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 気仙沼      | 先頭へ ||旅行行程図(目次)へ|12/03/19

 陸前高田市をあとにした私たちは、そのすぐ隣にある気仙沼市に向かいました。JR大船渡線の陸前高田駅から気仙沼駅までは、道路距離で19kmあまり、時間にして30分弱です。

【目次】
 南町・魚町 気仙沼湾奥西部 
 気仙沼魚港
 復興屋台村


 陸前高田市と気仙沼市は、国道45号で結ばれてる隣接する市です。ただし、この境が岩手県と宮城県の境となっています。国道45号は広田湾の海岸線に沿って高台をとおり、県境を越えると山側に入り、半島の付け根を横切って気仙沼の北側に出ます。


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、宮城県気仙沼周辺の地図です。


 南町・魚町 気仙沼湾奥西部 | 先頭へ ||目次と地図へ|

 正直、気仙沼についてはあまり予習をしていなかったので、市内のあちこちを訪問することはできませんでした。私たちは、ナビで気仙沼駅をゴールとしていたため、ナビは、気仙沼市街地の北部にある鹿折(ししおり)地区避けて、気仙沼バイパスのトンネルを抜けて、北西部から市街地へ入るルートを案内してくれました。
 おかげで、
鹿折地区の県道210号(東浜街道)とJR大船渡線鹿折唐桑駅との間に今も残っている「第十八共徳丸」(長さ60m、総トン数330トンの大型漁船)の姿を、写真に収めることはできませんでした。市街地の真ん中に打ち上げられたままのこの漁船については、モニュメントとして残すかどうかで、現在、賛否両論が巻き起こっています。
 また、細長い気仙沼湾に面した市街地のうち、南西部の気仙沼線の不動の沢駅・南気仙沼駅周辺の地域は、津波に襲われて市街地はほぼ全滅していましたが、その地区も、あえて訪問はしませんでした。

 では、どこに行ったのか?
 時間の関係と町のみなさんとふれあいを期待して、比較的復興のニュースが聞こえてきていた、気仙沼湾奥の西海岸部の南町海岸地区へ車を進めました。
 この地域は、湾から西方へ向いた谷を形成していることと比較的急に標高が高まることとのため、津波がまっすぐ進んで大被害をもたらした鹿折地区ほどは津波は遡上せず、標高5mの市役所は被害を受けましたが、標高17mの気仙沼駅までは津波は届きませんでした。
  ※2011年3月11日東北地方太平洋沖地震に伴う津波防災マップ
     日本地理学会災害対応本部津波被災マップ作成チーム
            http://danso.env.nagoya-u.ac.jp/20110311/map/index.html
     気仙沼  
http://danso.env.nagoya-u.ac.jp/20110311/map/584124Kesennuma2.jpg    

 それでも海に近い南町や魚町では、商店街は全滅し、大きな被害が出ました。 

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 写真03-01・02 交番横に横渡る漁船、壁を打ち抜かれた家    (撮影日 12/02/26)

 この地区は、壊滅的被害を受けたエリアはそれほど広くありませんが、それでも1年過ぎても、そこかしこに被害の爪痕が残っています。 


 写真03-03・04 海岸に近づくとあちこちに津波で崩壊した建物を撤去した空き地が目立ちます。(撮影日 12/02/26)

 右の写真の丸い渦巻き状の立体駐車場も、津波につかりました。この地域の推定津波浸水高は4.52mとのことです。
  ※原口強・岩松暉著『東日本大震災津波詳細地図上巻 青森・岩手・宮城』P46
 

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 気仙沼魚港 | 先頭へ ||目次と地図へ|

 気仙沼港に沿った海岸道路に行ってみました。気仙沼プラザホテルのすぐ東の道路です。
 あの日、この気仙沼湾を津波が襲いました。この附近で右手の建物の2階部分まで到達しています。
  ※You tube の映像の一つを紹介します。気仙沼市の3カ所で市民が撮影した映像をまとめたものです。
     http://www.youtube.com/watch?v=H7-QBph_N50
 まだ、所々に津波の爪痕が残っています。

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 写真03-05 海岸沿いの道路 前方が湾口              (撮影日 12/02/26)

