索を行う行事です。
小説が書かれてから11年目、青木ヶ原が自殺名所として「定着」?した1971年、山梨県富士吉田警察署と地元の消防団などが実施したのがその始まりです。
これ以後これは恒例の行事となり、2000年まで続きました。この一斉大捜索で、毎年数体の遺体が発見されていました。最後となった2000年は、4遺体が発見されました。
私は、小説『波の塔』が書かれたときは、まだ10歳でしたから、それによって樹海が自殺の名所になったことは同時代的には知りません。
しかし、毎年毎年行われるこの樹海大捜索をマスメディアが報道するのを聞いて、「そうか、富士山麓の樹海というのは自殺の名所なんだ」と知ったのでした。
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右の表は、この旅行記を最初にアップロードした以降も、折に触れて時点修正しています。 |
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年別全国の自殺者数 青木ヶ原樹海遺体発見数■
@自殺者数は、警察庁生活安全局地域課のデータ
A樹海遺体発見数は、富士吉田署の発表を新聞、インターネットなどで収集。Aは不正確な数値も含む。
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西暦年 |
自殺者数 |
樹海遺体
発見数 |
保護された人数 |
1978(S53) |
20,788 |
18 |
|
1979(S54) |
21,503 |
9 |
|
1980(S55) |
21,048 |
10 |
|
1981(S56) |
20,434 |
10 |
|
1982(S57) |
21,228 |
17 |
|
1983(S58) |
25,202 |
22 |
|
1984(S59) |
24,596 |
19 |
|
1985(S60) |
23,599 |
7 |
|
1986(S61) |
25,524 |
|
|
1987(S62) |
24,640 |
|
|
1988(S63) |
23,742 |
|
|
1989(H01) |
22,436 |
|
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1990(H02) |
21,346 |
31 |
|
1991(H03) |
21,084 |
21 |
|
1992(H04) |
21,104 |
21 |
|
1993(H05) |
21,851 |
39 |
|
1994(H06) |
21,679 |
57 |
|
1995(H07) |
21,445 |
53 |
|
1996(H08) |
23,104 |
44 |
|
1997(H09) |
24,391 |
55 |
|
1998(H10) |
32,863 |
73 |
|
1999(H11) |
33,048 |
68 |
|
2000(H12) |
31,957 |
59 |
|
2001(H13) |
31,042 |
59 |
63 |
2002(H14) |
32,143 |
78 |
83 |
2003(H15) |
34,427 |
105 |
|
2004(H16) |
32,325
|
|
|
2005(H17) |
32,552
|
|
|
2006(H18) |
32,155 |
77 |
115 |
2007(H19) |
33,093 |
83 |
126 |
2008(H20) |
32,249 |
70 |
161 |
2009(H21) |
32,845 |
45 |
195 |
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