 細長い気仙沼湾の南の湾口から湾奥へ向けて、ここが津波の「通り道」となりました。津波の高さは10m前後と推定されています。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P360、3.29
 宮城県は、海水面漁業・養殖業の生産額ランキングで、2009年では、北海道・長崎・愛媛についで全国4位の791億円でした。水産加工業でも2007年には2817億円で全国2位でした。
 湾奥の穏やかな海に面した気仙沼漁港は、立地条件に恵まれ、全国屈指の水揚げを誇る漁港でした。カツオやマグロなど遠洋・沖合漁業の水揚げ高は225億円に上り、全国8位でした。
 しかし、震災と津波で、どの漁港も大きな被害を受けました。
 特に小型漁船の被害は大きく、宮城県は沿岸部で操業している20トン未満の小型漁船13,000隻のうち12,000隻が流失したり焼失したと発表しました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』
                                             P191、3.21、P407、3.31
 

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 写真03-06 上の写真と同じ場所から反対側の湾奥の鹿折地区方面を臨んでいます   (撮影日 12/02/26)

 あの日は、この場所を津波がごうごうと通り過ぎていきました。向こう岸の浜町の津波浸水高は、9.17mとされています。
 もちろん、湾岸の製氷工場、加工場も壊滅的な被害を受けました。
  ※原口強・岩松暉著『東日本大震災津波詳細地図上巻 青森・岩手・宮城』P46

 被害は湾岸だけに留まりませんでした。津波によって長さ80m前後の大型漁船が5隻以上も内陸に流され、建物を破壊しました。鹿折地区の中心部に残されている「
第十八共徳丸」(長さ60m、総トン数330トンの大型漁船)は、写真奥の海岸線から950m程も陸地を上ったところに「打ち上げられたまま」となっています。
 しかも、津波のあとで、造船所の倒れた重油タンクから油が流れ、それに引火してあちこちで火災が生じました。鹿折地区は津波の破壊のあと火災で焼け野原となりました。
  ※毎日新聞社編『写真記録 東日本大震災 3・11から100日』P44-45(3.12_8:16am気仙沼)
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P19、3.13

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 気仙沼といえば、カツオマグロサンマ、そしてサメフカヒレ)です。
 壊滅的な被害を受けた気仙沼漁港でしたが、漁業従事者はあきらめずに復興に努力されました。それまでゆかりのあった日本各地の漁港の人々の支援もありました。
 震災時に漁に出ていた気仙沼の漁船は、被災した母港に戻れず、やむなく神奈川県三崎漁港・千葉県銚子漁港等で水揚げをおこないました。その三崎では、全国の漁業者からなる「日本かつお・まぐろ漁業協同組合」によって水揚げしたあとの空船に救援物資が積み込まれ、3月末には気仙沼に運ばれました。被災地の漁港を全国の漁業者が支援する形が実現しました。
  ※朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』P342、3.28

 気仙沼漁業協同組合では、地盤沈下した岸壁や津波で破壊された水揚げ設備の復興に努め、震災から3か月後の2011年6月23日には魚市場の再開を実現しました。  

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 写真03-07 復興されつつある気仙沼漁港              (撮影日 12/02/26)

 津波によって気仙沼の漁業は大きな被害を受けました。現在も港に打ち上げれらたままの漁船が見られます。その一方で、右手の魚市場は、迅速に修復されました。


 写真03-08  製氷工場と加工工場               (撮影日 12/02/26)

 写真左の白い工場は、気仙沼市浜町にある村田漁業製氷株式会社の冷蔵工場です。津波の直撃を受け、建物そのものは残りましたが内部はすべてのものが流されてしまいました。幸い当日勤務していた従業員の方に犠牲者なく、漁港の復活に合わせて整備を進め、2011年8月に操業再開を実現しました。
 写真中央は、食品加工のヤヨイ食品工業の気仙沼工場です。この工場も大きな被害を受けました。ここでも幸い当日勤務していた従業員の方には、犠牲者はありませんでした。
 ヤヨイ食品ではこのままではこの工場の操業再開は無理と判断し、規模はやや小さいながら、市内の高台に別に松川工場を建設し、食品加工を再開しました。
 魚市場の復活は、製氷業者なども含めた、関連業者の一体となった努力のたまものでした。
  ※以上の2工場については、直接電話で取材しました。お忙しいところご協力ありがとうございました。

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 漁業協同組合をはじめとする漁業者、水産加工業者、製氷業者などの努力・連携によって、6月再開された魚市場は夏から秋にかけて水揚げ高を増やしました。
 特に例年日本一を誇ってきたカツオの水揚げは、「復興のシンボル」として再開以来熱意を持って続けられ、11月末までの半年間に総計14,513トンが水揚げされて、
2011年も日本一が確定しました。これで15年連続です。
 ただし、カツオ水揚げ量は、2010年の4割ほどに留まりました。



 復興は成し遂げたものの、水揚げ量・金額とも、2011年は2010年の3分の1ほどに留まっています。 

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 写真03-09 お魚いちば(市内最大級の水産物直販施設)            (撮影日 12/02/26)

 このお魚いちばも、津波が1階の天井部分まで押し寄せて大きな被害を受けました。しかし、7月24日から営業再開し、私たちが行った時もたくさんの人で賑わっていました。


 復興屋台村 | 先頭へ ||目次と地図へ|

 震災のあとに復興したお店に行ってみようと、自動車を走らせていると、港のすぐそばに、「復興屋台村気仙沼横丁」というのを発見しました。
 あとで調べてみると、これは津波で大きな被害を受けた南町海岸地区のうち、元駐車場だったところに、11月12日にオープンしたもので、プレハブの仮店舗に22ほどの飲食店と物品販売店が並んでいました。
  ※復興屋台村 気仙沼横丁のHP http://www.fukko-yatai.com/

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 写真03-10 復興屋台村 気仙沼横丁              (撮影日 12/02/26)

 南町海岸通りの復興屋台村、飲食店が16店、物品販売店が6店です。


 写真03-11  屋台村入り口(撮影日 12/02/26)

 写真03-12 ホヤぼーや (撮影日 12/02/26)

 ホヤぼーやは気仙沼市観光協会のシンボルキャラクターです。 


 写真03-13 メインストリート(撮影日 12/02/26)

 写真03-14 うどんやさん (撮影日 12/02/26)

 写真03-15 うどんやさ (撮影日 12/02/26)

 写真03-16 男子厨房 (撮影日 12/02/26)

 本来麺類は大好きなのですが、やはり、漁港気仙沼に来たのですから、海産物を食さなければなりません。 

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 マグロ料理などいくつかの海鮮料理屋台がありましたが、ランチに海鮮丼をやっている、「男子厨房海の家」というお店を見つけて入りました。
 中へ入ると、名前のとおり、男性が厨房で働いておられます。早速、海鮮丼ランチを注文して、待っている間に、いろいろうかがいました。

「ご主人、遠いところから来た者なので、ぶしつけですけどいろいろうかがっていいですか?」

店主

「いいですよ。」

「この屋台の横丁はいつ頃から開店したのですか?」

店主

「昨年の11月からです。」

「以前もこの町で飲食店をやっておられたのですか?」

店主

「別の地区で、民宿をやっていました。気仙沼市の南の階上(はしかみ)というところです。11軒あった民宿は、津波で1軒を除いてみんなやられました。」

 後で「男子厨房海の家」のブログと紹介する関連新聞記事を見てわかったのですが、この店主のフッキーさん自身も、ご両親と妹さんを亡くされています。私との会話ではその話はされませんでした。
 ※『読売新聞』2011年11月16日宮城版
 ※男子厨房海の家ブログ http://ameblo.jp/dan-umi/entry-11100985584.html 

 帰ってから見た「復興屋台村気仙沼横丁」のHPの「男子厨房 海の家」紹介には、次のように書かれています。
「震災によりそれぞれ経営していた民宿と自宅を失った男三人が、失意の中から力を合わせて立ち上がった希望の店『
男子厨房 海の家』。津波ですべて流されてしまったが、料理の腕だけは流されていなかった!「お客様に料理を楽しんでいただくためには自分達が楽しく仕事をする!」を合言葉に、気仙沼の味と心を大事にして皆様のご来店をお待ちしております!」

「それで新しくこの屋台村でお店を構えたわけですね。民宿の再開というのは難しいのですか?」

店主

「さいわい、息子たちが元気で、それぞれ自分の仕事を持って頑張っています。つまり、民宿やっていたとしても跡継ぎがない状態だったのです。ここで、民宿を再開すると、巨額の投資が必要です。これから10年、15年働いても、その投資は回収できるかといえば、難しいでしょう。飲食店ならそれほどの投資は必要ではありません。幸い、民宿してましたから、料理はできます。そこで、仲間3人とこの店をやろうということになったわけです。」

「写真撮ってもいいですか。自分のHPで紹介したいのですが。」

店主

「どうぞ。開店以来、いろいろ取材がありまして、ずいぶん慣れました。宣伝いただくことは私たちにとっても、助けていただくことになります。」

「つい1時間前、陸前高田に行ってきました。陸前高田の中心部は、まだ1年前とほとんど変わっておらず、復興が進んでいるとは思えません。
 この気仙沼は、まだまだこの地区も瓦礫や壊れた店舗が残っていますが、魚市場やこのお店も含めて、いろいろ明るい話題があって、ほっとします。」

店主

「いや、魚の水揚げや臨時店舗など、少し復興したことは事実ですが、全体的にはまだまだです。気仙沼駅は無事でしたが、南気仙沼の方は、津波でひどくやられています。」


「私たち、ボランティアでも何でもない、ただの1日限りの観光客なんですが、なんか、申し訳なくて。」

店主

「何をおっしゃいます。わざわざ遠いところから来てもらって。観光、大いに歓迎です。たくさんの方がこの気仙沼に来ていただいて、気仙沼が賑わえば。」


 「復興屋台村気仙沼横丁」のHPには、次のように書かれていました。
「気仙沼全体で7割、南町はほぼ100%の飲食店が津波で流された気仙沼。 飲食業の復興マイルストーンとなる、この「復活 港町気仙沼プロジェクト<復興 屋台村 気仙沼横丁>」は、「港町 気仙沼」を支えるもうひとつの顔である、「飲食店の賑わい」を取り戻すために、仮設店舗をひとつのマーケットプレースに集め、「復興 屋台村」を開業・運営していく10年規模計画の起点です。
津波で流された飲食業主の仮設店舗を、「屋台村」の運営を通じて、長期的復興支援をすることで、地域の復興にとどまらず、地元民、ボランティア、多くの漁業関係者、観光客が集まる「被災地の観光化」の第一歩にして参ります。」


 写真03-17   3人の共同経営者の中で最年長の店主フッキーさん            (撮影日 12/02/26)

 元民宿経営者の男性3人のお店です。いろいろな困難があると思いますが、頑張ってください。

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 写真03-18・19  海鮮丼ランチとふのりの味噌汁です      (撮影日 12/02/26)

 内陸民の岐阜県人にはたまらない、とても新鮮でおいしい海鮮丼でした。限定数の売り物で、私たちが最後になりました。ラッキーでした。右は布海苔の味噌汁です。布海苔もたくさん買ってきました。 


 カツオの水揚げはかろうじて復活し、商店街の復興も何とか緒に就いた気仙沼です。
 しかし、ここも復興が順調かといえば、決してそうではありません。
 いくらこの町に住みたいと願っても、それらの人々がこの町で生計を立てることができなければ、復興は現実化しません。2012年2月現在の気仙沼の有効求人倍率は、0.47とのことです。

 まだまだ、これからです。
 「成功」「復活」のニュースはほんの一部だけで、多くはまだ模索中というべきでしょう。NHKの番組の中で気仙沼の方がおっしゃっていいたことが印象的です。
「今も苦しんでいる気仙沼を忘れないで欲しい。」
  ※NHKテレビ番組『明日へ~震災から1年~ふるさと宮城の復興は』(12.03.11 10:05~11:54放映)
 がんばれ気仙沼、がんばれ陸前高田、がんばれ東北、そしてがんばれ日本。

 これで、東北旅行、蔵王・南三陸旅行記を終わります。最後まで読んでいただいてありがとうございました。


 【蔵王・南三陸旅行3 東日本大震災の被災地 陸前高田 参考文献一覧】
  このページ3の記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

朝日新聞編『朝日新聞縮刷版 東日本大震災特別紙面集成 2011.3.11~4.12』(朝日新聞社 2011年)

毎日新聞社編『写真記録 東日本大震災 3・11から100日』(毎日新聞社 2011年)

原口強・岩松暉著『東日本大震災津波詳細地図上巻 青森・岩手・宮城』(古今書院 2011年)

 

気仙沼漁業協同組合HP http://www.kesennuma-gyokyou.or.jp/ 

  復興屋台村 気仙沼横丁のHP http://www.fukko-yatai.com/ 
  復興屋台村 気仙沼横丁 男子厨房のブログ http://ameblo.jp/dan-umi/ 


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